D2―4 藪蛇 その4
駅から少し離れた位置にある居酒屋。その個室席で俺と千佳は向かい合っている。
20歳に満たない千佳をこんなところに連れてくるのは気が引けたが、打ち明け話をするにはうってつけの場所なのだ。
家の中で話すと静かすぎるので、空気が重くなってしまいかねない。
他人の話し声がうっすら聞こえる、そんな空間が今は欲しかった。
しばらくは料理をつまみながら他愛もない話を続けていたが、腹も膨れたところで千佳に改めて向き直る。
「単刀直入に聞くが……」
コーラを片手に枝豆をつまむ千佳。一見リラックスしているように思えるが、よく見ると少し手が震えていた。
俺の異変を感じ取っているのか、気丈な彼女らしくない振る舞いだ。
こんな改まった場を設けた俺の責任だな。さっさと本題に入ってやらないと。
「千佳、俺に隠し事してないか?」
「……ごめんね。お兄に嫌われたくなくて、色々隠してるのは本当」
「謝ることじゃない。別にその隠し事をあばきたいわけでもないしさ」
「え……?」
不審そうに首をかしげる千佳。その純粋な瞳から目を離さないようにしつつ、俺はビールのジョッキを飲み干した。
「大切な人が相手でも隠したいこと……いや、大切な人だからこそ隠したいこともあるだろうしな」
「それはそうだけど。お兄が何を言いたいのかよくわからない」
「どんな隠し事があろうと俺にとって千佳は大切な存在なんだよ。一緒に暮らしていく中で、その気持ちが強くなっていってだな……」
「つまり?」
「要するに、ちゃんと付き合おうってことだ」
千佳は目を丸くして硬直している。表情どころか、枝豆の殻をつまんだ右手すらピクリとも動かない。
時が止まったかのような空気の中で、テレビのノイズみたいに外からの声が聞こえてくる。
てっきり喜んでくれるものとばかり思い込んでいた俺は、千佳の反応に内心狼狽していた。
やはり千佳には他にいい男がいるのか? 俺がぼんやりしている間に、千佳の心は離れてしまっていたとか。
さっき飲んだビールが喉からせりあがってきそうな気分だ。胸のあたりを無理やり押さえつけていると、千佳の目からゆっくりと涙が流れてくるのが見えた。
その雫は彼女の頬を伝い、顎へ流れ、そのままポタリと机を濡らした。
「うおっ……ごめん千佳、そんなに嫌がられるとは」
「ちがっ……違うの。違う」
ようやく動き始めた千佳の首が左右に揺れた。
ハンカチで涙を拭いながらも千佳は「違う、違う」と呟き続ける。
彼女の胸中で膨らむ感情が何物かはわからないが、とにかく落ち着くのを待った方が良さそうだ。
「ごめん、ね、お兄、取り乱して」
「いや。俺も急に変なこと言って悪かった」
まだグスグスとしゃくりあげる千佳は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
やはり個室にしておいて良かった。千佳はこんな泣き腫らす姿を他人には見られたくないだろうし、俺だって白い目で見られるのは勘弁だ。
「う、嬉しかったの。お兄と、そんな関係になれたらって、ずっと夢見てたから」
「千佳……」
「ありがとうお兄。その気持ちが聞けただけでもウチは幸せ」
涙も乾かないうちではあったが、千佳は新芽のように柔らかな笑みを浮かべた。
その愛らしさに誘われるように俺は思わず膝立ちになり、机越しに彼女の涙を拭おうとした。
しかし、俺は彼女の目元に触れることはできなかった。
彼女の袖口から覗く蛇がこちらを睨んでいたからだ。
その蛇は大きく口を開き、今にも俺の腕に噛みつかんばかりであった。
「うぉっ!?」
反射的に後ろに飛び退いたせいで、引き戸に頭をぶつけてしまう。
ついでに机の下側に膝をぶつけ、身体のあちこちに鈍い痛みが走った。
「痛て……千佳、そいつは?」
「ごめんね。お兄の言葉は嬉しかったの。本当に嬉しかったんだけど、でも」
千佳は俺の目を見ず、眉根を寄せて目を伏せている。
「嬉しい」という発言とはちぐはぐだ。彼女の面持ちはあまりにも悲痛すぎる。
「なんで、そんな……」
千佳の浮かない表情も気になるが、突然現れた蛇の存在も妙に引っかかった。
彼女の左腕に絡みつくソイツは、馴染みのレアとはまったくの別種だ。
黒と黄色のコントラスト、いわゆる警告色を纏ったその全身から「千佳に近づくな」と信号が発されている。
その禍々しい色合いから、蛇に詳しくない俺でも有毒種であることがわかった。
千佳専属の蛇が4体いることは聞いたことがある。
祭祀役の白蛇「レア」、護身役の大蛇「パフェ」、諜報役の黒蛇「ショコラ」、奇襲役の毒蛇「マーム」。
しかし、いま千佳の腕に絡みつく黄黒の蛇はそれらとは別種の生き物のようだ。
千佳がその存在を伏せていた可能性もあるが、とにかくただの蛇ではないらしい。
詳しい事情はわからないが、どうもこの蛇が原因で千佳は俺を拒絶したようだ。
どうもこの毒々しい色合いの蛇は、他の蛇たちと違って千佳と心を通わせているわけではない様子。
締め付けられて血管の浮き上がった千佳の左腕を見ると、こちらの腕まで痛くなってきそうだ。
「ありがとうねお兄。今日のことは、一生忘れないから」
俺が蛇と睨みあっているうちに、千佳は財布から三千円を取り出し、机の上に置いていた。
そして俺に背中を向けて立ち上がり始める。
「ちょっ、待てよ千佳……!」
つられて俺も立ち上がり、千佳に追いすがろうとしたが、またしても黄黒の蛇が威嚇してきた。
蛇の小さな顎が宙を噛む。とっさに手を引っ込めなければ俺の腕に穴が空いていたかもしれない。
俺が怯んだ隙に、千佳は個室の扉を開いてすぐに立ち去っていってしまった。
蛇に噛まれかけて体勢を崩していた俺では、彼女の裾を掴むことすらできなかった。
素早く会計を済ませて千佳の後を追ったが、店外へ出たところで彼女の姿はもうどこにも見当たらない。
やるせない気持ちで空を見上げると、濁った色の月が俺をせせら笑うように浮かんでいた。
「千佳……」
店から出てすぐの路地で、一人たたずんでいると、見知った白蛇がシュルシュルと寄ってきた。
「なあレア、お前のご主人様はどうしちまったんだよ……」
蛇は何も答えないが、その代わりに俺の肩に登ってきた。
細い首を俺の目の前に突きだし、じっと俺の目を見つめてくる。
「お前と話ができたらなあ」
レアはシューと息を吐いたかと思えば、俺の肩から降りていき、再び夜闇の中へ消えていった。
いよいよもって一人ぼっちだ。
……とにかく家に帰るか。もしかしたら、何事もなかったような顔で千佳が待ってるかもしれないし。
薄い望みに賭けつつ、俺は重い足取りで歩き始めた。




