A1―3 花は折りたし梢は高し その3
「ねえ、どうなんですか先輩。私に何か隠したいことでもあるんじゃないですか」
「まーまーつばっち、飲みの場でギスギスするのは良くないっすよ。ほら、つばっちの好きなトマトチューハイ頼んだっすから」
「ありがとモアちゃん。ふふ、酸っぱくて美味しい……」
モアちゃんは何とか自然に椿を抑えてくれてはいるが、粘着質なコイツがそう簡単に諦めるとは思えない。一呼吸おいたらまた俺を詰問してくるだろう。
それならいっそのこと開き直るのも手か? でも椿に洗いざらい話すようなことはしたくないし……
「あらあら先輩、眉間に皺が寄ってこわーい顔になってますよ。なんでそんなに怯えてるんですか?」
「うるせえな。俺が何を考えてようと勝手だろうが。いちいち詮索してくんな」
「……まあ別に構わないんですけどね、先輩が何を企てようと」
椿にしては珍しく、素直に引き下がった形だ。おつまみのチーズをかじり、トマトチューハイを静かに傾ける。
妙な落ち着きがかえって不気味だった。
「最後に笑うのは正ヒロインの私なんですよ。浅井さんじゃなくてね」
椿の不気味な笑みから目を背けるように、俺もビールを喉に流し込んだ。
コイツ、いったいどこまで把握してやがるんだ?
モアちゃんと飲んだ翌日はバイトがあった。普段と変わらない講師控え室。生徒のいる教室に出ると気を張らないといけないが、ここはのんびりと過ごせる空間だ。
いつもと少しだけ違うのは、俺の心持ちだけ。本格的に、浅井先生と付き合いたいと思い始めた俺だけ。
「武永先生、高校生の古典問題集ってどこにあったかしら。いつもの場所を探しても見当たらなくて……」
「塾長の側の棚に置いてあるよ。おととい別の先生が使ってたからそのままになってたのかもな」
「ありがとう! 武永先生は本当によく周りを見てるわね。私も見習わないと」
「いや、そんな大層なものじゃ……」
うーん、改めて意識してみるとやはり浅井先生は可愛らしい。
見た目は凛とした美人系なのに、中身はどこか抜けてるところもあって、素直で人当たりも好くて。
こういうの、昔は「ギャップ萌え」とかって言ってたのかな。
ウカウカしていたら別の男が寄ってきそうなものだ。いや、俺が知らないだけで実は声をかけられたりしてるのか?
俺も焦らなければいけないんだろうけど、いざ行動を起こすとなると何故だか腰が引けてしまう。
「ねえ武永先生、もうすっかり秋になったわよね」
「え? まあ、確かに最近涼しくなってきたな」
「私、紅葉とか見るの結構好きなんだけれど……」
「行くか。京都」
浅井先生は小さく頷いて、講師控え室を出ていった。
相手から助け舟を出されるとは。しかしありがたいチャンスだ。
向こうから誘ってくれたぐらいだし、脈なしってこともないだろう。
モアちゃんのアドバイスに従って、浅井先生の好感度を確かめつつ最適なタイミングで告白する。
椿の動向さえ警戒しておけば不可能ではないはず。
今までもチャンスらしきものはあったけど、ことごとく椿に潰されてきたからな。
これ以上ダラダラと先延ばしにするわけにはいかない。
今度こそ、やってみせる。
バイトを終え、あたりはすっかり暗くなっていた。別れ際に見た、浅井先生の照れたような笑顔が頭から離れない。
今度のデートがうまくいけば、彼女と……ああ、考えただけで心臓が締めつけられるようだ。それでいて苦しくない。むしろ心地いいぐらいで。
今日は珍しく椿がバイト先に現れなかったし、コンビニで缶チューハイを買って上機嫌でブラブラ帰る。
一杯やりながらデートプランを考えておくか。
来週の土日あたりに予定を合わせるとして、ロケーションはどうしよう。
京都は紅葉の名所が多いが、多すぎてかえって迷うな。
あまり人が多くない方がいいけど、まったく人がいないのもなんだか白けるような気もするし。
あと確か椿の出身って京都市内だったよな? 地の利はヤツにあるわけだから、そこも警戒しておかないと。
まあ、京都以外の場所を選んだところで椿の妨害は入るだろうし、いずれにせよ警戒は必要なのだが……
ふと気がつくと、もうマンションのオートロック玄関口まで着いていた。
前方、後方、上下左右まで見回して、椿が隠れ潜んでいないことを確認する。
エレベーターに乗って部屋の前までたどり着いたが、やはり椿の姿は見あたらない。
今日は平穏な日か。たまにはこういうのがあってもいいよな……
「ぐっ!?」
マンションのドアノブへ手をかけた時、右手に鋭い痛みが走った。
静電気、じゃないよな? 刺された? 何に? 手が、しびれて……
とっさに左手で負傷箇所を触ると、痛む部分が熱くなっているのがわかる。
なんなんだ、チクショウ。
少し冷静になって右足下をよく見ると、小さな紫色の物体が落ちていることがわかった。
なんだこれ……? 虫、か?
警戒しつつ顔を近づけてみると、毒々しい色の毛虫が地面を這っている姿が見える。
見たことない虫だが、明らかに毒を持っていそうだ。
負傷した手を見つめていると、階段のスロープから白蛇がスルスルと下りてきた。異常事態が起きたことを察したのだろう。
白蛇は地べたからでとぐろを巻いて俺の顔色を窺っている。
「心配してくれてんのか……今のところ痛いだけだから大丈夫だ」
白蛇と並んで毒虫が去っていく姿を見つめる。蛇ですら手を出さなかったぐらいだ、あの虫はやはり毒を持っていたのだろう。
しばらくすると虫は排水用の穴へ潜り、そのまま姿が見えなくなった。
なんなんだまったく……部屋に消毒用のスプレーとか置いてたかな……
手は徐々に腫れてきているものの、鋭い痛みは収まってきた。
致死性の毒とかではなさそうだ。目眩もない。身体の震え、呼吸も問題なし。バイタルサインとしては異常なしと言っても差し支えない。
どうせ椿の仕業だろうが、地味な嫌がらせをしてくるものだ。
白蛇に別れを告げ、部屋へ入るとやけに身体がだるくなってきた。
今日はもう、夜食を軽めに取ってお酒も飲まず大人しく寝るか。風呂はシャワーだけにして。
刺された箇所の腫れは落ち着いてきたようだ。小さなこぶができている。
筋肉痛のような鈍い痛みはあるが、それだけ。
しばらくは治らないかもしれないが、耐えられない痛みではない。
今日のことは不幸な事故として忘れよう。単に痛いだけなら慣れてるしな……
この時の俺は知らなかった。俺を指した毛虫、コイツがどれだけ厄介な存在なのかを。




