A2―2 網なくて淵をのぞくな その2
「こんばんは先輩。あの女と別れる準備はできましたか?」
「帰れ」
「いま帰ってきたところですよ?」
「ここはお前の家ではない。帰れ」
今の時刻は20時。家でのんきにカップラーメンを啜っていた俺は、「宅配便でーす」の声に釣られてまんまとドアを開けてしまったのだった。
よく考えれば最近ネットショッピングをした覚えは無いし、荷物が届く予定のメールだって見ていない。
インターホン越しの声が完全に男性のものだったから油断していた。そんなもの、録音した声を使えばいくらでも騙せるというのに。
そして今、俺は我が家に押し入らんとする悪霊とドア開閉の攻防を繰り広げている。
「先輩、力を緩めてください。このままだと指が挟まりそうで」
「そうかそうか、それは大変だな」
「なんで力を強めるんですか! ひどい!」
「俺はいま丸腰なんだよ。せめて武装させてくれないとお前の相手なんかしてられるか」
「丸腰なら私も同じですよ。ね、怖がらなくていいですから。ちょっとだけ。休憩するだけですから」
「一晩休憩する気だろうがお前は!」
強引にドアを閉めようすると、椿はギリギリのところで手を引っ込め、なんとか閉め出すことに成功した。
まあ、この程度で終わるはずがなく……
ピンポピンポピンポンピンポーン!!と玄関脇のチャイムが乱打される。ドアも壊れそうな勢いで激しいノックが打ちつけられる様は、まるでサラ金の取り立てだ。
放っておいたら深夜まで騒音が鳴り止まないかもしれない。
ハァ……このまま放っておくわけにもいかないか……
こんな奴を野放しにしていたら、隣室の吉本くんにも迷惑がかかるしな。
一握りの塩を手に、俺は再びドアを開けた。
「もう、遅いじゃないです……わぁっ!」
「さっさとこの建物から出ていけ。悪霊退散怨賊難除」
「なんで塩を投げつけるんですか。私はナメクジじゃないですよ!」
椿が塩を払っている隙に、後ろ手にドアの鍵を施錠する。
俺も家から閉め出されたようなものだが、そうでもしないと椿は騒ぎ続けるだろうしやむを得ない。
しかし瀬戸内海の塩はやはり効果的だ。リーちゃんのオススメ品だけはある。
椿は口に入った塩を吐き出しながら苦々しい顔をしている。
「ナメクジみたいなもんだろうが。ベタベタ這い回りやがって」
「確かにナメクジは塩で縮みますが、単に縮むだけで簡単には死なないらしいですよ。私を殺したくば2tの塩を用意することですね」
「俺でも圧死するわそんなもん……」
不愉快なほどいつも通りの椿だ。
リーちゃんの様子を見て「椿も落ち込んでいるのかも」などとナイーブな想像をしていた己の愚かさを呪いたい。
めちゃくちゃ元気じゃねえかコイツ。
それにしても、また椿のペースに乗せられているのが癪だ。こんな奴とおしゃべりしている場合ではないのに。
明日は浅井先生とのデートなので、さっさと追っ払って眠りたい。
「で、今日は何しにきやがったんだよ」
「婚約者の家を訪ねるのに理由がいりますか?」
「だから誰がお前と婚約したんだよ……知ってると思うが、俺は浅井先生と付き合うことになったからな」
「でも婚約はしてませんよね?」
「それはそうだけど、お前な……」
「法的には何のしがらみもありませんよね?」
椿の細い目、その奥のあたりがだんだん黒く輝いてきたように見える。
まずい。エスカレートする兆候だ。なんとか沈静化させないと、きっとロクな目に遇わない。
「もういいだろ。俺とお前も法的に何ら関係は無いんだ。さっさと帰って寝ろ」
「ですから、関係を作ろうと婚姻届を持ってきたんです。先輩の名前も書いて、証人欄も埋めてきましたから、後はハンコを押すだけで完成ですよ。さあ、さあ!」
「うわぁ……」
椿はかわいらしいイラスト付きの婚姻届をグイグイと押しつけてくる。
ハッキリとは見えないが、どうやら神戸港や六甲山をあしらったデザインの書面になっているらしい。
今時の婚姻届ってこんなオシャレなんだな……などと感心している場合ではない。早くコイツを落ち着かせないと。
「お前とは結婚しないって何度も言ってるだろうが!」
「ああ、可哀想な先輩。あんなメス犬に騙されて……私が守ってあげますからね。誰が本当に相応しい配偶者か、籍さえ入れればきっとわかってくれるはず……」
剥がせども剥がせども右から左からへばりついてくる椿が気色悪い。いっそこの場で婚姻届を破り捨ててやろうか。
いや……コイツのことだ、きっと何枚も予備を用意しているはず。1枚や2枚破ったところで何の意味もないだろう。
「私、色々調べたんですよ。日本国憲法第24条とか。全文をご存じですか? 『婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し』から始まるアレです」
「合意してないよな? なあ、俺は一度も合意してないよな?」
「つまりこの紙を役所に提出すれば、どれだけ浅井さんが誑かしてこようと無意味なんですよ。付き合うですって? 子どもじゃあないんですから。我々はもう成人しているんですよ。大人として、契約に基づいた関係をベースにですね……」
椿の目はギラギラと血走り、口角には泡が吹いている。まるで宗教の狂信者か薬物乱用者のような形相だ。こうなっては説得や話し合いは通じない。
ヤツはキマった目のまま俺の左腕を強く掴み、握りつぶすほどの圧力をかけてきた。
爪が腕に食い込んで相当痛い。掴みどころが絶妙なのか、振り払おうにも腕に力が入らないし、血も滲んできた気がする。
警察……警察を呼ばないと。もういい加減コイツを突き出した方がいいよな? もはや実害も出てるんだし……
「にぎゃぁー!」
俺が110番を鳴らそうとスマホに手を伸ばした時、椿の珍妙な悲鳴が聞こえた。
何事かと再び椿の方を見ると、椿が何やら首元を押さえて暴れているらしい。
ヤツの首に巻きついているのは……白蛇?




