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⑨―2 ヤンデレと犬 その2

 四限が終わり、まっすぐ文学部の中庭に行くと、椿が顔面蒼白でベンチに座っていた。元々顔色の悪い奴ではあるが、怨霊っぽさが何倍にも増していて、非常に不気味である。通行人も心なしか椿から距離を取っているように見える。


「オイ椿、さっさと行くぞ」


「先輩……やっぱり行くのやめません?」


「今さら何を」


「私、実は犬アレルギーで……」


「見え透いた嘘をつくな」


「犬と一時間以上接触すると死ぬ体質なんです」


「じゃあ行こう。ぜひ行こう」


「ひどい……生涯の伴侶にこんな仕打ち……DVで訴えてやる……」


 くだらない冗談を言う余裕はあるらしい。俺が歩きだそうと踵を返すと、椿もゆらりと立ち上がった。どうやら覚悟が決まったらしい。


「それで、畜生カフェはどこにあるんですか?」


「畜生言うな。三宮(さんのみや)にあるから電車で行くぞ」


「わざわざ電車賃を払って拷問場に行くなんて……」


「なんでそんなに犬が嫌いなんだよ」


「アイツら、私を見ると寄ってたかって吠えたてるんです。それも牙を剥き出しにして。弱くて憐れなこの私に」


 野生の勘、というやつだろうか。犬には椿の危険度が匂いでわかるのだろう。というか人間でも椿の幽鬼じみた雰囲気には近寄りたくない。生物として当然のことだ。


「じゃあお前生物全般ダメじゃないのか?だいたいの生き物はお前見たら警戒するだろ」


「猫ちゃんは好きですよ。近づいたら逃げられますけど、遠くから見る分には愛らしいじゃないですか」


「犬だって遠くから見たらかわいいだろ?」


「はあ……先輩はわかってませんね。まったくわかってません」


 椿はわざとらしく肩をすくめてみせた。普段なら俺に対して慇懃無礼な態度を取る椿だが、今日はただただ失礼なだけだ。やはり余裕が無いのだろうか。

 大学からしばらく坂を下り、駅に着く頃になっても椿はブツブツと文句を言っていたが、聞こえないフリでやり過ごすことにした。


 駆けつけた普通電車に乗り込み、窓の外を見る。神戸の街並みはどこかレトロで、気分の落ち着くものだ。


「オンアビラウンケンソワカ、オンアビラウンケンソワカ、我は真言を紡ぐ者なり、不浄なるもの一切我に近付くこと能わず、オンアビラウンケン……」


 隣にいるのが普通のかわいい女の子だったら、なかなかエモーショナルな気持ちになっただろうに。周りにいる乗客からの視線が痛々しいが、今日だけは我慢しよう……






 犬カフェは雑居ビルの三階にあり、狭苦しいエレベーターに椿と乗らねばならなくなった。「私、怖い……」などとわざとらしく服を掴んでくる椿を振り払ったりしている間に、目的階に到達する。

 エレベーターのドアが開くと同時に、キャンキャンと子犬の元気な声が奥の方から聞こえてきた。椿が「ヒッ」と悲鳴上げたが、気にせず靴を脱いで玄関に上がる。ベルを鳴らすと人の好さそうな女性店員が現れた。


「いらっしゃいませ、お二人様ですか? 当店は120分制となっておりまして……」


 店員さんがシステムを説明している間も、椿は俺の後ろで小さくなってブルブルと震えていた。人見知りの幼児か?


