2.《迷宮症候群》 - 3
「皆さん、席についてください」
扉を開けるなり通る声でそう言ったのは、いつもの担任ではなく、副担任である佐藤弓子先生だった。
「あれ、山畑先生は……」
「来客中です。今日のホームルームは私が担当します。日直、号令を」
起立、礼、着席。型どおりの挨拶のあと、佐藤先生は「今日は皆さんにご紹介しなければならない方がいます」と告げる。
「水之内さん、お入りになってください」
カラリと音を立てて扉が開く。ワイシャツの上にジャンパーという、学校ではよく見かける風体の青年だ。年の頃は二十代後半といったところで、佐藤先生とは同年代だと思われた。
髪についた寝癖と左目を半ば覆うような前髪、それと気弱そうなたれ目のせいか、どこか抜けた印象を与える水之内。前髪の一部が眼鏡の内側に入り込んでいるのが、見ていて妙に気にかかった。
しかし、黒板の前に立つなり、彼はやたらといい笑顔を浮かべ、
「一年A組の皆さん、こーんにーっちはー!」
歌のお兄さんのごとく、爽やかに手を振ってきた。外見に似合わず、張りのあるいい声だった。
「こーんにーっちはー!」
すかさず朱凛が答える……が、それだけだった。生徒達が微妙な表情をしているのを見て、「あれあれ、声が小さいぞ!」と大げさに驚いてみせる水之内。彼なりに生徒達の緊張を解こうとした結果なのかもしれないが、いたたまれない空気が教室の中に蔓延する。さすがに作戦ミスを悟ったのか、こほん、とごまかすように咳払いをして、水之内は真面目な口調で語り始めた。
「初めまして、ぼくは水之内広哉と言います。今回の《大界震》の調査のため、帝都大学から来た調査チームのメンバーです。ぼく達はすでに、建造物の《迷宮化》について調査を始めていますが、調査のひとつとして、みんなからもぜひ話を聞きたいと思っています。もちろん強制じゃないですが、界震研究をもっと進めていくためにも、協力してもらえたら嬉しいです」
生徒達の顔に戸惑いが混じる中、そのうちの一人が手を挙げた。南葉一郎だ。
「すみません、質問いいですか」
「はい、なんでしょう?」
南の眉尻には、今日も絆創膏が貼られている。立ち上がると、その背は水之内より少し高い。
「話っていうのは、界震が起きた瞬間のこと……ですか?」
質問の意図をはかりかねたのか、水之内はわずかに首を傾げ、「そうですねぇ」と答える。
「まずは、その時の話を聞きたいですね。みんなも知っての通り、地震と違って、界震は計器で規模を測ることができません。だから、みんなの率直な感想が、界震の規模や状態を示す、大事な研究資料になるんです」
何度も口にしたと思しき、滑らかな口調だった。
「だけどもちろん、たとえば界震が起きる前、あるいは後に、なにか特別な出来事が起きたというのなら、その話もぜひ聞かせてください。なにせ今回の界震は、ニュースでも言ってましたが、普通のものとはスケールが違うようです。そして」
水之内は、ぐるりとA組の生徒を見回す。
「震源がこの学校の敷地内、おそらくはみんなが元いた校舎のすぐ直下であることも、これまでの調査でほぼ確定しています。つまり、界震発生時にあの校舎にいたみんなの証言が、今回の調査ではもっとも貴重だということです。ぼく達としても、出来る限りの情報を集めたいと考えています」
青海は思わず、一年校舎のあるほうを振り返る。この校舎からは見えるはずもないのだが。
前へと視線を戻したそのとき、秋月墨香と目が合った。沈痛そうな表情をしている。
そういえば、墨香はもうあの変貌した校舎を見たのだろうか。きっと見てしまったからあんな顔をしているのだろう、と青海は思う。あんなものを見て、ショックを受けないはずがない。
「どんなに小さなことでも、『絶対にあり得ない』と思えることでもいいです。揺れる前にカラスが騒いだとか、揺れたときに怪しい光を見たとか、その光を浴びたら超能力に目覚めた気がするとか、そんなことでもいいんです」
その言葉に一部の生徒は笑ったが、南は表情を変えず、じっと水之内の顔を見つめていた。
■ ■ ■
――四日前。
大規模界震発生、の一報を研究室のアラームが知らせたとき、水之内はパソコンでトランプゲームの真っ最中だった。断じてサボりではなく、自主的に早めの昼休みを取っていただけである。繰り返すが、サボりではない。ないったらないのだ。
「くそっ、こんな時に……」
タイムトライアルの最中だったゲームの画面を、断腸の思いで閉じる。いつになくいい調子だったのだが、仕方ない。次に起きることはだいたい分かっていたので、ノートパソコンと一緒に筆箱や飲み物をカバンに放り込み、壁にかかっている車のキーを取る。
その三秒後に、奥の部屋のドアが勢いよく開いた。
「水之内くん! 聞いたかい、界震だよ!」
出てきたのは、子供のように満面の笑みを浮かべた、この研究室の主。
今回は「どっち」ですか、と訊ねようとしていた水之内は、その言葉を呑み込んで、代わりにとびっきりの渋面を作った。
