54―2 奇人と白蛇 その2
「おいおいリーちゃん……」
小声でリーちゃんの暴走を制しようと試みたがもう遅い。
緩みつつあった千佳の表情は完全に色を失い、眉一つ動かなくなってしまった。
なんでこんな無茶なことを……いや、そもそもなんでリーちゃんはこのことを知ってるんだ?
「どうしましたナガさん。顔が青いですよ。乗り物酔いですか?」
「似たようなもんだな……ジェットコースターの安全装置が壊れた気分だ。それよりリーちゃん、なんで例のことを知ってるんだ?」
「姐さんの様子がおかしかったので、問い詰めてみたら教えてくれました」
「クソッ、あいつめ……」
噂の出所はわかったが、それにしてもリーちゃんがわざわざ千佳の前で話した理由がわからない。
千佳に対する嫌がらせか? でもそんな意地悪なことをする性格じゃないし……
「なあ、リーちゃん」
「おっと、そろそろ三限が始まりそうです。では、わたしはこれで」
「ちょっ、待っ……」
引き留める間もなく、リーちゃんは小さな身体を翻して去っていってしまった。
残されたのは、狼狽する俺と感情を失った千佳のみ。気まずいなんてものじゃない。
もうすぐ三限の時間が来るので、一旦は俺も逃げることができるのだが……
幸いと言うべきか何と言うか、三限の講義は演習方式で、部外者の千佳は参加できない。
その間は大学構内をブラブラ散策しておいてほしいと千佳には言ってあったので、ちょうどいいクールダウンになってほしいものだ。
「悪いけど、千佳……」
「うん。わかってる。わかってるよ」
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫。そっとしておいて」
魂が半分抜けたかのように、千佳はだらりと席から立ち上がった。
彼女はよろよろ歩きながら壁に一度ぶつかりつつ、外へ続くドアを開いて食堂から出ていった。食器、片付けずに行ってしまったな。
しかし本当に放っておいて良かったのだろうか。だからって三限をサボるわけにもいかないし……
リーちゃんめ、爆弾を投げるなら後始末までちゃんとしてほしいものだ。
三限の教室に着いてから千佳にメッセージを送ってみたが、やはり反応は皆無。
大学構内は基本的に安全だと思うが、あそこまで気が抜けていると心配ではある。キャンパスが山の中腹に位置するせいか無駄に斜面が多いし、足を滑らせてケガでもしたら大変だ。
今からでも探しに行くか、と立ち上がろうとしたところで、教授が教室に入ってきた。
こうなるともう外には出られない。千佳にはあとで謝らないとな……
三限が終わり、ようやく新着のメッセージが確認できた。
新着通知は一件のみ。しかしその送り主は千佳ではなく、意外な人物だった。
内容を開くと「迷子センターからお知らせです。B202」と一文だけ。
助けてくれるのは有り難いんだが、なんで回りくどいことをするかなあ、あの人は。
「遅いよー武永君。待ちくたびれて寝ちゃうかと思った」
「いつも通りじゃないですか……」
指定されたB202教室に行くと、喜多村さんが俺を手招きした。相変わらず寝癖なのかパーマなのかわからないモコモコした髪型だ。
そして隣には表情の暗い千佳。いったい二人で何を話していたのだろうか。聞きたいような、聞きたくないような。
「にしても武永君、君も罪作りな男だねー。こんなかわいらしい子を泣かせてさー」
「いや、あれは不可抗力というか何というか……」
「ううん、君のせいだよー」
喜多村さんはいつも通り眠そうな声で、しかしハッキリと言い切ってみせた。
千佳の話を聞いて同情心が芽生えたのだろうか。しかしそんな俗っぽい感情に身を任せる人とも思えない。
千佳の肩を持っているわけじゃないとすれば、どういう意図があるのだろうか。
この人はリーちゃん以上に思考が読みにくいので、探るだけ無駄かもしれないが。
「そもそも喜多村さん、なんで千佳が俺の知り合いってわかったんですか?」
「んー? なんかションボリしてる高校生がいたから声をかけてみただけだよー。ちょうど暇してたしねー。そしたら武永君のお友達ってわかってビックリ」
「あなたも三限ありますよね?」
「さんげんー? 何だっけそれー?」
「ハア……まあ卒業できるんならいいんでしょうけど」
相変わらずやる気のない人だ。そもそも現段階で卒業できるほど単位を取っているのだろうか。
以前の面談では喜多村さんの将来まで深く聞けなかった(というか興味もなかった)が、本気でニートとして生きるつもりなのかな、この人。
気になることは色々あるが、それより今は千佳を連れ帰らないと。
「千佳、今日は四限も無いし帰ろう。喜多村さんもありがとうございました」
「……帰らない」
「千佳?」
一言だけ述べると、千佳はまた黙ってしまった。静かな教室の中で、外からの喧騒だけが聞こえてくる。
偶然なのか図られたのか、この空き教室には俺たち三人しかいない。
みんなが同時に黙れば気まずい静寂が訪れる。あまり嬉しくない環境だ。
不穏な沈黙を破るように、ふぅーと喜多村さんが息を吐いた。
彼女は上半身を机に預けただらしない体勢で、首だけを俺に向ける。
「潮時だねー、武永君。現実はフィクションじゃないからさー、ヒロインみんなが仲良しのハーレムなんて成立しないんだよー」
「ヒロイン? ハーレム? 何の話ですか?」
「もののたとえだよー。日本に重婚規定が無い以上、いつかは誰かを選ばなきゃいけない。それに、彼女らもきっとそれを望んでるはず」
喜多村さんの言わんとすることはわかる。要するに、俺とそこそこ深い関係にある女の子たちのうち、いい加減誰かを選べということだろう。
しかしそもそも俺は選ぶ立場なのだろうか。確かにみんな俺に好意を持ってくれているっぽいんだけど、フラれる可能性だってゼロじゃないし。
それにもし誰かを選ぼうものなら今度こそ本気で椿に命を狙われかねない。
そんな重大なこと、すぐに選べって言われたって……
「この場で決めろってわけじゃないんだけどねー」
まるで俺の思考を見透かしたかのように喜多村さんが呟く。
この人はぼんやりしているようで核心をついてくるので油断ならない。
きっと「誰かを選べ」って言葉も、そんなにズレたものではないのだろう。
喜多村さんの指摘について、俺もうっすら考えてはいたのだ。それでいて、わざと目を逸らし続けていた面もある。
我ながら卑怯な振る舞いだ。
「まー、悩むのは仕方ないよねー。人に好かれるっていうのは、人に嫌われるのと同じくらいしんどい時もあるからさー」
俺の浮かべた苦悶の表情を見逃さなかった喜多村さんは、軽くフォローを入れてくれた。
しかしその言葉に甘えてはいけない。いつかは決めなきゃいけないことなんだ。このままズルズル引き伸ばすことこそ、彼女らの気持ちに対する背信行為じゃないか。
「ねえ、お兄は答えてくれる? お兄を好きな人たちの中で、誰と一緒になりたい?」
「俺は……」




