29―1 想い人と演奏会 その1
「えっ、演奏会?」
「いや、忙しいんなら無理とは言わないけど……」
「行く行く! 絶対行くわよ! じゃあまた日曜日ね」
バイトが終わったタイミングを狙い、講師控え室で浅井先生に声をかけてみた。ここなら椿に盗み聞きされるおそれも無い。
結果は思っていた以上に好感触で、浅井先生はスキップでもせんばかりに去っていった。あれだけわかりやすく喜んでくれると、かえって恥ずかしいな……
ともかく、首尾よくデートの約束は取り付けられた。それもクラシック音楽の演奏会だ。なんとなくいい雰囲気になりそうな気がする。
諸星に感謝したい気持ちになる日が来ようとは。
諸星とリーちゃんの所属する交響楽団は大学公認サークルで、100名以上の団員が所属する一大組織だ。
今回、諸星はサン=サーンス作曲の『死の舞踏』でコンサートマスターをやるらしい。
コンサートマスターとはどのくらい偉いのか、と諸星に尋ねたところ、「指揮者が学級担任の先生だとしたら、コンサートマスターは学級委員長みたいなもの」という、わかるようなわからんような答えが返ってきた。サブリーダー的な立場なのか?
『死の舞踏』という曲ではヴァイオリンのソロもあるらしいので、諸星が花形奏者なのは事実なのだろう。
「俺のイケてるとこ見て惚れんなよお、流石の俺も男は食えねえから」などとふざけたことを抜かしていたので、ミスを見つけて散々つついてやろうと思う。
他にも『コッペリア組曲』(コッペパンみたいな曲名だ)、『ショスタコーヴィチ交響曲第5番』やらを演奏するらしいが、さっぱりわからん。
何なんだショスタコーヴィチって。発音しづらすぎるだろう。
『ショス5』と呼ばれるその曲は、諸星曰く「ショスタコはアガるぞお。指つりそうになるけど」、リーちゃん曰く「シンバルを叩けるのが楽しいです。10分以上じっとしてる場面もありますが……」という評価であった。
よくわからんが演奏者にも色々と苦労があるらしい。
また、浅井先生を誘ってから知ったのが、いわゆる『ショス5』はソ連のスターリン政権下に作られた曲らしく、なかなか物騒な曲のようだ。『死の舞踏』もタイトルからして陰気だし、全然デート向きじゃねえじゃん……
とは言え、ようやく浅井先生と二人で出かける口実ができたのだ。楽しまなければ損というものだろう。
椿の妨害だけが懸念材料ではあるが……まあ、その時はその時だ。
演奏会の会場は阪神尼崎駅の近くにあるため、駅前での集合にした。
家を出るときから周囲には十分警戒したが、椿がついてきている様子は無い。ここまで電車に乗ってきたが、さすがに電車内には隠れる場所も無いし、今日はおそらく椿のストーキングも休業なのだろう。
アイツ、たまに休日でもこっそりつけてきたりするしな。和歌山県にある俺の実家までついてきやがった時は、高野山に埋めてやろうかと思ったものだ。
いかんいかん、折角のデートだというのに椿のことなど考えていては魂が穢れる。目の前のことに集中せねば。
気を落ち着けるためミント味のタブレットを口に放り込むと、浅井先生が手を振って近づいてくる姿が目に映った。
今日はいつものポニーテールではなく髪を下ろしているようだ。ブラウンのニットにベージュのロングスカートと、上品なスタイル。
普段のスタイリッシュなパンツスタイルとはだいぶ雰囲気が異なるが、よく似合っていてつい見とれてしまう。
「武永先生? ぼーっとして大丈夫?」
「ああ、いや。ちょっと寝不足でな」
「ふふ、演奏中に寝ちゃだめよ。それにしても来るのが早いわね。待たせてしまったかしら」
「いや、俺もさっき来たところだよ」
「そう?」
もちろん嘘である。本当は30分前に来ていた。我ながら浮かれすぎで恥ずかしくなる。
「実は私も早く来すぎて、近くのカフェで時間を潰してたんだけどね」
恥ずかしそうに自分の左耳を触る浅井先生の仕草に、心臓がトクンと動いた。これだよ!俺が求めていた大学生活は!
とは言え経験値の低い俺には気の利いた返しなどできるはずもなく、不器用な笑顔で「とりあえず会場行くか」と言うくらいが関の山だった。
開場10分前だというのに、コンサートホール前にはすでに相当な数の人が集まっていた。毎回1,000人以上の客入りがあると話には聞いていたが、それだけの人数を目の前にするとやはり迫力が違った。
「すごい数ね……アマチュアの演奏会とは思えないくらい」
「浅井先生はクラシックの演奏会とかよく行くのか?」
「家族で何度か行ったくらいだけどね。ウィーン・フィルが来日してた時とか」
ウィーンって……オーストリアの楽団か? そんな大層なものを聴いてるとは、やはり浅井先生はなかなかのご令嬢のようだ。まあ、おばあさんの家も豪邸だったしな……
庶民的な家庭で育った俺で彼女を満足させられるのだろうか。少し不安になってきた。
諸星が豪語するだけあって、演奏会は素晴らしいものだった。どの曲も聞き惚れてしまうクオリティだったが、特に諸星がソロを弾いた『死の舞踏』が印象に残っている。
大胆でいながらも繊細にソロを弾く諸星が図抜けていたが、そこにぶつかっていくリーちゃんの鉄琴も鬼気迫るものがあった。
おそらく二人だけで合奏練習もしたのだろう。素人耳にもわかる息の合い方だった。
これまでは諸星がなぜモテるのかさっぱりわからなかったが、確かに奴が楽器を演奏する姿は格好いい。悔しいが、そこは認めざるを得ない。
その格好いい面をもう少し普段でも見せてほしいものだ。
浅井先生も満足そうな様子で、あの曲のこの部分が良かったなど、嬉しそうに語ってくれた。
うん……これはどう考えてもチャンスだろう。ここで攻めねば男ではない。
「えーっと、浅井先生はこの後用事とかあるのか?」
「いえ、あとは家に帰るだけよ」
「あの、まだ、遅くないし……良かったら晩ごはんでも、どうだ?」
「あっ、そ、そうね。お腹も空いてきたし……」
ぎこちないながらも第一関門は突破できた。今日こそこのもどかしい関係を進展させたいものだ。
並んで歩く俺と浅井先生の距離は15cmほどもない。互いの息づかいが聞こえそうなほどの距離である。
どうしよう。こういう時は手とか繋いだ方がいいのだろうか。いや、でもまだ付き合ってるわけでもないし……
浅井先生に悟られないよう俺があれこれ逡巡していると、ゆらりと黒い影が行く手を遮った。
「あら、あら、あら。奇遇ですねえ先輩。こんなところで会うなんて」
クソッ、ここで出やがったか怨霊め……




