B2―4 リクエファクション その4
「どうせなら死ななくて済む可能性に賭けてみようぜ」
スマホを取り出し、着信履歴を確認する。この番号が正しいかわからないが、謎の番号からかけてくるのはだいたいアイツなのだ。
プルルルル、とコールが一鳴りしただけで、すぐに鳴動は止み、受電主の声が返ってくる。
「先輩? 今日はずいぶんお帰りが遅いんですねえ」
「なんで俺が帰ってないって知ってるんだよ」
「そりゃあもう、ねえ?」
「ハァ……まあいい。今はそれどころじゃないんだ。知恵を貸してくれ」
椿に現在の状況を話したところ、ヤツは途中まで神妙に聞いていたものの、最後にはケラケラと笑い始めやがった。
現場の緊迫感も知らずにぬけぬけと……腹は立つが、この態度なら何か有益な情報を持っているんだろう。大人しく聞いておくか。
「べとべとさんに行き逢って死ぬわけがないでしょう。二人ともビビりすぎでは?」
「ずいぶん楽観的だな。何を根拠に言ってんだ?」
「根拠以前の問題です。『べとべとさん』はそういう性質のものじゃないんですよ。もし死にまつわる怪異なら、そういう伝承としてちゃんと残ってますよ」
「いや、だって論理的に考えれば、生還者がいなかった可能性だって……」
「ロジックだけで考えれば確かに正しいんでしょうね。しかしですね、妖怪が我々の理で動いてくれると思いますか? そもそもの話」
「それは……」
「まあ気持ちはわかりますけどね。莉依ちゃんは理屈屋ですし、先輩も頭が固いですからねえ」
なんかちょっとバカにされた気がする……
俺がよほどの変な表情をしていたのだろう。リーちゃんが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
大丈夫だ、と伝えるために手のひらを開いて彼に見せたが、伝わっているのかは怪しい。
何にせよ、椿の話にはまだ納得がいっていないのだ。もう少し詳しく聞かねば安心はできない。
「じゃあ訊くが、なんでべとべとさんは追い越してくれなかったんだ? 俺たちはちゃんと二人で道を譲ったのに」
「そこですよ。そこが間違ってるんです」
「えっ?」
電話越しに椿の長いため息が聞こえる。おそらく俺のグズな反応に呆れているのだろう。
くそっ、納得いかねえな。俺が悪いのか? 妖怪に行き逢った時の対処法とか知らんだろ普通……
「二人同時というのがマズいんですよ」
「だから、どういう意味なんだよ」
「要するにですね、二人が同時に道を譲ろうとしたせいで、べとべとさんはどちらを追い越せばいいやらわからなくなったわけです」
「いや、二人とも追い越せば済む話じゃねえか。普通に考えればわかるだろ」
「だから人の理屈で測っちゃダメなんですって。憑かれてた先輩だけが道を譲らなきゃ不具合が起きるんです」
「そんなことあるのか? 入力規則が間違ってたらエラーが出るなんて、Excelじゃあるまいし」
「先輩にしては良い例えですね。『妖怪プログラム説』というものがありまして……」
その後の椿のうんちくは聞き流していたが、そんな俺の平静な態度が伝わったのだろう、右腕にしがみつくリーちゃんの身体の震えが止まっていた。
さあて、せっかく解決手段が見つかったのだ。椿には悪いが、話を切り上げてべとべとさんから逃れる方法を試したい。
椿が「妖怪は概念でもあり、実存でもあり、我々の理外にある独自法則によって動く、形而の上下が……」と語るのを遮り、「すまん! ありがとう!」とだけ伝えて電話を切った。
さて、椿の言う通りかどうか試してみるか。
リーちゃんには先ほどの椿の説明を伝えたが、いまいち納得していないのか、彼女は自分の唇をむにむにと掴んでもてあそんでいた。
論理が通用しないどころか、むしろ論理なんて邪魔だと言わんばかりの言い種だったのだ。
そりゃあすんなりとは呑み込めないだろう。
とはいえ他に手がかりもないので、結局は椿の案に従う他ない。
