53―5 ヤンデレとかくれんぼ その5
「に、逃げるアテはあるのかい?」
「今から考える。とにかく電車に乗るぞ」
パン屋を出た後、椿が周囲にいないことを確認し、ICカードで改札をくぐる。次の電車が来るまであと4分か。それまでにアイツが襲撃してこないことを祈るばかりだ。
「で、どうするんだい武永くん。なあ武永くん」
村瀬は顔面蒼白でアワアワしながら俺の袖を掴んでくる。
コイツこんなにビビりだっけ……? よくよく思い返せばイノシシと対峙した時はかなり情けなかったような。
今の椿は荒ぶる獣に近い状態だし、恐怖感を抱くのは悪くない反応ではあるのだが……
「とりあえず落ち着け。まずは俺の実家近くまで逃げるのがいいかな……行き方も色々あるし、万が一椿が追いかけてきても地の利を活かして逃げ切れる可能性は高い」
「乗り換えで足止めを食らわないかい? そこで追い付かれたら台無しだが」
「そうだな……」
乗り換えを調べるためスマホを確認すると、新着メッセージが入っていた。メッセージの主は椿……じゃなくて、千佳? なんでこのタイミングで。
メッセージアプリを開くとそこには「嘘だよね」とだけ。
……しまった。あの場にいたのは俺、村瀬、椿の三人だけじゃなかったのか。
気づかなかったが、どこかに白蛇が潜んでいて、蛇を通じて千佳も「あの」場面を見ていたと。
まずい。非常にまずいことになった。俺を匿ってもらうだけなら千佳に頼めるかもしれないが、村瀬も一緒となると修羅場は確定だ。
蛇に噛みつかれ、巻きつかれ、絞め殺される村瀬の姿が脳裏に浮かぶ。そんな最悪の事態が起こらないとも限らない。
よしんばそこまで酷い仕打ちは受けないにしても、無傷で許してもらえる保証は無い。村瀬と俺が付き合っていないことくらい千佳にはお見通しだろうし、そうなると強引にキスをした村瀬が追及されるのは必至で……
椿ほどではないが、千佳もヤンデレ寄りの人間だ。村瀬にとって安全な逃げ場にはなり得ないだろう。
文字通り藪から蛇が飛び出す事態になりかねない。
「やっぱり実家はダメだ。蛇に噛みつかれる」
「蛇? マムシでもいるのか?」
「マムシの10倍ぐらいのサイズのやつがいるんだよ」
「……それは何の比喩だい?」
「比喩とかじゃなくてマジでいるんだって! うーん……村瀬の実家に逃げるのはどうだ?」
「今から新幹線のチケットが取れるかどうか。それに時間もかかるし、終電も考えないと……」
グダグダと言い合っている間に大阪方面へ向かう電車が来た。
周囲を再度確認するが、椿らしき人影は無い。今なら遠くまで逃げ切れるかも。
迷っている時間はないか。これ以上六甲に留まっていてはいつ椿に見つかるかわからない。
「とにかく乗るぞ!」
「行き先は!?」
「運否天賦だ!」
「そんな駅名があるのかい!?」
「いや駅名ではなく!」
微妙に噛み合わないまま二人で電車に乗り込む。その電車にはすでに椿が乗っていた……などというオチはなく、電車は淡々と進み始めた。
ひとまず第一関門はクリアできた。さて、ここから逃亡作戦を練り直さないと。
「どこに逃げりゃいいかな……」
「とりあえず終点の梅田まで行くのはどうだい?」
「そうやって安易に逃げたらこの前捕まったんだよ……椿を侮らない方がいい」
「ならどうする? 裏をかいてすぐ次の駅で降りるかい?」
「いや、アイツの裏をかけるとは思えないな」
「なら裏の裏か? あるいは裏の裏の裏か?」
「どこを想定してんだよ」
「……ブラジルとか?」
「行くか、難民キャンプ……」