「今ならお二人とも入っていただけるのですが……あのー、お連れ様は体調が優れないのでしょうか?」


「ああ、いや。コイツは無類の犬好きなんですが、こういうところは初めてで緊張してるみたいで」


 我ながら苦しい嘘だったが、すんなり通してもらえた。まあ、椿が変な動きをしようものなら俺が叩き出すから、店には迷惑をかけないで済むとは思うが……

 犬が飛び出さないように、店員さんは静かに入口を開く。まず俺が足を踏み出すと、少し離れた場所からチワワとポメラニアンがダーッと走り出してきた。椿はまた「ヒィ」と小さく悲鳴を上げる。


「ほら、椿も撫でてみろよ。かわいいぞお」


「噛まないですか? 噛まないですよね? 噛んだら許しませんよ?」


「首の後ろから背中の辺りまで撫でてみろ。顎を撫でるよりは怖くないだろ」


 恐る恐る椿が手を伸ばすと、キャン! とポメラニアンが吠えた。驚いた椿はすぐに手を引っ込め、恨めしそうな目でこちらを睨む。


「怒ってますよね? これ絶対怒ってますよね?」


「怒ってない怒ってない。遊んでほしいんだよ」


「帰りたい……」


 そのまま椿は犬も人もいない隅っこに引っ込み、体育座りで動かなくなった。その後、俺は代わる代わる色々な犬と戯れて満足できたのだが、段々と椿が気の毒に思えてきた。

 そもそも強引に椿を連れてきたのは俺だし、少しくらい椿にもこの場を楽しんでもらいたい。詫びというほどでないが、楽しめる協力くらいはしてやらないとバチが当たるだろう。


「ああ犬になりたい……犬になれば合法的に先輩と触れ合えるのに。犬になろうかな」


「何ワケわからんこと言ってんだよ……行くぞ」


 椿の手を取り、強引に立ち上がらせる。痩せっぽちの椿を引き起こすのは簡単だった。


「何ですか先輩。人にも犬にも嫌われる私への同情ですか」


「いいから来い」


 このカフェにいる犬とは一通り触れあったが、入口から一番離れたところに鎮座しているパグが最もおおらかな性格のようだ。この子なら椿に触られても暴れたり吠えたりはしないはず……


「なんですかこのおブスな犬は」


「おブスって言うな。愛嬌のある顔だろうが」


「まさか私のようなブスにはこういう犬がお似合いだと……?」


「被害妄想が激しい! よく見ろ、優しそうな目をしてるだろ。背中ぐらい触っても許してくれるさ」


 椿が覚束ない手つきでパグの背中を撫でると、パグはふんふんと鼻を鳴らした。どうやら悪い気分ではないらしい。


「どうだ椿?」


「なんか、モサモサしてます」


 椿は不思議そうな表情をしながら、それでもパグを撫で続けた。無表情で犬を撫でる椿と時々鼻を鳴らすパグの組み合わせは何ともシュールだったが、退店の時間が来るまでずっと、一人と一匹はそうして過ごしていた。






 帰りの電車。椿はすべてのエネルギーを使い果たしたかのようにぐったりとしていた。


「今日はその……無理させて悪かったな。ちょっと反省した」


「まったくです……責任取って結婚してください」


「責任の取り方がガチすぎる……しかしお前、意外と犬に嫌われてなかったな」


「ふふふ……今日の講義中ずっとスマホで調べてましたから、犬との接し方。目をじっと見ないようにするとか、驚かせないようにする方法とか……」


「えっ、お前犬は嫌いじゃなかったのか?なんでそこまで……」


「先輩と結婚したらどうせ犬の世話も覚えないとですから。私は本気なんですよ、先輩が想像してるよりずっと」


 椿はうなだれた姿勢のまま首だけをこちらに向け、ニヤリと笑った。普段なら気色悪いと言いながら頭をひっぱたいてやるところだが、疲労困憊の相手を苛めるほど俺も情の無い人間じゃない。

 しかし「情」か。俺が椿に抱いているこの気持ちは、どういった「情」なのだろうか。方向性はともかく、ここまで健気に尽くしてくる人間を無下にできるほど俺の精神は強くない。

 いや、ダメだダメだ! 気をしっかり持て! ここで籠絡されたら椿の思うツボだろうが!


「先輩……」


「な、なんだよ」


「またデートしましょうね」


「気が向いたらな」


 俺の返答に満足したのか、椿はまた元の前傾姿勢に戻る。夕焼けの差し込む車内には、電車の揺れる音だけが響いていた。



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