51―2 想い人とごちそう その2
神戸から大阪までは電車で30分。その距離感を初めて知った時は「意外と近いんだな」と驚いたものだ。
朝ゆっくり準備しても余裕があるのでありがたい。今日は服を選ぶだけで10分もかかってしまった。我ながら張り切りすぎだな……
六甲駅の改札口は一つしかないので、待ち合わせがしやすく便利である。
集合時間より早く着いた俺は、なんとなく落ち着かず改札前のコンビニをうろうろしていた。
今日、椿は用事があって神戸にはいないらしい。例によって情報源は伊坂であるが、アイツの諜報能力はなかなか悪くないものだ。
伊坂が何を目指しているのかは知らないが、探偵とか秘書とかそういうのに向いてるタイプなんじゃないだろうか。
取るに足らないことをあれこれ考えていると、不意に肩を叩かれた。
誰だろう。まさか椿ではないよな……
おそるおそる振り返るとそこには、いつものポニーテールではなく髪を下ろした浅井先生が立っていた。
珍しくワンピースを着ているうえ、目元も普段よりパッチリしている気がする。
「おはよ、武永先生。待たせてごめんね」
「いやいや! たまたま早く着いちゃってな、はは……」
「そうなの? とりあえず……行こっか」
俺の横に並んだ浅井先生はいつもより艶やかで、なんとなく浮き足立った気分になる。こんなに佳麗な人の隣を歩けるなんて、男として誇らしい。
女性らしい淑やかさと、凛とした聡明さが両立したまさに理想のヒロイン。
そんな彼女と遠出のデートができるなんて、俺には出来すぎた幸運だ。
これで、向かう先が昆虫食カフェじゃなければなあ……
しばらく電車に揺られ、大阪梅田駅に着くとまた乗り換え。目的の店はなんばにあるらしい。
実家の和歌山に帰るときはいつも梅田で乗り換えるので、あまりなんばに来たことはないが、昆虫食カフェに限らず個性的な店が多いとは聞く。
いつか遊びに行きたいとは思っていたが、まさかこんな形で叶うことになるとは。
「今日行くお店、昆虫食だけじゃなくてヘビやトカゲの生体販売もやってるらしいの。世の中には色んなお店があるものね」
「そ、そうか……」
「浮かない顔ね、武永先生……もしかして、ヘビ怖い?」
「まあ、少しな……」
ヘビの存在よりも昆虫食を嗜む人がいることの方がよっぽど怖かったが、今さらそんな情けないことを言えるわけもなく。
それにしてもヘビ、ねえ。千佳が喜びそうな場所だ。ただ、そのことは口には出さないでおいた。
あまり浅井先生の前で千佳の話をすべきでないような気がしたのだ。なんとなくだが。
なんば駅に着いたは良いものの、人が多いうえ出口があちこちにあるので、すぐに迷ってしまいそうだった。
みんな結構早足で歩くし、下手すりゃ浅井先生とはぐれるんじゃないか、これ。
なんて考えるうちに人混みに流され、隣にいるはずの浅井先生と距離が離れていく。
とっさに、浅井先生の左手を掴む。彼女の手は俺より少し小さく、ひんやりとしていた。
「あっ……ごめん、つい」
「いえ、このままでいいわ。このままで……」
「お、おう……」
浅井先生と手を繋ぎながら人混みをかき分けていく。手に汗がにじんでいるようで落ち着かないが、ここで手を離しては色々とまずい。
チラッと浅井先生の表情を確認すると、一瞬目が合った後、彼女は素早く目を伏せた。
しかし決して嫌がってるわけではなさそうだ。浅井先生の口元が少し緩んでいるのを俺は見逃さなかった。
地下の人混みを抜け地上まで出てくると、ある程度人影がまばらになった。手を放してもはぐれたりはしなさそうだ。
だが俺たちの手は未だに重なりあったまま。「手を放せる」という事実から二人とも目を逸らす、俺たちはまるで共犯者のようだった。
うん……期待していたより良いムードだ。まあ、こういう時はたいてい椿が割り込んできてうやむやになるのだが。
右手の体温に集中しつつも、周りへの警戒も怠らない。昼の繁華街だけあってそこそこ人で賑わっているし、隠れる場所だっていくらでもある。
どこから椿が飛び出してきてもいいように、しっかり身構えておかないと……
それにしてもさっきから浅井先生がしゃべらないな。何か、俺から話した方が良いのだろうか。
「なあ、あさ……」
「えっ!? ど、どうしたの、武永先生」
「あっ、いや……驚かせて悪い」
「こっちこそごめんなさい。ちょっと考え事してて」
「考え事?」
「いえ、その……武永先生の手、意外とおっきいんだなー、って」
浅井先生はいつもの凛とした雰囲気ではなく、もじもじと小さく口を動かして答えた。
ああ、もう俺ここで死んでもいいな。今ならセミでもアリでも食えそう気がする。この光景を見られただけで、俺は……
夢見心地で歩いているうち、目的の店に着いてしまった。そこはライブハウス風の建物で、入り口に明るいフォントで「昆虫食できます!」と書かれたポップが飾られている。それもわざわざ写真つきで……
夢から現実へいきなり引き戻された気分だ。今から俺は原始人の生活を体験することになるのか……
「案外昆虫食はまずくない」なんて噂は聞いたことあるが、味の問題じゃない。尊厳の問題というか、情緒的問題というか。
ここまで来たからには引き返すことはできないのだが。
「あら、虫だけじゃなくてカエルやイモリも食べられるのね。興味深いわ」
「ああ、最高だな。フクロウなんかが喜びそうだ」
「ねえ、武永先生。今さらなんだけど本当は来るの嫌だった? 今なら引き返せるけど……」
「でも浅井先生は行きたいんだろ? 君の行きたいところは俺の行きたいところだ。それじゃダメか?」
「武永先生……」
もちろん方便だ。というかカッコつけただけだ。本当は今すぐにでも帰りたい。
しかし折角ここまで良い雰囲気で来たのだ、この状態をどうにかして維持したい。
行き先が地獄でもデートはデートだ。その事実だけで俺はギリギリ正気を保っていた。
一歩足を踏み出し、入り口のドアを少し開く。
さすがに手を繋いだままだと入りにくいので、一度俺たちの手が離れた。
帰り道にまた手を繋ぐことになったりするのだろうか。そうなればいいな。
ここを無事出られたなら、の話だが……
店内には爬虫類の入ったガラスケースが並べられており、もうそれだけで俺のメンタルはやられそうだ。
生きたイモリを見た後に、彼らの「ごちそう」である虫を食べるというのはなかなか勇気が要りそうだ。
店内をざっと眺め回すと、お客さんは結構入っている様子。
やはりというか、若い人が多いようではあるが……
待て。なんか見覚えのある後ろ姿があるな。やたらと長い黒髪、まるで闇から生まれたように全身黒づくめで……
俺が目を凝らすと、突如その人物の首が180゜回転した。こんなホラーじみた動きができる奴は一人しかいない。
「どうも先輩。奇遇ですねえ」




