2.《迷宮症候群》 - 5
「やったー自習! いいね自習!」
脳天気に喜んでいた青海は、ふと思い立って鞄を漁る。取り出したのは、あの界震のあとで教室から救い出したノートだ。
「秋月さん」
ノートを持って声をかける。墨香は英語の予習を進めていた手を止め、「おはようございます、青海くん」と丁寧にあいさつした。その拍子に、肩からさらりとこぼれる黒髪。化粧をしている様子もないのに、その目は長い睫毛に縁取られている。きめの細かい白い肌は、許されるなら触れてみたいと思うほど柔らかそうに見えた。
「木曜日、休んでたでしょ? ノート見る? 古典はほとんど進んでないけど、数学とか」
「いいんですか? ありがとうございます」
奥ゆかしいが、可憐な笑顔。誰にでも丁寧に接するのは、昔からのクセらしい。中学時代にも、「そんな丁寧な言葉は使わなくていいよ」と友人に言われ、一生懸命ふつうに喋ろうとして、結局うまくいかずに元に戻ってしまう――そんなサイクルを何度か繰り返していたことを、青海は知っている。
中学一年生で、初めて同じクラスになったときは「かわいい子だな」としか思っていなかった墨香だが、同じ教室にいると、案外おっちょこちょいなことや、子供向けの児童文学が好きなことや、家では飼えないけれど猫が大好きなこと……そして、笑うと抜群にかわいいことに気付いてしまう。それでも彼女は高嶺の花、見ていられるだけで幸せ――と思っていたので、高校が同じだと知ったときは、これは何かの天啓かと思ったほどだ。
ピアノが得意な墨香は、きっと芸術科目には音楽を選ぶだろう。そう思って音楽を選んでおいたのは正解だった。同じ科目を選べば、クラスが一緒になる確率は二分の一。その博打にも勝って、青海はいまここにいる。
そんな墨香が、じっと自分の目を見ていることに気付き、青海は照れながら「どうしたの?」と訊ねる。
「あ……あの、青海くん」
苦手な数学を当てられてしまったときのような顔で、墨香はためらいがちに口を開く。
「その、右目……何か、あったんですか?」
「目?」
「はい。何だか、右だけ……ちょっと様子がおかしいような……?」
墨香が鏡を取り出そうとした、そのとき。
「いやあ、自習にしてばかりでごめんな、ちょっと色々忙しくてな!」
ガラリと扉が開いて、英語の山畑先生が入って来た。爽やかな好青年風のいでたちで、女子にも「ちょっとカッコいいよね」と言われている、このクラスの担任だ。
「どうして山畑先生がそんなに頑張ってるんですか? クラスを持ってない先生もいるはずですけど……」
「あ! もしかして、テレビに映りたかったからとか?」
楓子の何気ない問いに、朱凛が便乗してくる。しかし、朱凛のその質問を聞いた山畑先生は明らかに挙動不審になり、咳払いをしながら「色々あるんだよ!」と言い張る。
「小学生かよ……」
「でも、先生のそんなところも可愛いよねぇ」
男子と女子がそれぞれの反応を示す中、青海はそんな山畑先生の顔を眺め……
(あれ?)
ふと違和感を覚えて、右目を押さえた。
生徒の多くがスクールバスを利用する中、南は数少ない自転車通学の生徒のひとりだ。自転車通学が少ない理由は簡単で、山の上にあるこの学校まで自転車をこぐくらいなら、駅前の駐輪場に自転車を停めてバスに乗ったほうが、たいていの生徒にとっては楽だからだ。南がそうしないのは、駅よりも学校のほうが家に近いからというだけの理由である。そもそも、もっと上のレベルの学校でも目指せると言われた南が宵宮高校を選んだのは、家から近くてギリギリまで寝ていられそう、というだけの理由なのだ。勉強など、する気があればどこででもできる、というのが南の持論である。
しかしここ三、四日ばかりは、さすがに少しばかり、その選択を後悔していた。
(またウザったいのがいるな……)
校門の前に、ひとかたまりの人影がある。野次馬らしき若者、立派なカメラを持った取材らしき男、通りかかる生徒の様子を見ながらメモを取っている女。同じ光景を、昨日までは家の近所でよく見かけた。《迷宮化》という珍しい現象に苦しんでいる町を取材し、その実情を世間に知らしめて「あげる」という立場で、ずけずけと立ち入ってくる人々。
この災害の中心部に建つ宵宮高校が授業を再開するというのだから、興味を持つ者がいるのは当然といえば当然だ。しかし、その興味は、あくまでワイドショー的な興味でしかなく。
「こちらの生徒さんですよね?」
見りゃ分かるだろボケ、と内心で毒づいた南に構わず、男性が自転車の進路を塞ぐように立ちはだかる。
「今回の界震でこの学校も大きな被害を受けたとのことですが、学校が始まってみていかがですか? やはり不自由はありますか?」
この男は、南がなにを言えば満足するのだろうか。「特に何の不自由もない」などと言えばガッカリするのではあるまいか。聞きたいのは、そして読者が読みたいのは、生徒たちの苦労話だ。いかに南たちが不幸に見舞われているのか。どれほど奇妙な被害を受けているのか。
「別に。先生方がよくしてくれていますから」
苛立ちながら南は答える。しょせん彼らは壊れていない建物からやって来て、自由に水が使えるところへ帰るのだ。
こんな連中に、《迷宮症候群》の話でもした日には、いったいどれほどおもしろおかしく伝えられてしまうことか。《迷宮化》だって、自然災害としてではなく、まるで見せ物のような扱いなのだ。目立たない断水や停電の被害は無視して、家の変形ばかりが報じられる。本当に困っているのは、むしろライフラインの途絶のほうだというのに。
それと同様、人が死んだわけでもなく、痛みや苦しみがあるわけでもなく、珍しくて絵的に分かりやすい《迷宮性異色症》。おまけに、そこに《超能力》などという怪しげな噂まで加われば――想像だに、最悪だ。
「ただちに健康に影響はありません。ただ、外見に少し変化が出るだけです。もしも発症していることに気付いたら、ぼくたちに連絡をください」
二十分ほど前。帰りのホームルームの時間を借りて、水之内は一年A組の生徒に《迷宮症候群》のことを説明した。教室内がざわめく中、朱凛が「はいはーい、質問!」と無邪気に手を挙げる。
「それって、治るんですか?」
何気ない問いに、教室が水を打ったように静まりかえった。
「……基本的には、対症療法です。目立たない部位なら、何もする必要はありません。髪は染めればいいし、肌に出たアザも、程度によりますが化粧で隠せます。目に出ることもありますが、最近はカラーコンタクトも簡単に手に入りますから、さほど不自由はしないでしょう」
その台詞は遠回しに、治らない、と告げていた。
「もういいでしょう。どいてください」
轢いても構わない、という勢いで自転車のペダルを踏み込むと、男は舌打ちしながら飛び退いた。その態度に、また気分がささくれ立つ。
(何様だ。かわいそうな俺たちを助けにでも来たつもりか)
ぎり、と奥歯を噛みしめながら、危険なほどのスピードで南は坂を下りていった。