51―1 想い人とごちそう その1
バイトが始まる40分前。講師控え室に着くと、すでに浅井先生も授業の準備をしていた。
プリントに向き合い、色ペンでところどころに着色をしている様子だ。
姿勢正しくひたむきに作業を進める背が美しい。
「あら、武永先生。来てたのね」
「早いんだな、浅井先生」
「いえ、今日は時間があったから早く来てみただけよ。いつもは武永先生の方が先に来てるじゃない」
「まあ、半分趣味みたいなものだしな」
「教師以外の道もある」と喜多村さんに助言されたとはいえ、バイトに手を抜くつもりはなかった。
俺がもし教師にならないとして、それは生徒たちには関係のないことだ。私情で彼らの足を引っ張るわけにはいかない。
大変なこともあるが、生徒たちのことは好きだし、バイト自体にやりがいを感じているのも事実だ。
「バイト講師だからって半端な気持ちでやるのは良くないしな。やっぱりさ、生徒はよく見てるんだよ。講師がどれだけ生徒のことを思ってるかとか、どこまで授業に対して熱意があるかとか。好きでもない勉強を頑張る彼らに対して、真摯に向き合うことが俺らの使命っていうか……」
そこまで語ったところで、突如「きゅう」と腹の奥が鳴った。
高説をのたまう最中だというのに情けない。慌てて腹を押さえるが、浅井先生にも聞こえていたようで、彼女はクスリと笑った。
「あらあら、武永先生。お腹すいてるの?」
「おう……今日の昼は椿に追いかけられてゆっくり食べられなかったからな」
「そう、それなら……」
浅井先生は自らのバッグを探り、小さなタッパーを取り出した。
「おせんべい食べる?」
差し出されたのは、白くて薄いせんべいだった。海藻か何か練り込んであるのだろうか、ところどころ斑点が見える。香ばしい匂いが鼻を通りぬけ、唾液腺を刺激する。
お礼もそこそこに二枚、三枚と口に運ぶ。
「どう? おいしい?」
「ああ。ちょっと珍しい味だけどうまいよ」
スナック菓子にしては少し上品というか、ヘルシー系の味というか。これはこれで悪くないが。
「何味なんだろうなこれ。あっさりしてて食べやすいけど」
「しいて言うなら塩味かしらね」
「ふーん……ベースにエビかカニでも練り込んであるのかな」
「コロオギよ」
「へ?」
聞き間違いだろうか。そこらの原っぱにいる昆虫の名が聞こえた気がするが。
「えっと、浅井先生。このせんべい、何が使われてるんだ?」
「だからコオロギよ。環境に優しいからって、最近流行ってるの」
「うえっ! ゲホッ、ぐうっ……!」
「大丈夫!? 武永先生、もしかしてアレルギーとか……」
「いや、違っ……その……」
思わず戻しそうになった。20年以上生きてきて、知らん間に昆虫を食わされたのは初めてのことだ。できれば経験したくなかったが……
「ごめんなさい、私、ただ武永先生に喜んでほしくて……」
「の、喉に詰まった、だけだ。水も飲まずに、食べたから、さ……」
うるんだ浅井先生の瞳を見ると、恨み言の一つも言えなくなってしまった。無駄にカッコつけたがるのは俺の悪い癖だ。
椿や村瀬に比べるとまともだと思っていたが、やはり浅井先生もかなり変人の部類に入るのだろう。
感覚が人とズレているだけで、悪い人ではないのだが……
そうこうしている内に授業の時間になりそうだ。指導ブースを見ると、もう着席している生徒もいる。
気を取り直して、労働に励まないと。
講師席に着くと、生徒のミナが俺の顔を覗きこんできた。ふざけているわけではなく、心配そうに俺の表情を窺っている。
「武永せんせー、ひどい顔してるね。何かあった?」
「ちょっと未知との遭遇をしてな。ところでミナ、学校の給食でコオロギとか出たりするか?」
「えっ、そんなわけないじゃん……せんせー頭大丈夫?」
「そうか……そうだよな……」
浅井先生は「流行っている」と断言していたが、どこの世界でそんな流行があるのか。
休憩時間にスマホで調べてみると、確かにオシャレな輸入雑貨店にも例の「せんべい」が売っているようだ。しかし一部の物好きしか買わないだろうこんなもの……
まあ、せんべい状になっていたことだけは救いだった。あれがもし虫そのままの形だったら……想像するだけでおぞましい。
「あら武永先生、今日は疲れ気味ね。大丈夫?」
授業が終わり、講師控え室でダラリと過ごしていると、浅井先生に声をかけられた。
無駄に体力を消耗したのは君のせいなんだが……とは流石に言えない。浅井先生も好意でやってくれたことなんだし。
しかし昆虫食が異常行動であることは指摘してあげないと、彼女がいつか恥をかくだろう。
「あのさ、浅井先生。コロオギのせんべいのことなんだけど……」
「武永先生も興味持ってくれた? コロオギってすごいのよ。同じ質量でも牛肉や豚肉よりもずっとタンパク質が多くて、ダイエットにもいいのよ」
「いや、その……」
「でも友達に勧めてみてもあんまり反応が良くなくて。やっぱり女の子は虫とか苦手な子が多いのよね。私は山奥にあるおばあちゃんの家に住んでたから平気なんだけど」
「そうだよな。俺だって……」
「今度は大阪にある昆虫食カフェに行ってみたいんだけど、女友達にはみんな断られて……やっぱり男の子と行くしかないのかなー、なんて」
うっ……やめてくれ。そんな期待を込めた視線で俺を見ないでくれ。
浅井先生がまくしたてるせいで、俺が虫得意じゃないことも言い出せなかったし。
虫を食うなんて二度とゴメンだ……
いや、待てよ。ここで俺が断ったとしても、おそらく浅井先生はその「昆虫食カフェ」というやつに行くのだろう。
もちろん一人では出掛けるまい。俺以外の男と、大阪まで行ってデートとしゃれこむわけか。
昆虫食なんて非日常を二人で味わい、心拍数の上がった男女の距離は「吊り橋効果」で急接近。
ああダメだ。そんなことになっては悔やんでも悔やみきれない。
ピンチはチャンス。いや、すべてはチャンスだ。ここで飛び込まねば男ではないだろう。
「そのカフェ、俺も行ってみたいなー、なんて」
「本当に!? さすが武永先生! 誰も行く人いなかったら諦めようと思ってたのよ」
クソッ、断っておけば良かった。俺が安易に乗らなきゃ何事もなく終わってだろコレ。
今からでも引き返すべきか? だって昆虫食だろ? 何を食わされるかわかったもんじゃない。
よし、断ろう。今ならまだ間に合うはずだ。君子危うきに近寄らず。
「それにしても、武永先生と遠出するのって久しぶり。折角大阪まで行くんだし、色んなところ寄ってみたいわね。なんだかデートみたい、なんて……」
「……ああ、楽しみだな!」
君子になれそうもない俺は、爽やかな声でそう答えた。