B2―2 リクエファクション その2
再び俺たちが歩き出すと、やはり「音」は後ろからついてきた。
べと、べと……
相手は鈍重な歩みだし、走れば振り切れるか? あまり希望は持てないが、ひとまず試してみよう。
リーちゃんと目線で合図し、一斉に駆け出す。
べとべとべとべと……
後ろの音もスピードを上げ、俺たちの移動速度に合わせてついてきた。
そう簡単には振り切れないか……厄介だな。
速度を落とすのは少し怖かったが、ずっと走り続けるわけにもいかないので、徐々にペースダウンしていく。
すると、ついてくる音も俺たちに合わせて速度を落としていった。
俺たちが歩きの速さに戻った頃には、後ろの音も「べと、べと……」と元の鈍い歩みに戻っていた。
「ふぅ。やはり逃げるのは無理っぽいですね」
「ハァハァ……せめて正体がわかればなあ……」
「誰か詳しい人がいればいいのですが」
「そうだなあ……」
最初に思い浮かんだのは浅井先生のおばあさんだが、こんな夜中に連絡が繋がるのだろうか。実害も出てないし、いま起きていることが怪異の仕業なのかもわからないし、相談はしづらいな……
他に詳しそうなのは椿だが、夜中にリーちゃんと二人でいることがバレたら面倒くさそうだ。
わざわざ厄介事を増やすなんて本末転倒だしな。
うーん、適任者がいない……
「心当たりはありませんか?」
「無いわけじゃないんだが、色々問題があってな」
「仕方ありません。ぐーぐる先生に頼りましょうか」
「検索しても出てこねえだろ、こんな謎現象……」
「ヒットしました。100件ぐらい」
「あるの!?」
曰く、夜中に怪しい音を立ててついてくるこの妖怪は、「べとべとさん」という名で呼ばれているらしい。
音が不穏なだけで実害はなく、ただひたすら不気味なだけの妖怪だそうだ。
しかもありがたいことに、解決法はいたってシンプル。今すぐにでも実践できるものだった。
まず俺が道路の右端に寄り、リーちゃんは道路の左端へ。道の真ん中を空けるような形を取る。
そして二人で声を合わせてこの台詞を告げるのだ。
「べとべとさん、お先にどうぞ」
リーちゃんと二人、何もいないはずの空間に頭を下げてみる。
「べとべとさん」とやらの姿は見えないが、後続に道を譲るなら頭を下げるのが礼儀だろう。
「これで大丈夫、なんだよな?」
「おそらくは。もしダメなら打つ手なしですね」
「怖いこと言うなよ……」
おそるおそる一歩を踏み出してみるが、あの粘着質な「べと……」という音は聞こえてこない。
よし、それならこのまま……
べと、べと……
普通の歩行ペースに戻すと、再び音が聞こえてきた。
「嘘だろ……」
思わず足が止まる。リーちゃんも、顔色こそ平静だが、小さく手が震えているようだ。
「やべーですね」
「えっと……他に対処法は書いてなかったか? 逆走するとか、その場で回転するとか」
「いえ、何も」
「マジかあ……」
いや、絶望するにはまだ早い。色んな抜け道を検討しないと。
「電車に乗って逃げる、とか」
「一緒に乗りこんでくるんじゃないでしょうかね。改札で弾かれることもなさそうですし」
「ならタクシーで」
「もし『べとべとさん』が車並みの速度で走れたら終わりですね。超高速のべとべと音、聞きたいような聞きたくないような」
「気にせず家まで帰るか?」
「十中八九、家に上がりこんでくるでしょうね」
「なら警察か。国家権力を頼ろう」
「警察の人にべとべと音が聞こえますかね? 薬物中毒者と勘違いされて我々が逮捕されるのでは」
くっ……何をやってもダメじゃねえか。
こうなれば朝まで待つか? でも、どこで?
家には帰れないし、ネットカフェとかホテルにべとべとさんを連れていくわけにもいかないし…
「もう少しネットで調べてみるか。べとべとさんに行き逢った人はどうなるんだ?」
「うーん。大した情報はありませんね。皆さん『お先にどうぞ』の文言で回避できてるみたいですし」
「ってことは、今の俺たちの状況は相当イレギュラーなんだな……」
解決策なし、か。何もされてないのに心が折れそうだ。
いや、待てよ。俺たちはまだ「何もされてない」んだよな。それなら、必要以上に怯えることもないのか?
もしこの「べとべとさん」が俺たちを害するつもりなら、とっくにそうしているだろう。
走っても立ち止まっても攻撃される気配は無いし、ただイタズラ好きなだけの妖怪なのかも。
俺が安堵の息を吐きかけた瞬間、リーちゃんの額に玉のような汗が浮かんでいることに気づいた。
もう季節は秋で、大して暑くはないはずなのだが。さっき走ったからだろうか?
「リーちゃん、ひどい汗だぞ。大丈夫か?」
「いえ、大丈夫です。わたしは完璧に大丈夫です。オールコレクト。大丈夫の中の大丈夫と言ってもいい」
おかしい。リーちゃんがおかしいのはいつものことなのだが、それにしても挙動不審すぎる。
なんだ? 何かを隠そうとしてる? あるいは、ごまかそうとしてるのか。
「なあリーちゃん、こうなったら一蓮托生だろ? 隠し事抜きでいこうぜ」
「隠し事。何のことでしょうか。身に覚えがないですね。痛くない尻を探られるとはこのことか」
「『痛くない腹』な。尻だったら痔みたいだろうが」
「ああ、そうです。持病の痔が発症して汗が滲んできたわけです。隠したいですよね、痔」
リーちゃんの表情はいたって真剣だが、おそらく痔ではなかろう。尻を庇う素振りなんて見たこともないぞ。
しかし、うら若き乙女が痔を詐称してまで隠したい事実か。
知られるとよっぽど都合の悪いものなんだろう。
リーちゃんのことだから、俺を陥れるために嘘をついているとは考えにくい。
だとしたらその逆? 俺を庇うために嘘をついている、とか?
この状況下での嘘となれば、確実に「べとべとさん」関連だろう。
今までの情報を総合して、「べとべとさん」に関して俺が知るべきではない事実、あるいは可能性とか……
あっ、もしかして……