冗談を言っている場合ではない。現実的な逃げ道を考えないと。でも椿は俺の思考くらい簡単に読み取るだろう。下手すりゃ村瀬の発想だって読まれてるかもしれない。
実はすでに先回りされてるとか? 着いた駅のホームで鉢合わせたら終わりだな。
こうして悩んでることすらアイツの思うツボだったら? ああ、頭が痛くなってくる。
「ダメだ……何をどう考えても椿を出し抜ける気がしない」
「なら考えなければいいんじゃないか?」
「考えないってお前……どういう意味だよ」
「こういう意味さ」
突如村瀬は俺に抱きついてきた。なんだコイツ? やっぱり俺のこと……
かと思うと次の瞬間、村瀬に身体ごと投げられていた。相撲で言うところの「すくい投げ」の形だ。
バランスを崩した俺は、ほとんど倒れかけながら駅のホームへと着地する。続いて村瀬もホームへ降り立った。
ホーム? そうか。話すのに夢中で気づかなかったが、ちょうど停車駅に着いていたのか。
そして偶然降りたこの駅は。
「夙川……」
奇しくも昨日俺が潜んでいた場所だった。
偶然とはいえ、この駅に着いたのは幸いだったかもしれない。
俺の発想力では昨日と同じ場所に逃げ込むという大胆な手口は取れなかった。
それに、昨日の椿の口ぶりからするとアイツはこの周辺には詳しくないはず。
確か椿の出身は京都だったような。縁のない西宮市に詳しいとは思えない。
投げ技をかけられた時は驚いたが、深く考えずデタラメなタイミングで降りてみるというアイディアは案外悪くないか。
それはともかく……
「なんでお前はまた俺の袖を掴んでんだよ」
「椿くんが包丁持って突っ込んできたら盾になってもらおうと思ってな」
「逆にお前を盾にしてやろうか」
「どっちが先に狙われるんだろうね。やっぱりボクかな。きっとボクだ。遺書とか遺言ってメールでも有効になるのかな」
「珍しく弱気だな」
「武永くんの落ち着きようが異常なんだよ……キミと違って命まで狙われた経験はないからね」
斜め後ろでチョロチョロされると動きにくいのだが、震える村瀬を置き去りにするわけにもいかない。
行くあても無いので、また川沿いを進んでいくことにした。住宅街と違って袋小路にぶつかる可能性が少ないため、何かあっても逃げやすいからだ。
夕焼けはほとんど姿を隠し、宵闇が空を支配し始めている。今日の天気はうっすら曇り。身を隠しやすいと考えるか、夜襲を受けやすいと考えるか。
いっそ雨でも降ってくれればもっと隠れやすいのだが。
依然村瀬はビクビクしながら周囲の様子を窺っている。さっきからコイツは何に怯えているんだろう。
「なあ武永くん、本当に大丈夫なのか?」
「知らん。とりあえず逃げないと危険なのは間違いねえんだ」
「今日逃げおおせたとして、明日以降はどうする? ずっと隠れ続けることはできないだろうに」
「それも知らん。今から考えるしかないだろ」
「それに、さっきからついてきてるあの女性は誰なんだい?」
「だから俺が知るかって……え?」
振り返ると、そこには帽子を目深に被った若奥様風の女性が立っていた。
なんとなく品があるように見えるし、何より負のオーラを放っていないので椿本人ではないだろう。
通行人? いや、俺たちが立ち止まると同時に彼女も立ち止まったのだ。無関係の人間とは思えない。
どこから追跡されていたのだろうか。そもそも追われていることに気付かないなんて……
椿を警戒するあまり、他の人間に対する注意が散漫になっていたということか。やられた。
もう周囲はかなり暗くなってきており、女性の顔はハッキリとは見えない。
椿でないなら、彼女はいったい何者なのか。とにかく話しかけてみるしかなさそうだ。
「あの、あなたは……」




