D1―1 蛇苺 その1
前書き
【まえがき】
「55 選択」の続きで、これまでのルートとは別の回答を武永が行った場合のお話です。
(以下本文)
「千佳、かも……」
「マジか。オイオイ武永、お前が逮捕されるところは見たくねえぞお」
「うるせえ。少なくとも千佳が高校生の間は付き合わねえよ。まあ、あの子が大学に入る頃には俺のことなんぞ忘れてるかもしれんしな」
などと言いながらも、千佳が心変わりするイメージはあまり持てなかった。
7年もの間会ってなかったのに、どうも千佳は俺のことをずっと想っていてくれたみたいだし……
椿とは違う方向に愛が重いのだが、俺に牙を剥いてこないだけ椿よりはよっぽど有り難い存在なのだ。
「でもお前、浅井さんはいいのか?」
「うーん……その辺も確かに引っかかってはいるし、千佳が大学生になるまではゆっくり考えるよ」
「そうかい。ま、お前が逮捕されたら差し入れくらいはしてやるよ」
「だからまだ手は出さねえって」
諸星の生あたたかい視線を振り払いたくて目を瞑ると、千佳の端麗な白い肌が脳裏に浮かんできた。
くそっ、諸星が変なことを言うせいで妖しいイメージが浮かんできやがる。
実際俺は千佳に本気で誘惑されたら耐えられるだろうか……うーん、自信は無いな。
あんな美人な子が俺に夢中な時点で、心が揺らいでしまうのは仕方ないだろう。
俺の周りには他にも綺麗な女の子はいるが、あれほど真っ直ぐに好意をぶつけられると、意識せずにはいられない。
……とにかくもう少し考えてみよう。千佳が高校生であるあと数ヶ月はどうせ何もできないのだ。
逆に捉えれば、検討する時間は限られているとも言えるが。
バイトを終えてマンションの玄関まで着くと、生け垣の中からニュッと白蛇が現れた。
右腕を突きだし迎えにいくと、彼女は俺の腕に絡みついて大人しくなった。ひんやりした感触が心地いい。
昔だったら驚いていただろうが、最近はもう慣れっこだ。
最近知ったことだが、千佳の使いであるこの白蛇の名前は「レア」というらしい。
「レアチーズケーキ」みたいな色をしていることが由来だと千佳は言っていた。
ちなみに以前椿を脅した巨大な蛇の名前は「パフェ」。見た目の厳つさに比べて名前が可愛すぎるだろう……
俺が自分の部屋の鍵を開けると、レアは腕を離れて床でとぐろを巻いた。
緊急時を除けば彼女は部屋まで入ってこない。この慎ましい態度は千佳の教育の賜物だろう。
そんなレアの献身的な態度に、ずいぶんほだされつつある。
玄関ドアを開けたまま冷蔵庫から鶏肉を取り出し、その欠片をレアの前へ置いてやった。
彼女は数秒肉片を眺めてから、小さな口を開いて丸呑みした。
「美味いか?」
レアは返事をする代わりにチロリと舌を出してみせた。
愛らしい仕草だ。こうしてレアとふれあっていると、蛇を愛でる千佳の気持ちもだんだんわかってくるもので。
もしかして白蛇を使いによこしたのはこれが狙いだったのだろうか。
俺を蛇に慣れさせて、将来千佳と暮らす際に不便が無いようにとか……
まあ、レアが身を守ってくれる有り難さを思えば、どんな狙いがあっても別に構わないのだが。
諸星と話をして以来、千佳のことがどうにも頭から離れなくなった。
実家に帰った時などは会うこともあるのだが、以前のように元教師と元生徒、という感覚では話せなくなっているのだ。
その不自然さを知ってか知らずか、千佳も日増しにベッタリしてくるようになるし……
千佳がまだ高校生であるという事実だけが俺の理性を押し止めていた。しかし。
「お兄、3月泊まりに行っていい?」
「えっ……」
「入試の前の日。和歌山からだと始発でも間に合わないから」
「それはそうだけど……」
この会話が電話越しで良かった。今の狼狽えた表情はとても千佳には見せられない。
千佳が同性だったら断る理由は一つも無かったのだが、さすがに年頃の男女が寝泊まりするのはよろしくないだろう。
「神様」に狙われた時みたいに急迫した危険でも無い限りは。
「ホテルとかに泊まってもいいんだけど、入試の前日は緊張するから。お兄の家が一番安心する」
「安心」と言われて元家庭教師としては喜ぶべきなんだろうけど、男としては喜ぶべきなのか微妙だ。
手を出さない紳士と思われてるのか、あるいは手も出せないクソ雑魚草食野郎と思われているのか。
「俺が緊張するんだよ」
「なんで」
「それはお前……」
「そっか、緊張するんだ。ふふっ」
千佳の笑いに嘲笑の意味は無かっただろうが、年下の女の子に舐められては男が廃るというものだ。
ここは一丁堂々としたオトナの男としての対応を見せてやるか。
「緊張するって言ったのは冗談だ。別に泊まってもいいけど、何が起こっても文句は言うなよ」
「うん。お兄になら何されてもいいし」
「っ……お前なあ、そういうこと軽く言うなよ……」
「軽くない。心の底から思ってることだから」
本当に電話越しで良かった。おそらく真顔であろう千佳と赤面する俺じゃどっちがガキだかわかりゃしない。
しばらく見ない間に千佳もずいぶん大人になったんだな。
いい加減子ども扱いはやめてやるべきなのかもしれん、変な意味ではなく。
「ところで千佳、共通テストはどうだったんだ? うちの大学受けるってことは悪くはなかったんだろうけど」
「高校の先生に聞いたら9割ぐらい受かるって。油断するつもりはないけど」
「そうか……頑張ったんだな、千佳」
「お兄が勉強する楽しさを教えてくれたお陰。だから半分はお兄の手柄。ありがとね」
優しい声で礼を述べる千佳。こういう無邪気なところは変わってないんだよな。
表面上は少しクールになったものの、千佳の内奥は案外昔のままなのかもしれない。
そうであってほしい、という俺の願望も混じっているけど。
そしてうちの大学の入試前日を迎えた。
千佳が来るということで、部屋は入念に掃除してきた。特にベッドの下なんかは見せられる状態になかったので、無理やりタンスに封印してやり過ごすつもりだ。
万事を整え終わったところで、ピンポーン、と軽快なチャイムが鳴る。
思っていたより早かったな。まあ真面目な千佳のことだから、念のため一本前の電車で来たのかもしれない。
少し浮き立った気持ちでインターホンを見ると、途端に背筋が凍った。
こんな展開をちょっとは予想してたけど、外れてほしかった。今日ばかりは、本当に。
インターホン越しに映る髪の長い女。最低の怨霊が最悪のタイミングで現れやがった。




