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D2―5 藪蛇 その5

 千佳が去ったあの日から2週間が過ぎた。


 あれから千佳は、俺の家に帰ってこないどころか、スマホに連絡しても返事一つ来ないようになってしまった。

 千佳の顔見知りの農学部生に話を訊いてみたところ、大学にすら顔を出していないらしい。

 美人だからか学部内でも目立つ存在ではあったようだ。千佳の姿が無いことはちょっとした噂になっていた。


 大学当局に問い合わせても、個人情報保護が云々と言われて追い返されただけだった。

 しかも「事件だったらどうするんだ」と怒鳴ってしまったため、出入り禁止を言い渡される始末だ。

 手がかり一つ掴めないとは……なんとも不甲斐ない。


 俺の実家にも訊ねてみたが、千佳はそちらにも寄っていないようだった。

 うちの母も別筋で情報を集めてくれているらしいが、未だ有益な情報は得られず。


 端的に言って千佳の捜索は混迷を極めていた。






「あらあら先輩、ずいぶんお困りのようですねえ」


「椿、てめえ……!」


 中庭のベンチで一人頭を抱えていたが、ニヤけた面の椿が現れた瞬間、反射的に奴の胸ぐらを掴んでしまった。

 突発的な反応に自分でも驚いたが、人が悩んでいる時にヘラヘラしている椿も悪い。


「苦しいですよ先輩。乱暴なのがお好みなんですねえ」


「よく俺の前に顔を出せたな、お前」


「何か誤解されているようなので言っておきますが、蛇娘を困らせているのは私じゃありませんよ。前にも言った通りです」


「信じられるかそんなもん!」


「別に信じなくてもいいですが、空箱をひっくり返す暇があるなら蛇娘を探す方に注力した方が良いかと」


 思わず手から力が抜けていく。椿の意見を受け入れるわけじゃないが、確かにコイツと言い争っていても益は無さそうだ。


 それに、この落ち着き払った様子。どうやら椿が犯人でないことは事実のようだった。

 もしコイツが犯人ならもっと楽しげにヘラヘラ俺を煽ってくるだろうし……


 無関係の人間に手荒な真似をするとは、頭に血が昇りすぎだ。我ながらずいぶん切羽詰まっているな。


「すまん。ここのところ眠れてなくてな」


「それはそれは。私が添い寝してあげましょうか?」


「余計寝れなくなるだろうが」


「ドキドキしちゃいますもんね」


「動悸がするの間違いだろ」


 椿とのいつものやり取り。不快感はあったが、お陰で冷静さを取り戻せてきた。

 そこでふと、先ほどの椿の発言を思い出す。

 さっきの会話に見落とせないヒントがあったような……


 ああそうだ、もしかしてコイツ……!


「おい椿、お前さっきなんて言った?」


「添い寝ですか?」


「そっちじゃねえ。『千佳を困らせてるのは自分じゃない』って言いやがったよな」


 俺の確認を受けた椿の唇が裂けるように広がる。

 あまりに醜悪な笑みに思わず目を逸らしかけたが、ここで逃げてはいけない。

 コイツこそ、地獄に垂らされた蜘蛛の糸なのだから。


「ええ、蛇娘を苦しめているのは私じゃありません。それがどうかしましたか?」


「じゃあ『誰』なんだ? 知ってるんだろ、お前」


「さあ、どうでしょうねえ」


 後ろ手を組んだ椿は、ベンチに腰を下ろした俺の正面に立って右へ左へウロウロと歩きだした。


 当然タダでは情報はくれないか。俺はいま悪魔と取引をしているのだ、生半可な覚悟で挑むわけにはいかない。


「最近姿を見ないと思ってたら、千佳の背景を探ってたんだな。遠回しなことしやがって」


「でもそのお陰で蛇娘の行き先もわかりそうじゃないですか。感謝してくれてもいいんですよ?」


「ガセネタだったら許さねえからな」


 とは言ってみたものの、椿の諜報能力を考えればコイツはかなりの確度で千佳の近況を掴んでいるだろう。

 まさかストーカー癖が役に立つことがあろうとはな……

 人生、何が起こるかわからないものだ。


「で、実際千佳はどのくらいヤバいんだ?」


「んー……少なくとも、蛇娘の人生はお先真っ暗でしょうね。自由も喜びもない、退屈で無聊で無機質な生活。それがずっと続くでしょう」


「そうか……」


 なんとなく嫌な想像はしていたが、最悪の一歩手前くらいだな。 

 早く千佳のところへ行かないと、何もかも手遅れになってしまうかもしれない。


「千佳を助けたい。協力してくれないか」


「そうですねえ。蛇娘の現状を教えてほしければ、3日くらいは私と同棲してくれないと……」


「ふざけるな。話にならん」


「ふぅん。なら交渉は決裂ですね。蛇娘のことは諦めてください」


「そういう意味じゃねえよ」


 そこでピタリと椿の動きが止まった。俺に左半身を向けた姿勢で、首だけこちらへ向き直してくる。

 不可解そうな表情だ。さすがに俺の意図は読めていないらしい。


「俺はどうしても千佳を助けたい。そのためなら何だってやる」


「なるほどなるほど……大きく出ましたねえ」


 千佳が困っているのはおそらく彼女の実家絡みだろう。

 蛇使いの一族。凡人の俺が一人飛び込んだところで、蛇に噛まれてやられる結末は見えている。


 せめて何人か協力者が欲しい。それも、できるだけ有能な人間が。


 椿はどうしようもない奴だが、化物じみた知識や精神力、行動力を持っているのも事実だ。これを利用しない手は無い。

 それに、蛇屋敷と思われる千佳の実家を訪ねるのには相当な危険を伴うだろう。

 そんな危険地帯に付き合ってくれる人間はなかなかいないものだ。


 あらゆる観点から、今回の俺の戦いには椿が必要なのだ。


「先輩のおともをするのは構いませんが、相応の報酬はいただきませんとねえ。命がけの旅になるでしょうし」


「わかってる。タダでお前に命を張らせるつもりはねえよ」


「では、こちらの書面に記入・押印いただきましょうか」


 椿が黒いレザーバッグから取り出したのは、A3サイズの無機質な記入用紙だった。

 タイトルを確認するまでもない。コイツが持ち歩いている届出用紙なんて一種類しかないからだ。


「今すぐ書けとは言いませんよ。マリッジブルーって男性も罹るらしいですからねえ。また明日にでも……」


「迷ってる暇はねえんだ。よこせ」


「男らしいんですね。惚れ直しちゃいそう」


 俺は椿から奪った婚姻届に名前を書き、印鑑を押した。

 汚い走り書きだが、これでいい。今優先すべきは俺の人生ではないのだから。


 これで椿から離れることはできなくなったが、千佳を救うためならやむを得まい。

 どんな犠牲だって受け入れるさ。その覚悟はとっくにできている。



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