⑬ ヤンデレと台風
朝、ベランダの窓を開ける。途端に顔を張るような強風。今日の午後には台風7号が西日本に上陸すると聞いていたが、昼には相当な風が吹きそうだ。雨足もかなり強まってきている。
すでにベランダのハンガーなどは取り込んでいるものの、どうにも落ち着かない。数日分の食料もあるし、不安がっても仕方ないように思えるが、どうにも。
台風が近づくと気持ちが昂るのは本能的な感覚なのだろう。呑気な気持ちで構えていてはいざって時に困るし、ぼんやりしてるよりはマシなんだろうけど。
昨日の時点で塾長から連絡があり、今日のバイトは休みになった。しかし暇ができたところで外出もできないし、今日は退屈な一日になりそうだ。
特にやることもなくぼんやりとスマホをいじっていると、インターホンの鳴る音がした。宅配か何か頼んでたっけな。それにしても、何もこんな日に来なくても……
「おはようございます先輩、お嫁さんをお届けに上がりましたよ」
玄関を開けるとびしょ濡れの椿がいたので、思わずドアを閉めてしまった。すかさずインターホンが乱打される。
「うるせえぞ妖怪濡れ女!」
再びドアを開けると、椿は泣いてるふりをしていた。あまりに白々しいので心配する気も起きなかったが。
「ひどいじゃないですか先輩。何も言わずに締め出すなんて」
「なんでこんな台風の日にわざわざ来るんだよ! 家で大人しくしてろ!」
「えっ、先輩……もしかして私のことを心配してくれてるんですか? 嬉しい……」
「迷惑だって言ってんだよ! さっさと帰れ!」
「わかりました、帰りますね。この強風の中帰ったら、もしかしたら事故が起きるかもしれませんねえ」
今日は妙に素直だな……と思ったのも束の間、椿はニタァ、と笑いながら俺の表情を覗きこんだ。濡れた長い髪から覗くその目は、この世のものとは思えない輝きを放っていた。
「ああ、今日私は死ぬんですね。先輩のせいで」
「お前がどうなろうが知らねえよ」
「またまた。そのまま私が帰らぬ人になったら、先輩はきっとそのことを一生後悔しますよ。一生、死ぬ時まで、私のことを思い続けるんです。とても素敵ですね、私が先輩の一生モノになれるなんて」
「べ、別にお前のことなんざすぐ忘れるだろ……」
「死んで生まれ変わったら先輩の娘になるのもいいですね。夏目漱石の『夢十夜』、知ってますか? おんぶしていた子どもが妙なことを話し始めて、最後にはその子どもが殺した相手の生まれ変わりだとわかるお話……」
嫌な想像が頭をよぎる。コイツ俺が断ったら本気で死ぬ気なんじゃ……いや、流石にそこまでは、でも……
こうやって悩み始めた時点でもう俺の負けなのだろう。仮にここで椿を追い払ったとして、俺は一日椿の身を案じ続けることになる。さらに椿が二、三日行方を眩まそうものなら俺はもっと狼狽えることになるだろう。そしてその様子を見て椿はご満悦、か。
なんか腹立ってきたな。お前の思い通りになってたまるか。
「わかった……入れ」
「えっ、いいんですか? そのまま定住しますよ?」
「台風が過ぎたら追い出すから心配すんな。お前タオルとか持ってねえのか?」
返事をするよりも早く、俺の脇をするりと抜けて椿は玄関口に上がり込んだ。
「先輩のタオルを借りるので大丈夫です」
「お前、もしかして最初から強引に上がり込む気で……」
「どっちでもよかったんですよ。外で風にさらわれて死ぬもよし、先輩の家に上がるもよし」
「お前さあ、死ぬのが怖いとかそういう人間的な感情は無いのか?」
「先輩と一緒にいられないなら死んでるのと変わりませんよ」
椿はびしょ濡れのまま風呂場へ向かい、近くの戸棚からタオルを取り出した。なんでタオルのある場所知ってるんだよ、とかツッコむ気力も最早なくなりつつある。
「あっ、折角だしシャワーも借りますね。一緒に入りますか?」
「一人で入れ。そのまま夜まで出てくるな」
「監禁がお好みだなんて、先輩も倒錯的ですねえ」
「ごめんやっぱ追い出していいか?」
「ふふふ」
言い合っていても仕方がないので、とりあえずリビングに戻る。テレビをつけて予報を確かめると、夜には台風は過ぎ去っていることがわかった。外が暗くなってきたら絶対に追い出してやるからな。
風呂場から椿の鼻唄が聞こえてくる。目論見通り俺の家に上がり込めてさぞ上機嫌なのだろう。俺はこのままやられっぱなしでいいのか? 犬カフェの時のようにやり返す方法が何かあれば……そうだ。
「先輩、考え事ですか?」
「うおっ! お前いつの間に出てきたんだよ!」
「堂々と出てきたつもりなんですが……あっ、ドライヤーも借りますね」
椿はまるで自分の家にいるかのようにくつろいでいやがる。テレビのチャンネルもいつの間にか変えてるし……見てろよこの野郎。
「あっ、ゴキブリ!」
「え? 先輩ゴキブリ飼ってるんですか?」
「違った! ムカデかも!」
「ゴキブリと見間違えるなんて、大きいムカデですねえ」
「こっちにはネズミが!」
「どこから入ってきたんでしょうねえ」
椿は後ろで叫ぶ俺の姿を見もせずに淡々とドライヤーで髪を乾かしていた。もちろん虫もネズミもここにはいないのだが、少しくらい驚いてくれてもいいだろうに……そもそも俺の嘘が見抜かれていたのか?
「お前……虫とか平気なのか?」
「えっ、だって怖がる理由無いじゃないですか。どれもスリッパで殺せる生き物でしょう?」
「犬にはビビるくせに」
「ビビってません。嫌いなだけです」
本気で椿を震え上がらせるには熊でも連れてこないとダメなのか。しかし連れてくる段階で俺が食われそうだしなあ。デカい犬をけしかけるくらいでも狼狽えそうだが、コイツが無茶な反撃したら飼い主に悪いし……
「人を脅かすコツは覚悟ですよ。相手に何をやり返されても構わないという覚悟。先輩は優しいから、そういうのに向いてないんです」
わかった風な口で椿は語る。またコイツは人のことを馬鹿にしやがって……と椿の顔を睨むと、意外にも椿はいつものニヤケ顔ではなく柔らかな笑みを浮かべていた。それはそれで気色悪いのだが……
「何なんだよその顔は」
「先輩のことが好きだなー、って表情です」
「気持ち悪いから二度とするな」
「先輩はいつもの私の方が好みなんですね、よくわかりました」
「何もわかってねえよお前は」
戯言を吐きつつ勝手にベッドに上がろうとする椿を引きずり下ろしながら、溜め息をついた。
実際のところ、何もわかっていないのは俺の方なのかもしれない。この本庄椿という女の底を、測れる日は来るのだろうか。