A4―3 焼き餅焼くとて手を焼くな その3
「お前の大好きな『まじない』だよ。やったらやり返される。当たり前だろ?」
「こんな草ごときで私を止められるとでも?」
「本当は葡萄の蔓が良かったんだが、なかなから見当たらんものでな」
「何を訳のわからないことを……」
椿は鬼気迫る表情のまま、俺に近づこうとフラフラ歩いてきた。
その足取りを見るに、立っているのもやっとのはず。それでも一歩一歩、確かにこちらに迫ってくる。
やはりこの程度では止まってはくれないか。なら次の手だ。
鞄からプラスチック製の櫛を取り出し、その歯を何本か折って椿の足元に投げつける。
櫛のかけらが、パチパチと音を立てて床に無造作に散らばった。
「今度は何を……」
「すぐにわかるさ」
足元のかけらを警戒した椿は、それを踏まぬようそっと足を持ち上げたが、そのポーズのまま硬直してしまった。
どうやら櫛の破片より先、つまり俺のいる方へは近づけないらしい。
「結界、ですか」
「ああ。神話ならここでタケノコが生えてくるらしいが、さすがにそこまではいかないようだな」
「神話……まさか?」
さすが文学部だけあって椿も『古事記』を読んだことはあるようだ。
そして、今俺が使用した呪物がどのような由来を持つものかも理解したのだろう。
「なるほど、『黄泉国探訪』の再現ですか。浅井祖母の入れ知恵ってところですか?」
「そうだよ。まあ、それがわかったところでお前にはどうにもならんがな」
「小癪な真似を……」
椿は精一杯強がってみせたが、内心動揺しているようだ。
フラフラ左右に揺れながらこちらを睨みつけるだけで、それ以上目立った行動を取ってこない。
良子のおばあさんは傲岸不遜な椿が一目置いている数少ない人間なのだ。
その人が敵に回ったと知れば冷静ではいられまい。
このチャンスを逃すわけにはいかない。さらに畳み掛けてやる。
俺は桃ジュースの入ったペットボトルを取り出し、それを椿の顔面にぶっかけた。
さっきから重心のぐらついていた椿の身体が、ついに崩れ落ちる。
ようやくワンダウン取れたのだが、まだ意識はあるらしく、椿の右手指はピクピクと動いている。
その姿は、殺虫剤をかけられたクモを彷彿とさせた。
椿が入ってきたドアから遠い方の出入口へゆっくりと向かう。決して奴から目を離さないよう慎重に。
とにかくしぶとい奴だ。最後まで油断はできない。
それにしても、良子のおばあさんの提案してくれた儀式は効果覿面だな。
使用する呪物があまりに日常的なものなので、効用のほどは少し疑っていたのだが。
植物の蔓、櫛、桃はいずれも『古事記』に登場する日本最古のヤンデレ神、イザナミノミコトから逃げるために使用された由緒正しい代物である。
葡萄の蔓は手に入らなかったし、櫛だって古代のものとは違うだろうが、それでも通用することはおばあさんに確認していた。
呪術を行うにはとにかく「験」が大事で、細かい部分は代用・省略をしても一定の効果が出るものらしい。
「腐りにくいだろうから桃ジュースを使ってもいい」と聞いた時は何の冗談かと思ったものだが、ここまで効くとは。
伏せたままでブツブツと何事か呟く椿。そのおぞましい姿を見ると、とても同情などできなかった。
ヤンデレと化したイザナミノミコトから逃がれようとしたイザナギノミコトも同じような気分だったのだろうか。
もっとも、彼の場合は冥府に堕ちた妻を相手にしていたので、俺よりもずっと複雑な気分だったのだろうが。
床に倒れた椿をそのままに、ドアを開く。俺が外に出る直前、椿がまだ何事か呟いていたような気がするが、耳を貸さない方がいいと判断して走って逃げ出した。
あんまり早く走ったせいか、椿に抱きつかれていた時に感じた痛みがぶり返してくる。
そう、これはきっと物理的な痛みなのだ。人を拒絶した痛みとか、そんなセンチメンタルなものではなく……
それからの日々は以前よりずいぶん穏やかになった。
魔除けとして蔓、櫛、桃の3点セットを配置することで、今までのように椿の邪魔が入らなくなったのである。
良子との仲も進展してきたように感じる。さまざまな場所にデートに行き、時々泊まってくれたり、ずいぶん普通のカップルらしくなってきた。
あまり詳しくは言えないが、色々進んだ部分もあるし……
実に満たされた気分だ。ようやく理想の大学生活を手に入れたと言っても過言ではないくらいに。
しかし「好事魔多し」とはよく言ったもので。
「本庄さん……」
「久しぶりですねえ浅井さん。先輩とうまくやっているようで何よりです。ああ羨ましい、憎たらしい……」
「何しにきたんだよ。また呪物をぶつけられたいのか?」
「どうぞお好きになさってください。何度拒まれても私は諦めませんよ。私か先輩が死ぬまでは」
脇目もふらず椿が迫ってくるので、仕方なく蔓、櫛、桃ジュースを一気に浴びせかける。
以前と同じように、椿はその場に倒れ伏し、ピクピクと痙攣しだした。
「だ、大丈夫? 本庄さん……」
「近づくな良子。罠かもしれん」
「でも……」
「こんな状態でも話はできるはずだ。俺が交渉するから下がっててくれ」
良子を背に隠しつつ、椿に一歩近づく。やはり痙攣するだけでリアクションは無い。
「なあ椿、もういい加減にしろよ。こっちだってこんなことやりたくないんだよ」
「や、め……」
「なんだよ……」
「やめたところで……私に何のメリットがあるんですか……先輩と浅井さんが幸せに過ごして、めでたしめでたしってことですか……」
「そりゃお前には悪いとは思うけど……」
「悪い? 悪いって何ですか。私が先輩を好きになったことが悪いって意味ですか」
「いや、そういうつもりじゃ……それにだな、そもそもお前が俺に執着するのは前世からの因縁で、お前が囚われる必要は……」
「違います。私は、私の意思で、先輩を愛しているんです。そんなところまで否定されたら、私はどうやって生きていけばいいんですか……」
椿の切実なぼやきに応える言葉も思いつかず、無意識に目線を逸らす。
すると、椿の目元あたりの地面が濡れていることに気付いた。気付いてしまった。
そのまましばらく固まっていると、良子が一歩前に出て、うずくまった椿の前に屈みこんだ。
良子はいったい何を……




