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B4―5 ララミー造山運動 その5

 十秒ほど唇が重なっていただろうか。部屋の中がやけに静かだ。

 息すら止まった時間の中で、椿の体温だけが粘膜を通して伝わってくる。


 ようやく唇が離れると、椿はすっかり赤面していた。

 いつもの幽霊じみた風体とはずいぶん異なる、真人間のような色づきだ。


「あの、先輩、これはどういう冗談ですか?」


 両手で口許を押さえながら、モゴモゴと椿が声を発する。

 否定的な口ぶりながらも、椿の細い目に熱が灯っているのが見えた。


「冗談かどうかはすぐにわかる」


 椿の髪を撫でると、ヤツはピクンと肩を震わせた。

 普通の女の子みたいな反応だ。相手がコイツじゃなければ結構ドキドキするシチュエーションなんだが。


「先輩……なんで……」


「さあな。どうだっていいだろ」


「でも……」


 椿は俺と目も合わせずにモジモジと身をよじった。

 なんだか妙に罪悪感が湧くのでまともな反応をしないでほしい。


「なに恥ずかしがってんだよ。普段から散々俺にセクハラしてるくせに」


「だって、いつもの先輩と違うから」


「そうかい。いいから大人しくしてな」


「強引なんですね、先輩。でも……こういうのも嫌いじゃないかも」


 椿は遠慮がちな素振りで俺の胸に顔を埋めた。スゥー、と深呼吸の音が聞こえる。

 俺の匂いなんざ、あまり良い香りではなさそうだが……


 好きにさせてやろうと思い、そのまま椿の次の動きを待っていたが、ヤツは俺の胸から顔を離そうとしなかった。

 なんだ? この位置からだと椿の頭しか見えないので、コイツがどんな表情をしてるかさっぱりわからない。

 俺の匂いを堪能しているだけにしては、やけに時間が長いような……


 ドン! と突然、胸が強く押される。思わずバランスを崩し、ベッドから転げ落ちてしまった。

 身体をしたたかに打ちつけたせいで、腰のあたりがズキズキと痛む。

 突然突き落とすなんて、椿のやつめ……ここに来て怖じけづいたか?


「どうした椿?」


「匂いが……」


「えっ? やっぱり変な匂いしたか?」


「莉依ちゃんの、匂いがします」


 先ほどまであたたかった部屋が、急激に冷えていくような感覚。

 椿からの追及は必至だろうが、ここで退いてはいけない。徹底的に立ち向かってやる。


「そうですか、先輩。昨日は莉依ちゃんと仲良くされてたんですね」


「そうだよ。詳細を話してやってもいいぞ。シャワーを浴びてから寝るまで、全部」


「いいです。別に聞きたくない」


 椿はこちらに背を向け、拗ねたような口調で言い捨てた。

 腰をさすりながら立ち上がった俺は、再びベッドの上に腰かけ、椿の背中を抱く。

 が、俺の腕はすぐにはねのけられ、宙を掻くことになった。


「どうした椿、俺とこうなるのが望みだったんじゃないのか?」


「おかしいです。こんなはずじゃなかったのに……」


 おかしい? 何がだ? 確かに今の俺は状況に酔っていて、普段からすればおかしい精神状態なのかもしれないが……


 ようやく椿が振り返ったが、その細い目からはボロボロと涙が溢れ出てきていた。

 もはや感情をこらえることもできないらしい。


「ナンパなことする俺を嫌いになったか?」


「いいえ、好きです。でもこれは嬉しくない。全然嬉しくないんですよ」


 椿は溢れ出る涙を俺の布団で拭いながら、ボソボソと続ける。


「どうせ今の私を抱いても、ずっと莉依ちゃんのことばかり考えるんでしょう。それで喜ぶ女の子なんていませんよ」


「それは……」


 まったく否定のできない指摘だった。そもそも今の形勢だって、リーちゃんのために拵えたものなのだ。

 彼女を守るために諸星の考えた奇策、それを実行しているだけで、椿の気持ちになんて一切配慮していない。


 冷静に考えてみれば相当残酷なシチュエーションだ。

 自分の好きな男が、自分以外の女のために、嫌々抱こうとしてくるだなんて。


「もういいです。出ていきます。こんなところにいたら惨めで死にたくなる」


「オイ、ちょっと……」


 俺の制止も気に留めず、椿はまっすぐ玄関ドアの方へ向かっていった。

 そもそもこれは引き留めるべきなのか? 椿をここまで追い込んだ張本人の俺が?

 迷っているうちに椿はもう玄関ドアへ手をかけていた。


「椿、その……」


「なんですか」


「なんか、その、ごめんな……」


「次、謝ったら殺しますよ」


 低い声で唸るように呟いた椿は、手荒くドアを開け、そのまま出ていってしまう。


 部屋に取り残された俺はと言えば、カーテンの隙間から入ってくる朝日をぼんやりと眺めることしかできなかった。




 そうか。諸星はこうなることまで見越して俺に無茶な提案をしたのか……

 俺に狙いを話すと本気度が失われるため、わざと詳しく説明せずに背中を押してきたわけだ。


 なるほど、これは女心を熟知した諸星にしかできない発想だな。


 一応椿を追い払うことはできたが、何とも消化不良というか、スッキリしない結末だ。

 まあ、当たり前か。誰も傷つけない恋愛なんてきっと存在しないのだ。

 俺も、椿も、この痛みを抱えて生きていくしかない。






 その日の晩、再びリーちゃんの家を訪れた。朝に起きたことを簡単に説明し、無事椿を追い出せたと報告したのだった。


「どうにもモヤモヤしますね」


「悪い、未遂とはいえ椿と変な感じになって」


「いえ、そこではなく。最初から最後まで椿の姐さんらしくないんですよ。今回の顛末は」


 言われてみれば、今回の精神的にジワジワ追い込んでくるやり口は椿らしくないようにも思えた。

 アイツならもっと強引というか、率直に言えば暴力的な手段を取ってもおかしくなかったろうに。


 それに、俺を追い込むより間接的にリーちゃんを追い込むやり口を取ってたな。

 「共有できない秘密を作らせる」という、リーちゃんが嫌がる技を駆使してくるなんて、彼女のことをよく理解していないとできない芸当だ。


 諸星がいなきゃ下手すればリーちゃんとの関係も破綻していたかもしれないし、ここまで効果的な策を椿は一人で編み出したのだろうか。

 椿が去った安堵からあまり深く考えてはいなかったが……


「まあ、諸星のアドバイスのお陰で一応窮地は免れたし、とりあえずは良かったってことで……」


「アドバイス。そうか、なるほど」


「何かわかったのか?」


「ええ。一連の騒動の黒幕がわかりました」


 リーちゃんは立ち上がり、俺の手を引っ張って進みだす。

 慌てて俺も立ち上がるが、脚がもつれて転びそうだった。


 黒幕? 今回の騒動に関わっていたのは椿と俺、リーちゃんと諸星だけじゃないのか?

 俺が考えている間にもリーちゃんはマンションの外へずんずん突き進んでいく。

 わけのわからないまま後ろをついていくが、彼女はいったい何を思いついたのだろうか……


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