A4―4 焼き餅焼くとて手を焼くな その4
倒れた椿の前に屈み込んだ良子は、ポーチから白いハンカチを取り出し、椿の目元を拭った。
涙を拭かれるのを嫌がる椿は左右に身をよじったが、動きが制限されているため逃げ出すことはできない。
敵から情けをかけられて悔しいのだろう。椿は血走った眼で良子を見上げた。
「同情ですかっ……バカにしないでください……」
「いいえ、同情しているわけじゃないの」
「じゃあ何ですか。勝者としてのアピールですか? 地べたに這いつくばるしかできない憐れなケダモノに対する勝利宣言ですか?」
「意地悪がしたいわけでもないの、ただ……」
「はあ」
「私は、本庄さんを他人とは思えなくて」
椿の睨み顔が、徐々に怪訝な表情に変わっていく。
実のところ俺も良子が何を言おうとしているのか理解できない。良子と椿に似ているところなんて無いだろうに。
「意味がわかりません。私と貴女は真っ赤な他人で、憎むべき仇敵のはずです」
「そうね……確かに敵なのかもしれないわ。でも、だからこそ、他人じゃないの」
「良子、どういう意味だ? 俺にも理解できないんだが……」
「私、本庄さんのことが羨ましかったの」
まだ止まらない椿の涙を拭きながら、良子は語り始める。
椿は呆気に取られたのか、ハンカチから逃れようともしなくなった。
「羨ましいって、本気か?」
「お世辞でも誇張でもないわよ。私は結局宗介くんが告白してくれるのを待っていただけの臆病者だから。真っ向から挑み続ける本庄さんが羨ましかった……」
「……ふふ。それでも結局負けたのは私ですよね? どうせ自分が勝つってわかってたでしょうに。嫌味ですか?」
「いいえ、今の私は運が良かっただけ。本庄さんもそうだけど、宗介くんの周りには素敵な女の子がいっぱいいるじゃない? 何か一つでもボタンの掛け違いがあれば、きっと私だってここにはいられなかった……」
「素敵な女の子」かはともかく、確かに俺のことを想ってくれる女の子は他にもいた。
俺の気持ちが揺れたことがあるのも事実だが、しかし良子とともに生きることを選んだのもまた事実。
俺にはあまり想像はできなかったが、良子には「別の可能性」が見えていたのだろうか。
「特に本庄さんは私よりずっとエネルギーが強いから。私、本当に宗介くんを取られないか心配だったのよ」
「そんなこと……」
良子の言葉を否定しようと彼女の顔を覗き込んだが、良子はいたって真剣な眼差しだった。
まさか、俺と椿が結ばれるような未来が存在し得たでも言うのだろうか。
俺としては想像すらしたくないが……
「で、そんな妄想が私の慰めになるとでも?」
「慰めるつもりじゃないわ。同情するつもりでもないの。ただ、立場が逆転していた可能性を考えると、本庄さんの気持ちを無下に扱えないな、って」
「貴女に丁寧に扱われたところで、何の救いにもなりませんが」
「それに、出会い方が違っていれば、きっと私と本庄さんは良い友だちになれていたのかも」
「意味がわかりません。私と? 貴女が? 友だち? 何の根拠があって……」
「同じ人を好きになるってことは、きっと私と本庄さんの価値観は似てるんだろうなって」
「似てたら何なんですか……少なくとも今の私は貴女のことが嫌いです。その甘っちょろい態度も、夢見がちな妄想癖も」
冷たい風がふきすさび、跪いた良子の髪に枯れ葉が一つ落ちる。
良子はそれを払いのけるでもなく、静かに椿の目を見つめていた。
椿もまた良子を睨み付けているのだが、視線で会話しているという風でもない。
二人の見ている世界があまりにも違いすぎて、争いにすらならないのだ。
決して交わらない二つの位相。和解というにはあまりにも遠いが、今の俺たちにこれ以上の歩み寄りは難しいのだろう。
それからの日々は平和そのものであった。今まで椿に煩わされてきたのが嘘のように、日々は滞りなく過ぎていった。
俺も冬から就活を始めたのだが、ずっと塾でバイトしていたお陰で人事担当者からの感触は悪くない。
順調にいけばいずれかの塾会社から内定をもらえそうなので、どの会社を第一志望にするか検討する必要がありそうだ。
良子も司法書士試験に向けて勉強を続けているが、一方でロースクールへの進学も検討しているしい。彼女が将来に向けて努力している姿を見ると、俺も気力が湧いてくるというものだ。
そして、気がつけばもう俺たちは四回生になっていた。いわゆる最高学年だ。もう卒業が間近に迫っている。
このまま椿は俺の前にずっと姿を現さないつもりだろうか。
ほぼ毎日会ってたはずが、すっかり顔を見なくなったからな……
ちゃんと大学に通ってるんだろうか。伊坂に訊けばわかるかもしれないが、何となく触れづらい。
アイツが休学しようが俺たちの責任ではないのだが、喉に刺さった小骨のようにずっと心に引っ掛かっている。
それに、俺以上に椿を心配している人間がいるのだ。
「最近、本庄さんとめっきり会わなくなったわね」
「そうだな。まあ、今までが異常だっただけで、これが普通なんじゃないか。失恋なんて誰でも経験するし、みんな忘れていくもんだろ」
「そうね。でも……」
「でも?」
「本庄さんにとっては失恋どころじゃないのかも。それこそ、生きる目標を失うほどの……」
「……いいか良子。君が罪悪感を覚える必要はない。みんなが幸せになれる世界があればいいんだけど、現実はそうじゃないんだ。誰かが喜べばその裏で誰かが傷つく。これはもう、優しさでどうにかできる次元じゃない」
「そう……そうよね……」
涙ぐむ良子を抱きしめてはみるものの、俺も胸に大きな穴が空いているような心持ちだった。
言い訳のような慰めは良子に聞かせたかったものなのか、あるいは自分に言い聞かせる台詞なのか。
もはや自分でもわからなくなってきていた。
そんなある日のこと。
「武永さん、今晩どうっすか?」
酒瓶を傾ける仕草で話しかけてきたモアちゃん。その声は、飲みの誘いの割にはやけに低音だった。
「おおモアちゃん、久しぶりに会ったな。予定は空いてるからちょっと良子に訊いてみるかな」
「折角なら浅井さんも連れてきてほしいっす」
「いいけどセクハラはすんなよ」
「今日だけはしないっす。どうしても聞いてほしい話があるんで」
「話って?」
「その……つばっちのことなんすけど……」




