A2―1 網なくて淵をのぞくな その1
浅井先生と付き合うことになって一週間近く経つ。
浅井先生と会う回数は増えたものの、生活リズムはこれまでとほとんど変わりない。いつものように大学に通い、諸星や村瀬と昼食を取り、夕方バイトに行ったり行かなかったり。
ただ、一つだけ大きな変化があった。
ここ一週間椿が姿を現していないのだ。
正確に言えば、一度俺の様子を窺ってきたことはあるが、俺の右手に巻かれた包帯を見てすぐに去っていってしまった。
俺と浅井先生が付き合ったことを悟って諦めた……というわけではないだろう。
むしろその真逆、俺たちの仲をどうやって引き裂くか画策していると見ていい。
あまりに椿の姿が見えないのでモアちゃんに相談してみたのだが。
「ビビっても仕方ないっすよ。他の女のこと考えてないで、愛しの彼女とイチャコラした方がいいんじゃないっすか?」
「それはそうなんだが……椿はいったい何を企んでるんだろうな」
「さー? アタシもつばっちのこと考えてることはよくわかんないっす」
「わからないけど友達やってるんだな……」
「一緒に酒飲む人間はだいたい友達っすよ。内心だの素性だの気にしてたら酔いが醒めるじゃないっすか」
「最近は椿と会ってないのか?」
「ないっすね。八つ当たりで刺されたりしたら嫌じゃないっすか、アハハ!」
「君らは本当に友達なのか……?」
ともかく、いない人間のことを気にしても仕方ない、というモアちゃんの意見も一理ある。
椿のことを考えるよりも、俺はこれから浅井先生とどう付き合っていくか考えるべきなのだろう。
今週の土曜日は付き合ってから初のデートなのだ。
おまけに椿もいないとなれば、近場をブラブラするようなカップルらしいお出かけができる。
ずっと夢見てきたシチュエーションだ。胸が高鳴らないわけがない。
とりあえず三宮に足を運んで、センター街でも散策するか。
疲れたらお洒落そうなカフェに入って、パンケーキを半分こにして……
うーん……こんなありきたりな感じでいいのだろうか。
もしくは動物園に行ってもいいかもな。浅井先生、結構動物とか好きだし。
何より動物園は話題に事欠かないのがいい。付き合ったばかりの恋人にありがちな、ぎこちない雰囲気を解消してくれそうな気がする。
一緒に可愛い動物を見るだけでも癒されるしな。
うーん、悩むところだ。
浅井先生だったら何でも喜んでくれそうだが、だからこそ逆に難しい。
選択肢が何でもアリとなると、モロにセンスが試されることになる。
こういうシチュエーションに不慣れな俺が、自信なんて持てるはずもなく。
恋愛観偏差値みたいなものがあるとしたら、三回生になるまで彼女のできなかった俺は補欠合格ってところだろうしな……
中庭のベンチで一人、あれこれ頭を悩ませていると、ふいに背後に気配を感じた。
禍々しい感覚ではなかったので椿ではないと判断し、ゆっくり後ろを振り返る。
そこにはいつもの無表情を携えたリーちゃんがぼんやり立っていた。
「聞きましたよナガさん。おりょうさんと上手くいったようで。おめでとうございます」
「お、おう……」
いつものことながら、彼女の顔も声も無機質で、いま何を考えているのか読み取りづらい。
リーちゃんが本気で俺のことを好いてくれていたとすれば彼女はいま失恋中で、でも当事者の俺からかける言葉なんて……
「なんですかナガさん。鼻に糸こんにゃくでも詰まったような顔をして」
「そんな不細工な顔してたか?」
「失礼。元からそういう顔でしたね」
「『失礼』って言えば何でも許されるわけじゃないからね?」
リーちゃんはふふんと鼻を鳴らし、ベンチを回り込んで俺の隣に座った。
彼女は空を仰ぎながら、ブラブラと足を振る。リーちゃんの小さな身体では、普通のベンチでも少し高いようだ。
「ナガさんはわたしが落ち込んでいると思ったのでしょう」
「それは、そう思うだろ……」
「実際落ち込んでいます。見てくださいこの眉毛。普段より角度が明らかに落ちているでしょう」
「ごめん、見てもわからん……」
「ならば分度器で測ってみてください。さあ」
「そもそも元の角度がわからないんだけどな……」
リーちゃんは、どこから取り出したのか俺の顔にグイグイと分度器を押しつけてくる。
薄いプラスチックとはいえ、さすがに押しつけられると少し痛い。
それに、測る以前にリーちゃんの顔が見えないんだが……
分度器の猛攻を凌ぎ、今度こそリーちゃんの表情を確認しようとするが、彼女はそっぽを向いておりその顔色が窺えない。
何がしたいんだこの子。いつも以上に脈絡がないというか、おふざけの仕方が雑なような……
「俺に眉毛の確認させる気ないよな?」
「あります。ありますが、状況が変わりました。もう少し後にしてもらえますか?」
「なんでまた……」
そこまで言いかけて、リーちゃんの肩が震えていることに気づいた。
ああちくしょう、俺はやっぱり鈍感だな。
珍しくリーちゃんが正面から現れなかった時点で、異変に気づいておけよ……自分で自分が情けない。
「リーちゃん……」
「ダメですね。やはりナガさんの顔を見ると無理でした。いけると思ったんですがね」
「もういい……もういいよ」
「あと一分待ってください。一分すれば、いつものリーちゃんに戻りますから」
「無理しなくていいって……気を遣わずに泣いてくれていい。俺にはその気持ちを背負う義務がある」
「はい……はい」
浅井先生と付き合えたことで浮かれていたが、ちゃんと向き合わなきゃいけないよな。リーちゃんに限らず。
ダメだな俺は、自分のことばっかりだった。
椿が姿を見せないのは悪だくみだとばかり思っていたが……
もしかしたらアイツも、リーちゃんみたいに……




