X3―1 ヤンデレと色敵 その1
朝、目覚めると手足が縛られていた。前にもあった展開だ。
犯人は考えるまでもなくわかっている。卵焼きの焼ける香ばしい匂いに怒りを感じる日が来るとは、自分でも驚きだ。
「あら先輩、おはようございます。もう少しで朝ごはんできますからねえ」
牛乳の入ったコップを二つ机に並べた椿はニタニタした笑顔をこちらに向けた。
今すぐ部屋から蹴り出してやりたいが、この緊縛はちょっとそっとで抜けだせそうにない。
両手足・両足首がそれぞれ縛られている状態のため、ジタバタすることしかできないのだ。
千佳の蛇が助けてくれることも一瞬期待したが、それならとっくに現れてるか。
いない者を頼っても仕方ない。別の手段で何とか切り抜けないと……
「いいからこれを解け、バカ」
「先輩、卵焼きはお醤油で味付けする派ですよね。私はだし巻き風にする方が好きですが、同棲したら日替わりでいきましょうか。ちなみに今日は先輩の好きな醤油味ですよお」
まるで会話が成立しない。そもそも両手両足縛られた状態でどうやって食事を取れというのか。
卵焼き程度ならまだしも、汁ものとか絶対食えないだろこれ。味噌汁で溺死とか恥ずかしくて死ぬに死ねないんだが……
どうにか脱出する方法は無いか、と眠い頭をひねり続けていると、いつの間にやら椿が二人分の配膳を済ませていた。
ご飯に卵焼き、味噌汁に漬け物と理想的な日本式朝食だ。
認めたくはないが椿は料理が上手い。朝の空きっ腹にこの匂いは堪えるな。
椿から無理やり食わされるのは不快だが、腹ごしらえしないと始まらない。我慢して食ってやるか。
「いただきまーす」
椿は机の前に座ると、一人で味噌汁をすすり始めた。いりこ出汁の香ばしい匂いが部屋を柔らかく満たしている。
……待てよ。アイツなんで一人で食べ始めたんだ。しかも俺の箸が用意されてないぞ。
まさか、そういうタイプの拷問か?
「オイ椿、なんでお前だけ……」
「もちろん先輩にも食べさせてあげますよ。朝の挨拶が終わったら、の話ですが」
「挨拶?」
「おはようのキスですよ。それが無いと一日が始まりませんよね?」
「死ね」
精一杯の呪詛を込めたつもりだが、椿はニヤリと笑って今度は卵焼きをつつきだした。
餓死するまで続けるつもりか、コイツ。だんだんトイレにも行きたくなってきたし、このままだと色々まずい。
なんとか緊縛を解けないかもぞもぞ動いていると、腹からぐるるる! と盛大な音が聞こえてきた。
「先輩、無理は良くないですよ。早く食べましょう?」
「うるせえ。これが解けたらその味噌汁をお前の顔にぶちまけてやるからな」
「ダメですよ、食べ物で遊んじゃ」
「人の身体的自由を弄んでるお前に説教されたくないが」
「身体だけで済んでる間に降参しちゃいましょ? ね?」
「精神の自由まで奪うつもりなのか……だいたいお前はいつもどうやって侵入してんだよ」
そう、コイツがこんなに何度も何度も侵入してきやがるのは明らかにおかしいのだ。
マンションのオートロックだけなら突破する方法はいくらでもあろうが、部屋まで入り込むのは容易じゃない。
合鍵を作るにはまず俺の鍵を借りる必要があるわけだが、こんな奴に鍵を貸した覚えはないし……
ベランダから侵入されたこともあったな。いくらコイツが妖怪じみてるからって、毎回4階までよじ登ってきてるわけじゃなかろう。
誰かしら共犯者でもいるのだろうか。しかし誰が? どうやって?
「お悩みですねえ、先輩。じゃあ大ヒント。私一人じゃこんなに何度も出入りはできませんよ」
「何がヒントだ。共犯者がいることくらい俺にもわかってんだよ」
「でもそれが誰かはわかってないでしょう? うふふふふ」
「チッ……」
確かに、椿に協力している人間が誰かはさっぱりわからない。
おそらく俺の家に出入りしたことのある人間だろうから、その辺りから考えてみるか……
特に頻繁に来ているのは諸星とリーちゃんだが、俺はこの二人を信じている。
諸星はちょっと怪しい部分もあるが、それでも合鍵を作って横流しするほど根性は腐ってないはずだ。
他には浅井先生や村瀬も候補には上がるが、この二人も俺を裏切るとは思えない。
浅井先生はうっかりしているものの、椿に鍵を渡すほどの大ボケをかますことはないだろう。
あとは椿の友人……モアちゃん、麻季ちゃん、伊坂だがコイツらのことはそもそも警戒しているし、合鍵を作るような隙を与えていない。
しかしそうなると、もはや怪しい人物がいないのだ。
見落としている人物はいないか? 俺の身近にいる人で、合鍵を作ることが可能な人間……
まさか俺自身が何かの弾みで鍵を渡したとか? いやいや、一番ありえないな。
「つまらない詮索は中止して、そろそろご飯にしませんか? 大根のお味噌汁もいい味出てますよ」
「いらねえよ。これ解いて帰れ」
「しょうがない先輩ですねえ。じゃあ私から目覚めのキスを……」
細く青白い椿の顔面が迫ってくる。頭突きでも食らわしてやろうかと思った瞬間、頭がガッチリとホールドされた。
ただでさえ馬鹿力の椿を相手に、両手足が縛られた状態じゃ暴れることすらままならない。
視界のすべてが椿の顔で埋まる。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
互いの唇が触れるまであと5cm、3cm、1cm……
「いっ……痛ァい!!」
ざまあみろ。
椿が叫ぶと同時に鮮血が俺の顔に飛び散った。悪魔みてえな奴だが血は赤いんだな。
「ずいぶんな歓迎ですね。人の唇を噛むだなんて……」
「お前が望んだことだろ。知ってるか? チンパンジーは噛みつくようなキスをするんだぜ」
「野生的で悪くなかったですよ」
口から血をしたたらせながら猟奇的に笑う椿。まあ、この程度で怯みはしないか。
軽くやり返せただけでも良しとしよう。
互いに睨み合う状態が続く。視線で呪詛を送っていると、玄関先で何やら物音が聞こえた。
玄関ドアの開いた音のように聞こえたが、まさか救援か? こんなに早く?
椿も物音に気づいたようで、一旦停戦といわんばかりに廊下へ続く室内ドアを二人で睨む。
そして、ドアを開いて現れたのはあまりにも意外な人物だった。
「お、お前は……」




