⑰ 似非物と奇人
「ほら、高校生で数学が苦手な子って結構いるよな? そういう子に対してはコッソリ中学生レベルの問題をやらせてみるんだよ。一見遠回りなやり方に思えるけど、どの段階で躓いたのかがよくわかるんだよな」
「なるほど……いま私が受け持ってる田口くんも数学苦手だし、今度試してみよっかな」
「浅井先生は真面目だよなあ。わざわざ俺にまでアドバイスを求めたりとか」
「バイトとは言え仕事だから、ちゃんとやらなきゃって思うの」
今日は空き教室で浅井先生と塾の指導方針について話をしている。浅井先生が俺の家に来た一件以来、なんとなく彼女との距離が縮まった気がしていた。
こういう真面目な話ならバイトが終わった後に塾長も交えてやった方が効率は良さそうなものだが、なぜか浅井先生は俺と二人で話す方が良いらしい。
やっぱりこれは「そういう意味合い」なのでは、という発想が頭をよぎったりもするのだが、もし勘違いなら恥ずかしいのでなるべく意識しないよう気をつけている。
勘違い男にはなりたくないものだ。
なんとなく気まずくなって開いているドアの方に目を向けると、廊下を通りかかったリーちゃんと目が合う。
リーちゃんは敬礼のようなポーズを取りながらそのまま教室に入ってきた。
「どうもナガさん。新しいナオンですか?」
「誤解を生む言い方はやめろ。それに今時ナオンってオッサンでも言わんだろ……リーちゃんはなんでこっちのキャンパスに?」
「一般教養の講義があって来ていたのですが、先ほどその講義が終わったので」
「へえ……何の講義?」
「ヒューム哲学です。まったく内容はわかりませんでしたが」
「なんでそれ受講しようと思ったんだ……」
「哲学の講義受けてたら頭良さそうに見えませんか?」
「頭悪い人の発言じゃん……」
リーちゃんは今日も平常運転である。普通友人が知らない人と一緒にいたら遠慮がちになるものでは……とは思うが、彼女を「普通」という範疇に収めることこそナンセンスなのだろう。
「あら、武永先生のお友達?」
「ああ。諸星の後輩でな」
「竜田川莉依と申します。ナガさんの妹兼嫁候補です」
「えっ、武永先生……この子とどんな関係なの……?」
「うん……リーちゃん、ちょっとスピード抑えてもらっていいかな」
「ラジャー。減速運転を開始します」
椿とリーちゃんの初対面も大概だったが、浅井先生とリーちゃんも噛み合わない予感がすごい。
大人っぽい雰囲気の浅井先生と幼い容姿のリーちゃんでは同じ大学生にも見えないし、そういう意味でもちぐはぐだ。
「えーっと、竜田川さんは大学生なんだよね? 一回生?」
「理学部、惑星学科の一回生です。好きな料理はじゃがいもの素揚げです」
「惑星関係なくないか?」
「じゃがいものポテンシャルを舐めてもらっては困りますね。あれはもう一種の恒星と言って差し支えないですよ」
「ごめん、何言ってるか全然わからん」
「何人たりともじゃがいもの引力には勝てません。深夜に食べる揚げポテト、引き寄せられずにはいられまい」
「それはちょっとわかる」
しまった。またリーちゃんのペースに乗せられて浅井先生が置き去りになってる。椿とリーちゃんが会った時みたいに怒られなければいいが……
「武永先生、この子……」
「あっ、ごめんな浅井先生。ちょっと……いや、だいぶ変わった子なんだよこの子」
「すごくかわいいわね!」
「えっ」
そう来たか。やっぱり浅井先生も独特の感性を持っているようだ。
よく思い返せば、塾でも小学生くらいの子と仲良くやれてるし、小さい子が好きなんだろうか。リーちゃんは見た目以外子どもではないが……
「ほう、わたしの魅力がわかるとはお目が高い。お姉さんのお名前は」
「私は浅井良子。法学部の三回生よ。武永先生とは同じ塾でバイトしてるの」
「なるほど、おりょうさんですね。覚えました」
「ところで惑星学科ってどんなことしてるの? やっぱり天体観測とか?」
「わたしはまだ一回生なので専攻は決まってませんが、宇宙に限らず地質やプレートのことも研究できるようです」
「へえー! スケールが大きくて面白そうね」
また揉め事になったら大変だな、と心配していたがどうやら杞憂だったようだ。
まあ浅井先生もリーちゃんも変わった部分はあるものの根は悪くない人間だし、仲良くやれないこともないか。
そもそも誰にでも噛みつく椿が異常者なだけで、女性はコミュニケーションの得意な人が多いし、こんなもんなのかな……
「ところでおりょうさんはナガさんのことが好きなのですか?」
「えっ、いや……その……」
「年頃の男女が空き教室で二人、何も起きないはずがなく……」
「こらリーちゃん。浅井先生が困ってるだろうが」
「ナガさんもどうなんですか? わたしが知らないだけで二人はもうアチチな関係なのでは」
「いや、浅井先生とはそういうのじゃないから。な?」
「えっ? うん……そうね」
なんか一瞬浅井先生が悲しげな表情になった気もするが、見なかったことにしよう。嘘は言ってないし……
もしかしてリーちゃんはわざわざ釘を刺しに来たのか? ふわふわしているように見えて、意外と戦略的なのかもしれない。
「ナガさんに愛人二号ができたのかと思ってヒヤヒヤしました」
「色々ツッコみたい所はあるんだけど、二号って何?」
「椿の姐さんが本妻、わたしが愛人一号だとすれば次は愛人二号かなと思いまして」
「前提から全部おかしいんだけど、君は愛人一号でいいのか」
「おっ、わたしを本妻にしてくれる感じですか?」
「いやそういう意味ではなくて」
「そっか……武永先生はそういう人だったのね」
なんかリーちゃんのせいで不穏な空気になってきたんだが、どうしてくれるんだオイ。
「待って待って、なんか誤解してない?」
「そうですよ。ナガさんは悪くありません。重婚を認めない法制度が悪いのです」
「ちょっとリーちゃんは黙ってようか」
「そっか、二号か……でもまあ、それはそれで……」
浅井先生は俯いて考え込んでいるが、何か誤解しているようにしか思えない。
「いや、浅井先生……何か誤解してると思うんだけど……」
「ううん、隠さなくていいのよ武永先生。ポリアモリー(複数性愛)、とかってやつでしょ? 聞いたことあるの」
「その単語の意味はわからんけどたぶん違う!」
「でも私も勉強不足だから、武永先生の性向と付き合えるよう頑張るわ。今日のところは帰ってポリアモリーについて調べてくるわね、それじゃ!」
浅井先生は勝手に納得して去っていってしまった。あの思い込みの激しさで今までよく生きてこれたな、と心配になる。
空き教室には残された俺とリーちゃんが二人。
「やったねナガさん、仲間が増えますよ」
「リーちゃん面白がってない?」
「楽しんでいないと言えば嘘になります」
「今は君の純粋さが憎い」
「まあまあ、そう気を落とさずに。切り替えていきましょう」
「誰のせいだと思ってんだよ……」
ああ、また面倒事が増えそうだ。