リーちゃんと二人道路脇に寄ってみて、今度は俺だけが手を差し出してみる。
「べとべとさん、お先にどうぞ」
返事は無い。足音も無い。べとべとさんが動いたかどうかすらわからない。
ゲームみたいに正解音でも鳴らしてくれりゃいいのに。
「これで大丈夫、なんだよな」
「どうでしょうね。案外、姐さんの想定すら超えてたりとか」
「不吉なこと言うなよ……椿に論破されたのが悔しいのか? リーちゃん」
「悔しくはないです、腑に落ちないだけで」
無表情のまま歯噛みするリーちゃんは、こちらに目を合わせようともしない。
やっぱり悔しがってるじゃん……
気を取り直して再び歩き出すと、もう粘着質な足音は聞こえなくなっていた。
こんな簡単なことだったなんて。リーちゃんと二人、決死の覚悟を語りあっていたのが恥ずかしくなってきた。
「帰るか」
「はい」
ずいぶん遠回りしてしまったが、再びリーちゃんの住むマンションへと向かう。
もう時間は深夜1時を回っていた。町も空気も星空も、穏やかな沈黙を湛えている。
べとべとさんさえいなければ、この静けさを堪能できていたのだが。
マンションの明るいエントランスに着くと、一気に力が抜けた。
色々あったが、無事リーちゃんを家まで送り届けられたのだ。これでやっと俺も家に帰れる……
「じゃ、俺はこれで」
「待ってくださいナガさん。一人で帰るの怖くないですか?」
「まあ怖くないと言えば嘘だが、早く寝たいしな」
「怖いなら無理に帰る必要もないのでは」
「……もしかしてリーちゃん、一人で寝るの怖い?」
「いえ、全然怖くはないです。ただナガさんが心配と言いますか。やはり夜道は危険ですから。クマとか出るかもしれませんし。あと変質者とか。カルト教団とか。あるいはキャトルミューティレーションとか」
「あー、わかったわかった。俺も怖いからリーちゃんの家に泊まるよ」
「……どうも」
結局その晩はリーちゃんの抱き枕にされて、色んな意味であまり眠れなかった。
幼く見える彼女に妙な気持ちは抱きたくないのだが、彼女からの全身から伝わってくる熱でぼんやり頭が蕩けそうで。
ギリギリ理性を保ててはいるが、このままだといずれ陥落させられそうだな。
何より、「それも悪くないか」と思い始めている自分が恐ろしい。
翌朝、リーちゃんが寝ているうちに自分の家へ帰ることにした。
講義に必要な参考図書を用意する必要があったからだ。
椿がベッドに潜んでいたらどうしようかと不安だったが、幸い家はいつもと変わらぬ空気感であった。
もちろんべとべとさんが侵入してきた形跡も無い。
それにしても眠いな。今日の講義は起きていられるだろうか……
朝食を取り終えて玄関ドアを開けると、散歩を待つ犬のように尻尾を振った椿が待ち構えていた。
もうこれだけで礼を言う気が半分くらい失せたが、まあ助かったのは事実だしな……
「さあ先輩、お礼に何をしてくれるんでしょう? 指輪でも花束でも喜んでお受け取りしますよ」
「あーはいはい、ありがとう」
「物品じゃなくてもいいですよ。先輩の愛が伝われば何でも……あっ」
椿は俺の後ろを指さし、そのまま固まった。俺の背にあるのは、誰もいないはずの部屋。
嘘だろ? 部屋の中に何かいるのか? まさか、べとべとさんが……
「嘘でーす。怯える先輩もかわいいですねえ」
「お前……やめろよ本当……」
「うふふふふ。夜中まで莉依ちゃんと遊んでた罰です」
椿は俺の背中に回り込んで広背筋をベタベタと触ってくる。
実はコイツも妖怪の一種なんじゃないだろうか。
「一応お前のお陰で助かったけど、もしお前のアドバイスが通じなかったらどうすりゃ良かったんだろうな」
「ああ、その時は」
椿が顔を歪ませ、おぞましい表情でニタァと笑った。
「私が殺しに行きますよ、べとべとさんを」
怖っ……なんで妖怪を殺せる前提なんだコイツ。
昨日リーちゃんの家に泊まったのは黙っておいた方がいいな……もうバレてるかもだけど。




