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21 ヤンデレと文学部

 この前の一件以来、椿が浅井先生に妙なことをしないか注視してきたが、特段おかしなことは何も起こっていない。

 浅井先生は元気にバイトへ出勤してくるし、椿も普段通り俺にねっとりと絡んでくる。平穏すぎるほどの日常で、逆にそれが不気味である。

 このまま何もなければ、とは願うもののそんなに都合よくはいかないだろう。椿がいつ何を狙っているのか、可能な限り見定めなければ。気は進まないが、逆ストーキングでも試してみるか?


「先輩、真剣な顔してどうしたんですか?」


「うおっ、椿か……驚かすなよ」


「ずっと真後ろにいたんですけどねえ」


「それはそれで怖いからやめろ」


 椿はやはり今までと変わらない様子でヘラヘラと笑っている。その仮面の裏に浅井先生への怒りを隠しているのだろうか。もしかして浅井先生が俺に抱きついたことも忘れている、とか。流石にそれは無いか。


「で、先輩は何を考えてたんですか?私もう心配で心配で」


 椿にこちらの思惑を知られるのはなんとなくマズい気がする。何とか誤魔化さなければ。


「ああ、その……バイト先の高校3年生で、進路に迷ってる子がいてな。文学部に行きたいみたいなんだが、就職とか大丈夫かなって。文学部所属の椿の意見を聞かせてもらえないか」


 バイト先で進路に迷っている生徒がいるのは事実だが、別に俺の受け持ちではないのでこんなことを聞く必要はない。ただ今は適当に話題を振って椿をどうにかやり過ごしたかった。


「そうですねえ。大学によっても色々ですから一概には言えないですが、文学部を選ぶのは面白い選択だと思いますよ。少なくとも私は文学部に入ったことを後悔したことはありません」


「へえ……そもそも文学部って何をやるところなんだ? 文学研究?」


「もちろん文学研究も一部ではありますが……そもそも文学部は、『文学』だけを学ぶ場所ではなく『文化』全般を学ぶ場所なんですよ。だからうちの大学だと文学先行の他に、社会学、心理学、芸術学に言語学。地理学や美術史学なんかもありますねえ」


 そんなに手広く勉強できるのか。話題逸らしのつもりで訊いてみただけだったが、にわかに興味が出てきた。自分が教師になる可能性もあるわけだし、ここは詳しく聞いておきたい。


「それで椿は何の専攻なんだ?」


「私は日本文学です。まだ研究分野まで決めたわけではないですが、近代文学の作品で卒論でも書こうかなと」


「近代っていうと……明治から昭和のはじめあたりか?」


「よくご存じで。いわゆる『文豪』と呼ばれる人が多く輩出された時代ですね」


 おお……普段の椿からは想像もできないほど、まともに会話が成立している。これまでのやり取りから椿はただの異常者だと思っていたが、常人らしい会話もできるようだ。

 それに「本庄椿は武永と関わらない限り結構まとも」という噂も聞いたことがあるが、どうやら本当なのかもしれない。

 今まで完全に諦めていたが、もしかしたら椿にも更正する余地があるのだろうか。


 それはともかく、もう少し文学部の話を聞いてみたい。


「失礼な言い方なんだが、文学研究とかって社会にどう役立つんだ? わざわざ大学で研究されてるくらいなんだから何かしら社会に貢献してるんだろうけど、理系学問と違って有用性がわかりにくいというか」


「気持ちはわかります。私も文学部に入るまではよくわからなかったですからね」


「それでよく文学部入ったな」


「好きなことは深掘りしないと気が済まないんですよ。それはそうと、文学研究には社会的意義もあります」


「どういう部分で?」


「たとえば森鴎外の『阿部一族』なんかは武家社会の価値観がうまく表現されていて、歴史的に価値があります。それが現代の日本人にどう影響を与えたか、とかを突き詰めても面白いでしょうね」


「なるほど」


 歴史的な価値、というのであれば俺にもわかる。人が歴史に学ぶことは多い。人類は同じ過ちを繰り返しがちな生き物であるため、戦争や貧困、不当な差別等を避けるために過去の事例を参照することは有用である。

 また過去の価値観を学ぶことで、現代の人間に足りない部分や、逆に現代の人間が持っている倫理観の意義を再確認することができる。


「他にも中島敦の『悟浄歎異』なんかも面白くて、これは『西遊記』のカッパ、沙悟浄が主役のお話なんです。沙悟浄の目線から見た孫悟空、猪八戒、三蔵法師の長所と短所の分析が描かれている作品です。豪快だけど大雑把な孫悟空、鷹揚であり怠惰な猪八戒、貧弱だけど情けの深い三蔵法師と、様々な性格の持ち主を観察することで、多様性の重要さを思い知りましたねえ」


「ふーん……椿、お前もたまには勉強になる発言するんだな」


「惚れ直しました?」


「そもそも惚れてない」


 椿の長弁舌に巻かれて感心しかけたが、よく考えるとコイツはそれだけ色々学んでも倫理観崩壊してるよな……それって結局勉強する意味が無いような。


「なあ椿、文学部の意義はわかったけど、それでお前が違法行為してたら説得力ないんじゃないか?」


「そんなことないですよ。私も昔はもっとヤンチャでしたから、これでもだいぶまともになった方です。今だって、何とか合法的に浅井さんを始末する方法を考えてますしね」


「合法ならセーフ、みたいな考え方を改めような……」


 今でも椿はかなりアナーキーだというのに、それ以上悪かったって……一体どんな所業に及んできたのか。

 あんまり深く考えないでおこう。


「そう言えば文学部の人ってどこに就職するんだ? 出版社?」


「それもありますが、他にも色々ですね。広告代理店や不動産業、物流業、金融業、建設業、教師や地方公務員まで何でもありです」


「意外とバリエーションあるんだな」


「実際のところ、就職率は大学のネームバリューによるんじゃないですかね。うちみたいな国立大なら何とかなるらしいですよ」


「前も思ったがお前意外と将来のこととか考えてるんだな」


「私たちの明るい未来のためですから」


「『たち』って何だ。まさか俺を含めてないよな?」


「うふふ」


 やはり椿は不気味だが、話の内容自体は参考になった。いくらか礼もしてやらないとな……


「では受講料として結婚してください」


「対価が高すぎる。消費者庁に訴えるぞ」


「とりあえず同棲からでもいいですよ」


「譲歩になってない!」


「とりあえず一回だけ。人助けだと思って、ね?」


「詐欺の常套句じゃねえか」


 椿を見直そうかと思っていたのがバカらしくなってきた。やっぱりコイツは信用ならない。しばらくは浅井先生を見守っていた方が良さそうだ……

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