A3―5 好いた水仙好かれた柳 その5
互いの息が重なる距離。心臓が破裂しそうに速く脈打つ。
触れてもいないのにわかる。良子の体温も普段よりずっと上がっている。
生あたたかい空気感に全身が包まれて、それだけで心地がいい。
頭がクラクラして、神経がふわふわして、まるで夢の中にいるような気分だ。
それでも互いの吐息だけはやけにハッキリと聞こえる。
いま地球上にいるのは、ここにいる二匹の生き物だけなんじゃないかと錯覚するほどに。
そして、俺の右手が良子の頬に触れた瞬間、玄関のチャイムが「ピンポーン」と鳴った。
あまりにも最悪なタイミング……どう考えても椿だろう。また盗聴でもしてやがったのか? それにしては割り込んでくるのが遅いような気もするが。
「こんな時間に誰かしら」
「どうせ椿だろう。無視しとくかな」
「でも……」と良子が言いかけると、またチャイムの音が「ピンポーン」と鳴った。
少し様子がおかしい。椿なら今ごろチャイムを連打しているだろうに。妙に控えめというか、椿らしくないやり口だ。
「ハァ……誰なんだよまったく」
良子との甘いムードが急速に萎んでいったのを感じる。
もはやチャイムを無視して何かする気にはなれなかった。きっと良子も同じだろう。
不承不承ながらベッドを降り、部屋の電気を点ける。LEDの白々しい眩しさが不愉快だ。
そのまま玄関まで歩いていき、覗き穴から訪問者の姿を探るが、そこには誰も映っていなかった。
やっぱり椿の嫌がらせか? でもアイツなら、今ごろドアをバンバンと叩きながら俺たちを外に出そうとしてくるだろう。
やり方がやけに地味なのだ。もしかして伊坂あたりが椿の指令で邪魔しに来たのか? それなら十分あり得そうだ。
「こんな夜中に何の用だよ!」
なかば怒鳴りながらドアを開けると、そこには誰の姿もなかった。
俺の叫び声だけが狭い廊下に虚しく響く。
どうにも薄気味悪い。首筋に雨粒が落ちてきたと思ったら、空には雨雲一つ見えなかったような、奇妙な感覚。
とはいえそれ以上できることもないので、空手で良子の待つ部屋へ戻る。
「誰かいたの?」
「いや、誰も……何なんだろうな。もう日付も変わってるのに」
「いたずら、かしら」
「かもな。椿の姿が見えたらまだわかりやすいかったんだが」
気まずい沈黙が流れる。初めてお泊まりデートだというのに、砂を噛んだようなつまらない雰囲気になってしまった。
いつもならもう眠っている時間だからか、思わずあくびが出てしまう。
良子も目をしぱしぱとさせて、今にも意識が落ちそうだ。
「とりあえず、今日のところは寝ましょうか。気にはなるけれど」
「寝たいのはやまやまだけど、不審者とかだったら嫌だしな。俺は起きて見張っとくよ」
「ありがと……宗介くんも眠くなったら私のこと起こしてね。見張り、交代するから」
「ああ、悪いな」
それから朝の4時までずっと見張りを続けていたが、もうチャイムが鳴ることはなかった。
それどころか、不審な物音一つ聞こえないくらいで、かえって不気味が増したくらいだ。
そして気づいた時には俺も床で横になっており、いつの間にか布団が半分掛けられていた。
朝食は良子が用意してくれていたらしい。フレンチトーストらしき甘い匂いが漂っている。
「おはよう、宗介くん。ごめんね私、結局起きれなくて」
「俺も寝てたからなあ……何にせよ、異変がなくて良かったよ」
「そうね……朝ごはん勝手に作っちゃったけど食べる?」
「ありがとう。助かるよ」
良子の作ってくれたフレンチトーストは疲れた神経を癒してくれたのだが、昨晩のことが気にかかって存分には味わえなかった。
邪魔が入らなければ今ごろ俺は良子と、はにかむような朝を迎えていたはずなのに。
許せねえな、まったく……
寝不足の頭ではあったが、このまま黙っているわけにはいかない。
三限の講義を終えた後、文学部棟にあるベンチで椿を待ち伏せする。
果たして奴が姿を現した。俺の姿を見ると、嬉しそうに小走りで駆け寄ってくる。
「お出迎えですか先輩。嬉しいですねえ、やっと浅井さんと別れる気になりましたか?」
「つまらん冗談はやめろ。お前、昨日の夜は何してやがった?」
「昨日ですか? 先輩と将来暮らすために田辺市の土地価格情報を調べていました。地価は近年下落傾向にあるんですねえ」
「妄想が具体的すぎてキモいんだよ。それよりお前、俺に何か言うことないのか」
「……? 愛しています」
「そうじゃなくて」
「一生かけて添い遂げます」
「違うだろ」
「浅井とかいうメス犬とさっさと別れてください、とか?」
「もういい。お前がとぼけるならこれ以上の会話は無駄だな」
俺がベンチから立ち上がり、苛立ちまぎれに枯れ葉を蹴り飛ばしたところで椿がクスクスと笑いだした。
「なるほどなるほど」
「何ニヤニヤ笑ってやがる。お前、やっぱり昨日俺の家に……」
「別に? 私は昨日先輩の家には近づいてませんよ。色々とやることがあるので」
「嘘をつけ。今まで俺のことを散々ストーカーしてたくせに、今さら信用できるか」
「そこまで言うなら証拠を見せてください。先輩のマンションについてる防犯カメラでも見てみますか? 昨夜どころか一昨日もその前も私の姿は映っていないはずですよ。私だけじゃなく、怪しい人物すら映ってないはず……」
椿はいやらしい笑みを崩さないまま。これ以上話してても埒があかないな。ひとまず退散して、対策を練らないと。
俺が背を向けて歩き出しても、珍しく椿は追いかけてこなかった。
アイツが何か仕掛けてきているのはわかっている。わかってはいるのだが、手段が知りえないのでは手の打ちようがない。
幸せな気分でまどろんでいたところに、氷粒をぶつけられた気分だ。
意図的に目を背けてきたのだが、やはり椿との決着はつけねばならないか。
毎回あんな風に邪魔をされては、良子とまともな恋人生活を送ることはできないしな。
あんまり取りたくはない手段だったが、あの人を頼るしかないか……




