X2―4 ヤンデレと難敵 その4
ドアの前で待つこと2時間半。まだ中から物音すら聞こえてこない。
ドアポストから覗いてみると、煙が立っている様子は見えるのだが……
「なあ椿、もう2時間以上経つが……」
マンションの廊下とはいえ、もう冬も近いのでだんだん冷えてくる。
寒さに震えつつじっとしているというのも落ち着かないものだ。
手癖でドアノブを掴んでしまった俺の手を、椿が制した。
「焦らないでください。今のタイミングで入ったら先輩が『肺積』に憑かれるかもですよ」
「そりゃ勘弁だ。しかし待つだけってのもじれったいよな、リーちゃん」
リーちゃんはいつもの無表情でマンションの廊下から見える電柱のあたりを眺めていたが、返事はかえってこない。
反応の薄さが不安になってリーちゃんの手を握ってみると、彼女の手のひらは汗でしっとりと濡れていた。
俺の声も届かないくらい緊張していたんだろうか。
「先輩。なんでリーちゃんと手を繋ぐ必要があるんですか。それも私の前で。当てつけ? 当てつけですか?」
斜め下から睨みつけてくる椿を見ないようにして、リーちゃんの手を優しく、それでいて強く握ってやるとようやく彼女が俺の顔を見た。
やっぱり無表情なはずなのに、その目はどこか潤んでいるように見えて。
「大丈夫だリーちゃん。今回うまくいかなくても、別の方法も探してみるから。必ず、何とかするから」
「カッコいい台詞言ってますけど先輩無策でしたよね? 聞いてます? ねえ先輩」
俺の言葉を受けてリーちゃんは小さく頷いた。互いの視線がぶつかる。彼女のくりくりした目の奥に、安堵の光が少し灯ったのを俺は確かに見た。
「なんでちょっと良い雰囲気出してるんですか? しかも頑張った私を置いてきぼりで? ねえ先輩おかしいでしょう」
ブツブツ恨み言を呟く椿を無視し、リーちゃんと二人ドアの方をじっと見守る。
諸星が助かるきっかけは作れたのだ。あとはアイツの意志の強さを信じるしかない。
さらに30分ほど時間が経ち、苛立った椿が俺たちの手を無理やり引き剥がした瞬間、ドアノブがカチャリと力なく回った。
三人、固唾を飲んで次の展開を見守る。
ドアからのっそり出てきたのは生気を失った顔の諸星。
落ち窪んだ目で何事かブツブツ呟いている様子を見るに、儀式は失敗してしまったのだろうか……
「ボシさんっ……!」
たまらずリーちゃんが駆け寄ると、諸星の暗い目が彼女の姿を捉えた。
一応意識はあるのか? それにしてはずいぶん暗い表情だが……
「やべえ殺される……コンミスに殺される……一週間かあ……パー練が……やべえ……」
リーちゃんに揺さぶられる諸星はよくわからないうわごとを言っていた。
儀式がうまくいかず頭までやられてしまったのだろうか。
「なあ椿、あれってやっぱり失敗だよな?」
「どうでしょうね。ちょっと試してみましょうか」
椿は諸星にゆっくり近づくとスマホをアイツの耳元にあて、何やら音楽を再生し始めた。
俺の位置からはハッキリ聞こえない、大人しい感じの曲調だが……
「あああぁぁぁ! 3楽章! ラルゴ! ボウイングさらわないと死ぬ!」
今度は諸星が騒ぎ出した。あまりの声量に俺は腰を抜かしそうになったが、よく見るとリーちゃんはほっとしたように胸を撫で下ろしている。
「どうした? どういう状況なんだ?」
「とりあえず儀式は成功したっぽいです。それはそれとして、しばらく部活を休んでいたことで諸星さんはショックを受けてるみたいですね」
「事情はわたしが説明しましょう」
いつの間にか俺の脇に立っていたリーちゃんが、下から声をかけてくる。
心臓に悪いので瞬間移動みたいな真似はやめてほしいのだが……
「今度の演奏会、メインでやる曲のコンミス……ヴァイオリンパートのリーダーが厳しい方なのでああなっているわけです。ご愁傷さまですね」
すっかり平静を取り戻したリーちゃんは合掌してみせた。一方、諸星はドアの前でまだ悶えている。
頭を抱えてブツブツうわごとを唱え続ける姿は、まるで別の妖怪に取り憑かれたような雰囲気だ。
「いいのか……? あの状態で」
「復活さえすればボシさんは何とかなりますよ。あれでも中プロ曲のコンマスですからね。これからボシさんと学生会館に行ってきます」
呻く諸星の尻を叩きながら、リーちゃんはエレベーターのある方へと向かった。
いつの間にか諸星はヴァイオリンケースを背負っており、準備万端ではあるらしい。
嫌々ながらもやる気が出てるってことは「肺積」は無事うつせたのだろう。
エレベーターに乗る直前、諸星が首だけこちらに向けて話しかけてきた。
「俺の部屋で倒れてた子、椿ちゃんの友達だろお。回収してやってくれよ」
諸星の奇体のせいで忘れかけていたが、麻季ちゃんの世話もしてやらないと。
倒れた拍子にケガとかしてなきゃいいんだけど。
煙を吸い込まないようまず換気を行い、注意しながら部屋に入る。
楽譜やらオイルやらが転がる部屋の中央で麻季ちゃんが横になっているのを見つけた。
目を瞑っているところを見ると、眠ってしまったのだろうか。
椿と二人で彼女を揺すってやると、とろんとした目でこちらを見上げた。
「椿ちゃん……おはよ……なんだかすごく眠くて……」
「はいはい。そのまま寝てていいわよ。先輩、儀式は無事成功みたいですね」
「そうだな。助かったよ」
「では約束通りリーちゃんには近づかないでくださいね。破ったら針千本飲ませますよ」
「わかったよ。お前の場合本当に飲ませてきそうだしな……」
これで一件落着、というわけか。
もう何も後顧の憂いなど無いはず。そのはずなのに、何故か妙にスッキリしない。
麻季ちゃんに騙し討ちをしかけた罪悪感だろうか?
いや、結果的に彼女の単位が確保できるなら悪いこととは限らない。
なのにこの違和感はなんだ。まるで旅行先で鍵の閉め忘れに気づいたような、漠然とした不安感。
なんと言うか、「ズル」をしたような感覚……
その正体もわからないまま、俺たちは諸星のマンションを後にすることになった。
帰り道、椿がやけに上機嫌なのが気になったが、次の日にはそれも忘れていた。
なお、無気力状態を脱した麻季ちゃんがギャンブルを辞めたかというと、全然そんなことはなかった。
今日も元気に競馬場へと向かっているらしい。
人の本性なんてそうそう変えられるものじゃないよな……




