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C3―2 成長痛 その2

「ええと……武永くん、それは何の冗談かね」


「冗談とかではなく。俺に教師なんて勤まるのかなって」


 俺の言葉を聞いた村瀬は落胆した顔を見せたかと思えば怒ったような表情になり、次に悲しそうなツラが出てきたかと思えば悔しそうな色が浮かんできたり、とにかく忙しない。

 彼女の中で目まぐるしく感情が動いているのが伝わってくる。

 こうなることがわかってたから、言うのをためらってしまったのだが。


「……なんで?」


 今にも泣き出しそうな村瀬がようやく絞りだした言葉はたった3文字だった。

 本当はもっと言いたいこともあろうが、感情の奔流に語彙が追いついていないのだろう。


「色々、思うことがあってな」


「色々ってなんだ? ちゃんと説明してくれないか。ボクはキミのお陰で、キミがいたから、キミと一緒に……」


 ついに村瀬の涙腺は決壊を始め、言葉も途切れ途切れにしか発せなくなっていた。

 幸い周りの人からは気づかれていないが、さすがに大学構内で話し続けるのはまずそうだ。


「わかった。ちゃんと説明するから場所を変えよう」






 大学を離れて向かったのは村瀬の家。とにかく彼女には落ち着いてほしかったので、安心できる場所を選んだつもりだ。

 目的地に着くまでの間、村瀬はずっと俺のシャツの袖を掴んでいた。

 その姿は、手を放せば飛んでいってしまう風船の紐を掴む子どものようで。

 あまりにしっかり掴むものだから袖口にシワが寄ってしまったが、村瀬を泣かせてしまった代償としては安いものだ。


 さて家に着いたはいいものの、ここからが大事だな……どう説明したものか。


「なあ、村瀬……」


「待ってくれ。少し鏡を見たいんだ。ボクはひどい顔をしているだろう」


「いや、泣いてる顔も可愛いと思うが……」


「女を泣かせるのがお好みなのかい? キミはボクはずいぶん趣味がいいんだな」


 グスグスと鼻をすすりながら村瀬は化粧室へ向かう。

 今の村瀬の状態からすれば、俺の言った台詞も嫌味に聞こえたのかもしれないな。純粋な本心だったのだが。


 しばらく待っていると、目を赤く腫らした村瀬が紅茶を持ってやってきた。ほとんど化粧を落としていて、いつもよりシンプルな顔なので、やけに純朴に見えてくる。いつもより幼く見える顔も端麗だ。

 「美人であるか否かは泣き顔が美しいかどうかで判断できる」ってどこかで聞いたことがあるような。


「紅茶、悪いな」


「アッサムのミルクティーだよ。コーヒーが好きなキミならしっかりした味わいが好みかと思ってね」


「うん、うまい……」


 二人して紅茶を啜るだけの時間が流れる。何が解決したわけでもないが、少しだけリラックス状態に近づけたようだ。

 イギリス人がやたら紅茶を飲みたがる理由も少しだけわかった気がする。


「さて、そろそろ……いいかな?」


「ああ。俺が教師を目指すのやめようって思ったのは、伊坂がきっかけなんだ」


「伊坂くん? キミの愛しい恋人に進路変更を勧められたのかい?」


「だから恋人じゃねえって……知っての通り、アイツは俺の奴隷を名乗ってて、俺が死ねって言えば死にかねないような奴なんだよ」


「それと教職に何の関係が……?」


 村瀬は怪訝そうな顔をしながらもクッキーの缶を勧めてくれた。

 中にはジンジャーパウダーのまぶされたクッキー。香ばしい匂いと少し鋭いスパイスが口の中で溶けていく。


「アイツさあ、最近俺の影響を受けすぎなんだよ。お茶の方が好きだったくせにコーヒーを飲み始めたり、俺が好きだからって犬の画像を集めたり。俺をもっと理解したいのか、教育学部の講義まで受けに来るようになって」


「良好な恋人関係じゃないか」


「恋人じゃないし、仮に恋人であったとしても極端すぎるんだよ。俺がアイツの人生を左右してるみたいで、不安になってくるんだ。SMプレイに付き合うのも伊坂に悪影響なんじゃないかって心配だしな」


「なるほどね……」


 聡明な村瀬のことだ、俺に起きた心境の変化もある程度理解してくれたのだろう。


 教育とは、良かれ悪しかれ他人に影響を与えるものである。

 熱心な指導の結果「武永先生に憧れてるので教職を目指します!」なんて言ってもらえれば教師としては無上の誉れだが、意地悪な考え方をすれば、俺の存在がその生徒から教職以外の道を奪ったと言えなくもない。


 もっと最悪なケースで、俺のせいで生徒が非行に走ったり、人間不信に陥ったら?

 一度ヒビの入ったガラスを直すことは並大抵のことじゃない。償っても償いきれない結末が待っていることだってあるだろう。


 成人している伊坂ですら他人に影響されたりするのだ。多感な子どもならもっと影響を受けるだろう。

 もちろん全員が全員俺の影響を強く受けるとは限らないが、100人に1人くらいは俺の一言で人生を左右されるかもしれない。

 そうなった時に、俺はその重責を背負いきれるのか? そもそも責任なんて取れるものなのか?


「要するに、俺は怖いんだよ。教職という責任の重さが」


「それはボクだって同じさ。でもキミが関わってきた教師全員がキミに影響を及ぼしたわけじゃないだろう? 中には顔も覚えていない相手もいるだろうし」


「そうだな……事なかれ主義でうまく立ち回って、生徒に深く関わらなければ悩まずに済むかもな。でも俺は、困っている生徒を放っておけない気がするんだよ」


「わかるよ。キミはそういう人だ。だからこそ、ボクはキミに教師になってもらいたいんだがなあ」


 村瀬は寂しそうな表情で遠くを見つめた。その瞳はまだ潤んでいる。

 涙を拭いてやるべきか迷ったが、泣かせた本人の俺にそんな資格は無いと思い、踏みとどまった。

 すっかりぬるくなった紅茶はそれでも旨かったが、少しだけ苦味が残った。


 二人して気まずい沈黙を消化していると、ふいに俺のスマホから着信音が流れてきた。

 発信元は非通知、いつものパターンだ。相手がわかってるからこの電話は出たくないな……


「出なよ」


 音が止むまで放っておくつもりだったが、村瀬に促されてしまったので仕方なく通話ボタンを押す。


「今すぐ来てください。場所は先輩の家です」


 たったそれだけの台詞で、すぐに電話が切られた。あとには虚しいツー、ツー、という電子音だけが残る。

 椿のやけに機械的な声が、事の異常性を物語っていた。なぜ俺の家にいるのか訊ける雰囲気では無かった。

 原因はまったくわからないが、椿は本気で怒っている。ここで放置した方が後々面倒なことになりそうだ。


「悪い。椿から呼び出しが入った」


「緊急なのかい? ボクも行こうか?」


「いや、それは迷惑だろうし……」


「今は迷惑をかけられたい気分なんだよ。ボクらは友人だろうが」


「……恩に着る」


 友人、か。


 教職を目指さないと言った時点で村瀬と疎遠になる不安はあったが、それを払拭してくれた形だ。

 こういう村瀬の気遣いが、申し訳なくて、愛おしい。


 さて、椿の用件はなんだろうか……あの口調からすると、また厄介なことが起きそうだが。



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