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B3―5 ダイラタンシー現象 その5

 椿に心中を読まれている。


 ここで返答を間違えると取り返しのつかないことになりそうだ。こめかみに銃を突きつけられている気分。下手に動けば脳漿が破裂しかねない。


「いや、それはお前の考えすぎで……」


「ああ、そういうごまかしは別にいらないんで。明らかに前までと匂いが違うんですよね。ホルモンバランスの変化ですかね?」


 椿の呼吸音がすぐ近くで聞こえる。うなじに息が当たるせいで怖気がしてきた。

 コイツが首もとにいる時点で危険極まりないのだ。すぐにでも走り去りたい。

 なんとかごまかして逃げ切ることはできないのものか……


「あーあー、やりたくなかったけど仕方ないですね」


 張り詰めた俺をよそに椿は平然と俺から離れていった。

 「やりたくない」だと? いったい何を? 考えたくはないが、もしかして。


「お前……」


「いま先輩が想像した最悪の事態が起こると思っていただいて構いません。残念です。まったくもって遺憾です」


「ふざけるな。リーちゃんに手出しすることだけは許さんぞ。あの子に少しでもちょっかいかけてみろ、細切れにしてブタの餌にしてやる」


「いいですねえその殺気。先輩からそんな熱い眼差しを向けられるとドキドキしちゃいます」


 俺の全力の怒気を前にしても椿はヘラヘラしていやがる。コイツに人間的な感情を求める方が無茶か。

 ちくしょうめ。いっそのこと、リーちゃんが被害を受ける前に、俺がこの悪魔を再起不能に……


「うふふ……お互いを刺し合うのも気持ちよさそうですが、別の道を選んでも構いませんよ」


「取り引きのつもりか?」


「いいえ、サービスです。臆病で優しい先輩向けの、かんたんコースのご提案ですよ」


「どうせふざけた内容だろうが、聞いてやろう」


「簡単です。貴方がたの幸せを少し私に分けてくださればいいのです」


「あ?」






 椿の「提案」を受けてから、初めての日曜日。今日もリーちゃんとデートだ。

 前に諸星の家で話して以来、もうリーちゃんのことを彼女(仮)とは思っていない。

 仮称が取れた、本物の恋人だと扱うことに決めた。ハッキリ言葉にはしていないが、どうやらリーちゃんもその気らしい。


 せっかくなら恋人らしいスポットに行こう、と水族館に来たわけだが。


「ナガさんはタコ派ですか? イカ派ですか?」


「その派閥は初めて聞いたが」


「直感で答えてもらって大丈夫です」


「食べるならイカの方が好きかな……」


「やはり。ナガさんはイカですよね。よっ、イカ野郎」


「俺のことバカにしてない? してるよね?」


 恋人ってこんな感じでいいんだろうか……以前と何も変わってないような気がするのだが……

 それに俺には気がかりがあるのだ。椿からもちかけられた、例の取り引きのことが引っかかって仕方ない。


「浮かない顔ですね、ナガさん。コーンポタージュ飲みます?」


「水筒にコーンポタージュ入れてんの? 逆に喉渇くんじゃないか?」


「でも美味しいですよ」


「うん……本当だ、うまいな」


 俺の気分がどうあれリーちゃんは平常運転なので少し救われる。

 健気な彼女のために、俺もなるべく平静でいないとな。


 それから俺たちはコツメカワウソやカマイルカ、グレート・バリア・リーフに住む熱帯魚などを観て回った。

 賑やかな観光スポットに来てもリーちゃんの表情は変わらなかったが、時おり水棲生物に関する知識を披露してくれるので、おそらく彼女なりに楽しんでいるのだろう。


「スミツキイシガキフグがいますよ、かわいいですね」


「スミツ……?」


「スミツキイシガキフグ、ご存じないですか?」


「早口言葉みたいだな。どんな魚なんだ?」


「ハリセンボンの仲間です。トゲトゲしているでしょう」


「確かにな。触ったら痛そうだ」


「ちなみにイシガキフグは食べたら美味しいらしいですよ。捌いてもらいましょうか」


「ここで捌くのは無理だろ……」


「お刺身じゃなくて唐揚げならセーフですかね?」


「調理法の問題じゃなくてだな」


 どうにも胡乱な会話ではあるが、女の子と手を繋いで水族館を歩くというのはまんざらでもないものだ。

 相手が(仮)ではない本物の恋人であれば、その愉楽もひとしおである。


 時々身体をくっつけてくるリーちゃんの小さな頭を眺めていると、胸のうちに熱いものがこみ上げてきた。

 一時の幸せであったとしても、今はこの幸甚をありがたく受け取らないとな。


「ところでナガさん、姐さんから接触はありましたか? あの人に今の我々の姿を見られたら、死人が出そうですが」


「いや、俺の方は別に……リーちゃんこそ大丈夫か? 嫌がらせされたりとか」


「それが、気味が悪いほど音沙汰なしなのです。嵐の前の静けさでなければ良いのですが」


「まったくだ……」


 もちろん「椿から接触が無い」という俺の言はまったくの嘘である。

 しかし椿の指示により、俺はリーちゃんに真実を話すことができないのだ。

 彼女に隠し事をするなんて後ろめたいが、これも二人の幸せを守るためなのだ。いわゆるコラテラル・ダメージというやつである。


「ナガさんナガさん、タカアシガニがいますよ」


「おー、結構迫力あるなあ」


「わたしもあれくらい脚が長ければ、と思わずにはいられません」


「リーちゃんは今のままが良いよ」


「えっ、ナガさんはちんちくりんがお好きですか。やはりロリコン……?」


 慰めようとしただけなのにあらぬ疑いをかけられてしまった。

 まあリーちゃんを好きになることがロリコンだというなら、俺はもうそれで良いや。

 誰に何と言われようと、俺は彼女を幸せにしてやりたいのだ。


「ロリコンだったら嫌いになるか?」


「いえ。需要と供給がマッチしているので、むしろ安心です」


「そうかい」


 低い位置にあるリーちゃんの頭を撫でてやると、彼女はむふー、と満足げに息を吐いた。

 彼女というかペット寄りなような気もするが、何にせよ可愛らしいことに代わりはない。

 そうだ。リーちゃんは俺が守ってやらねばならないのだ。


 たとえ何を犠牲にしても。






 デートを終え、マンションの自室前までたどり着いた。たどり着いてしまった。


 ああ、ドアを開けるだけなのに気が重い。どうしてあんな約束をしてしまったのか。今からでも撤回はできないだろうか。

 いずれにせよ、ドアは開けなくてはならないのだが……


「どうでした? 莉依ちゃんとのデートは」


 部屋でテレビを観ながらくつろぐ椿は、嫌らしい笑みを浮かべて俺を迎え入れた。



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