「なんだいその顔は。今回はなかなか『おいしい』界震だよ! ほら、しけた顔をしていないで、早く車を出してくれよ!」
この教授、年の頃はもう四十代も半ばを過ぎているはずだが、こんなときの彼は大学院生の水之内よりも若く見えるときがある。水之内はため息をつきながら車に向かう。保護者にでもなったような気分だ。いや実際、周囲からはそう見られているような気もする。
携帯電話を見る。全国のどこかで界震が観測された場合、メールが来るように設定しているのだ。
「……震度5弱? これ、本当ですか?」
界震の震度判断は、気象庁の職員が人力で行っている。二十数年前までは、地震の震度もそのように出していたというから、その点自体に問題はない。しかし、そこで震度3を超える数字が出ることはほとんどないのだ。
「だから『おいしい』と言っただろう! 震源はきっと、もっとすごいぞ。《迷宮化》も相当な規模で発生しているに違いない!」
「はいはい。ここからだと、高速で……二時間はかからないですかね。弁当も買って行きましょうか」
歩きながらも、教授は楽しそうにタブレットを操作している。大学にいる時で良かった、と水之内はため息をついた。深夜だろうと早朝だろうと、この教授はおかまいなしに「車を出せ」と要求してくる。これが企業なら、ブラックにもほどがあるというものだ。
「お! 写真が上がってきているぞ。やはり迷宮化が発生しているようだ。おや、停電も起きているのか。やはりあの震度は正しいようだね」
大学構内のコンビニで昼食を買い――教授の分は聞くまでもなく、好物であるいつもの和風からあげ弁当だ――、車を出す。カーナビに目的地を入力して、走り出した。
「ああ、水之内くん、行き先を変更だ。ここ、ここに行こう」
「運転中によそ見させないでください。で、どこに行くんですか?」
「これは……学校だな、宵宮高校というところらしい」
赤信号の手前で車を停め、教授が得意げに示すタブレットをのぞき込む。界震のあと、SNSに投稿された写真が出回ったものらしい。
「ほら、すごいだろ?」
――ごくり、と自分が唾を飲み込む音が、水之内の耳に妙に大きく聞こえた。
不自然な位置にある窓。用途の分からないドア。まちまちな各フロアの高さ。歪んだシルエット。
表示された写真に写っている建物は、元の姿と見比べるまでもなく、恐ろしいほどの迷宮化に見舞われていた。
「いやあ、助かったね水之内くん。まさか宿まで提供してもらえるとは」
「いいんですかね、ここ学生寮でしょう?」
「使ってもいいと言ってくれているんだ、お言葉には甘えるべきだろう。今回は間違いなく、この学校のすぐそばが震源地だろうしね」
車から移した荷物を広げ、教授はすっかり腰を落ち着けている。ここ、宵宮高校の男子寮は二人一部屋の構造だが、高校側は教授と水之内にそれぞれ一部屋を貸してくれた。とはいえ、代わりにあれこれ質問攻めにされたし、おそらくこれからも高校側への説明にかり出されることだろう。宿代としてはかえって高く付いたのではないか、とも思うが、調査の拠点としてはこれ以上便利な場所もない。
「市街地の被害は、きっといつものボランティアが記録してくれるさ。連絡が来たら教えてくれ、『おいしそうな』現場がないかチェックするからね」
「はいはい。一人で勝手に行かないでくださいよ」
「当たり前じゃないか。家主との交渉は君や彼女の仕事だろう」
水之内は返事の代わりに、深いため息をついた。
教授の言う通りだ。この教授と一般人を接触させるのは、百害あって一利なし。自分の家が謎の現象で壊れたというときに、「実においしそうな現場だ! ひとつ調査をさせてくれないか!」などと言いながら満面の笑顔でやって来る中年男がいたら、水之内なら間違いなく怒って門前払いするだろう。
しかしそういう状況で、なぜ相手が怒るのか分からないのがこの教授である。えてして天才とはそういうものなのだ、と水之内は自分に言い聞かせているが、それでも頭が痛い。
「さて、我々はさっそく震源地の特定に行こうじゃないか。まずはあの写真にあった校舎が見たいね。あの迷宮化、君が昔巻き込まれたという界震よりもすごいんじゃないかな?」
「そうかもしれませんね。どの建物もあまり大きくないので、脱出はしやすいと思いますが。しかし、高校の校舎にしては妙な建物でしたね」
「どうやらこの高校には、あちこちから移築した建物が点在しているようだね。迷宮化の様子を調べるには、これ以上ないほどのサンプルじゃないか。思った以上に素晴らしいよ」
「……あんまり大きな声で『おいしい』とか『素晴らしい』とか言わないでくださいよ。ここに住んでる子たちだって被災者なんですから」
「ああ、分かっているよ」
ホントかよ、という言葉を呑み込んで、水之内は「準備ができたら教えてください」とため息混じりに告げた。
――かくして三日間の調査の後、水之内は宵宮高校へと調査結果の説明に出向き、その足で一年A組の生徒への聞き取りへと向かったのであった。