A3―4 好いた水仙好かれた柳 その4
「ち、散らかってて悪いな……はは」
「ううん、一人暮らしだと掃除も大変よね」
「えっと、コーヒー飲むか? あっ、でもさっき店で飲んだか」
「お気遣いなく。シャワーだけ借りてもいい?」
「お、おう! 着替え準備しとくよ。えっと、あんまり使ってないスウェットがこの辺に……」
浴室からシャワー音が聞こえる。もうその音だけで頭がのぼせ上がりそうだ。
全然心の準備なんてできていないが、もう行けるところまで行くしかないのだろう。
人生にリハーサルはない。いつだって本番なのだ。
緊張しないと言えば嘘になるが、どこかで開き直ることも必要なはず……たぶん。
それにしても良子はどういう気持ちで家に来たのだろうか。
もしかして、あんまり深く考えずにここまで来たとかそんなオチじゃないよな。
前は村瀬もいたとはいえ、同じ屋根の下で寝ていたこともあるわけだし、友達感覚で泊まりに来たとか。
十分あり得るな。あの天然ボケの良子のことだ。
そうなると手を出したりしたら気まずいか?
いや、でもお互い大人なんだし、付き合ってる相手に何もしないなんて逆に失礼なんじゃないか?
何もしないことでかえって「こんなにヘタレだったのね……」みたいに失望されたら?
そこまで大げさでなくても、いくらか落胆される危険性はあるだろう。
しかし俺たちは付き合ってまだ1ヶ月くらい。普通に考えれば、焦って関係を深める必要もないような。
待てよ、「普通」ってなんだ? そもそも「普通」を目指すべきなのか?
わからん。考えれば考えるほどドツボにはまっていきそうだ。
不慣れなシチュエーションで俺も冷静な判断ができなくなっているのかもしれない。
うーん……後で俺もゆっくりシャワーを浴びて、文字通り頭を冷やしながら思案するのが良さそうだ。
ひとまずはラジオでも聴きながら心を落ち着かそう。良子のシャワー音だけが聞こえてくる今の環境は非常に危険だ。
ラジオからの音楽、その4曲目が終わったところで肩にタオルをかけた良子が姿を見せた。
良子は女性にしては背が高い方ではあるが、それでも男物のスウェットは少しサイズが大きいらしい。
濡れた髪にダボッとした寝巻き、無防備なその姿に思わず心臓が高鳴る。
良子の家族と俺以外見ることのできない姿だ。こんな刺激物を見せられてはとても冷静ではいられない。
自分でも目が泳ぎまくっているのがわかる。
「どうしたの宗介くん? 私なんか変?」
「いや全然! ナチュラル極まりない! ただ俺が、ちょっと眠くてぼんやりしててな」
「そう? 化粧落としたから変に見えるのかな、って心配になったわ」
「変どころか! 化粧してない時の良子もすごく綺麗だと思うぞ。本当に。あっいや……普段の化粧が似合ってないとかそういう意味ではなくて」
「ふふっ」
慌ててしどろもどろになる俺を見て、良子はクスクス笑った。
情けないところを見せてしまったな。もっとこう……堂々と振る舞うことができた方がいいんだろうけど、あいにく俺の頭は多幸感でパンク寸前なのだ。
「悪い。落ち着きないよな、俺……」
「ううん。そうじゃなくて……」
「え?」
「宗介くんも緊張してるんだなって思うと、なんだか安心しちゃって」
はにかんで笑う良子の表情が胸に突き刺さる。
なんだこれマジで現実か? 可愛すぎる。なんで俺こんな子と付き合えてるんだろう。もういま死んでもいいな。死ぬか。心残りがねえや。
なんてバカなことを考えながらも、俺の右手は良子にドライヤーを手渡していた。
なんだか心と身体が分離してるみたいだ。頭がフワフワしているものの、手足はいま俺のやるべきことをちゃんと進めてくれている。
洗面所に移動した俺の耳に、ドライヤーの稼働音が響いてくる。
安物だから良子の髪に合うかはわからないが、それでも無いよりはマシだろう。
聞き慣れたはずの乾いたドライヤー音が、今日はやけに艶かしく聞こえる。
それにしても「緊張」か。今の口ぶりからすれば良子もきっと緊張しているのだろう。
男としてリードしなければ。リードって何すればいいのかよくわからないが。
とにかくやるしかない。落ち着いてシャワーを浴びて、呼吸を整えろ。
夜はまだまだ長いはずだ。
シャワーを浴びたはいいものの、緊張は収まるどころかどんどん胸のなかで膨らみ続けている。
シャワー音もドライヤーの稼働音も消えた空間の中で、俺の心臓の音だけがやけにうるさい。
良子はいま何を考えているのだろう。一人残された部屋で、どんな風に俺を待っているんだろう。
緊張を携え、ベッドのあるリビングの戸を開けると。
布団をかぶってスヤスヤと眠っている良子の姿があった。
……マジで寝に来ただけなのか。俺の緊張は何だったんだ。
まあ、これはこれで悪くないか。こんなガチガチに緊張している状態じゃ、格好つけようにもうまくいかないしな。
先送りになったことは俺にとっても救いだったのかもしれない。
もう日付も変わりそうだし、俺も隣で眠らせてもらうとするか。
正直に言えば、隣に良子が眠っているという事実だけで心臓がバクバクと苦しくなるしな。
これ以上となると、血管が破裂してしまう可能性まである。
部屋の明かりを消し、良子を踏まないようベッドの隅に潜り込むと、その動きに気づいたのか彼女が目を覚ました。
「あれ、私いつの間に……」
「起こしちまったか、悪いな。疲れてるだろうしそのまま寝てな」
「うん……でも」
「ん?」
「目、覚めちゃったかも……」
暗い部屋の中、良子の上目遣いがぼんやり目に写る。
実はさっきのも狸寝入りだったとか? 電気が消える瞬間を待っていたとか。
まあ何だっていい。今ハッキリしているのは、手を伸ばさずとも触れられる距離に良子がいるということ。
彼女の表情は薄ぼんやりとしか見えないが、空気感でわかる。良子は、きっと待っているのだ。期待と言い換えても良いかもしれない。
これはもう……いくしかないな。




