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B2―3 リクエファクション その3

 リーちゃんが隠したかった「何か」を理解してしまった俺は、脇の下をつたう汗が止まらなくなっていることに気づいた。

 なるほど、さっきリーちゃんが汗だくになっていたのはこういうわけか。


 今はべとべと音は聞こえてこないが、かえってその静寂が薄気味悪い。

 破裂寸前の風船を鼻先につきつけられている気分だ。


 知りたくなかった。知るべきではなかった。「べとべとさん」の持つ、底知れぬ恐ろしさを。


 べとべとさんは一般的に「ただついてくるだけの妖怪だ」と言われている。

 しかしそれは、あくまで伝承でしかない。つまり、「生き残った人が持ち帰った情報でしかない」ということだ。


 リーちゃんの顔がまともに見れない。きっと俺はひどい表情をしているのだろう。

 そんな俺を気遣ってか、リーちゃんが覗き込んでくる。

 近い。鼻先がぶつかりそうな距離だ。平常時ならドキドキしたりしてたんだろうか。

 無論、今はそれどころじゃないが。


「ナガさんもお気付きでしょうから言っちゃいますね。べとべとさんに行き逢って、『お先にどうぞ』で生還した記録しか残っていない理由には二つの可能性が考えられます」


 指を二本立てたリーちゃんは、顔を上げた俺の前で語り始める。

 彼女の出した結論は、俺の持つ答えときっと同じだろう。


「まず一つ、べとべとさんに行き逢った人間は全員『お先にどうぞ』が通用して何事も起きなかったため、それ以外の記録が残っていない可能性があります」


 中指を折り曲げつつ、リーちゃんは淡々と語った。


 彼女の言う通り、みんなが生還している可能性もあるのだ。しかし、今回の話にはもう一つパターンがある。

 最低で最悪の、悪夢みたいな可能性。


「そしてもう一つは……」


「『お先にどうぞ』で逃げ切れなかった人間はこの世に一人も残っていない、という可能性……だろ」


 明かりの切れかけた街灯がパチパチと点滅した。そして俺たちを突き放すように、冷たい秋風が木の葉をさらっていく。


 気づけば二人とも、声一つ出せなくなっていた。黙ったところで現実から逃げられるわけでもないのだが。


「どうしましょうね」


「どうしようもねえよな……」


 捨て鉢な気持ちで後ろを睨み付けてみるが、元凶の姿はどこにも見当たらない。

 そこにいるなら姿を見せろよ、と怒鳴ってやりたかったが、無駄に刺激して反撃を食らっても野暮だ。


 悔しくとも、ここは歯を食いしばって解決策を案じるしかないのだ。

 さきほどから目をつぶって考え込むリーちゃんを見習って、俺も前向きに策を講じないと。


「うーん。二手に分かれる、とかですかね」


「それは……」


 俺も思いつかなかったわけじゃないが、かなり苦しい策だ。


 おそらくべとべとさんは、俺たちが別れればどちらか一人にしかついてこないだろう。さすがに分裂とかはできないだろうし。

 ポジティブな見方をすれば、二人のうち少なくとも一人は何事もなく生きて帰れるはず。

 逆に言えば、いずれか一方が犠牲になるわけだが……


「わかった。二手に分かれて、リーちゃんにべとべとさんがついてきたら、助けに行くよ」


「ダメです。どっちが憑かれても恨みっこなし、助けっこなしでいきましょう」


「でも……」


「大丈夫です。いざとなれば一晩歩き続けてでも逃げますから」


 リーちゃんはアキレス腱を伸ばすストレッチをし始めた。気合い十分、と言いたいのだろう。

 しかしその背中はひどく小さく見えた。


 とはいえ、このまま二人で歩き続けても解決しない問題ではある。

 二手に分かれてべとべとさんが混乱してくれれば儲けものだ。

 わずかな希望に賭けてみてもいいか。




 目線で合図し、俺たちは逆方向へと歩き始めた。


 リーちゃんの足音が遠ざかっていく。はたして、彼女の耳にべとべと音は聞こえているのだろうか。

 リーちゃんが歩き出して3分ほど経った。彼女の足音はもう聞こえないし、俺もそろそろ歩き始めるか。


 俺が歩き始めて間もなく、


 べと、べと……


 泥だらけの長靴で歩いた時のような、不快な音が後ろから追いかけてきた。


 なるほど。俺の方が「当たり」ってわけか。


 これで良いこれで良いのだ。

 起死回生のアイデアは思い浮かばないし、不安で胸が押し潰されそうなのだが、それでもか弱いリーちゃんが狙われるよりはよっぽどマシだ。


「おわっ!?」


 しばらく歩き続け、T字路に差し掛かったところで左側から影が飛び出してきた。

 影……? いや、人か。


 背の低い女の子、おどけた足取りの彼女は……


「リーちゃん!? なんでこっちに!?」


「デタラメに歩いてたら一周してたみたいですね。偶然ってこわい」


 見え透いた嘘だ。リーちゃんは自身にべとべとさんがついてきていないことを知った瞬間から、走って回り込んできたんだろう。

 彼女が軽く息切れしていることが何よりの証拠だ。


「どうやらヤツは俺にご執心みたいだし、リーちゃんは今のうちに帰ってくれ」


「しかしですね」


「ハァ……こんなところで死にたくねえだろ」


「ええ、死ぬのは怖いです。まだやり残したこともたくさんあります。今シーズンは揚げもみじも食べてないし、友達から借りているサンアンドレアス断層の本も返さないとですし」


「なら、なおさら俺のことなんて見捨てろよ」


「ではお訊きしますが、ナガさんが逆の立場だったら、わたしのことを見捨てましたか?」


「見捨ててたよ。すぐ家に帰って寝てたはず。間違いないね」


 その時、無表情なはずのリーちゃんが軽く微笑んだように思えた。

 あまりに一瞬のことで思わずまばたきを繰り返すと、元の仏頂面のリーちゃんに戻っていた。


 どこか遠くで、鐘の音が聞こえる。あるいは古時計の音だろうか、少し心が安らぐように感じた。


「ナガさんはどうしようもない人ですね、どうしようもなく、不器用な人」


 ぽつりと呟いた後、リーちゃんは俺の横に並び、腕にまとわりついてきた。

 これが世間のバカなカップルがよくやる「腕を組む」ってやつか。


 案外悪くないな。人気がなくて寂しい、こういう夜には。


「さて、どこに行きます? 地獄ですか? おともしますよ、飽きるまでは」


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