2.《迷宮症候群》 - 2
ひとつ前のシートに座った男女ふたり組は、わずかに言葉を交わしただけで、どちらもうとうとと眠そうにしていた。窓に映ったふたりの様子を見て、墨香はくすりと笑う。
(きっと、仲がいいんですね)
そうでもなければ、こんなに気兼ねなく居眠りはできないだろう。上級生か、それとも同じ中学校から来た一年生か。そんなことを考えながら、墨香は窓の外に視線を移した。
学校に近づくにつれて、ほんの少しずつ、町並みに違和感があらわれる。
いまバスが走っているのは住宅街だ。洒落ているが似たようなデザインの家が、道の両側に延々と連なっている。ぼうっとしていると、バスがどこまで来たのか分からなくなりそうな町並み。
けれど、その単調な町並みが、今日はところどころ崩れている。
(これが、《迷宮化》……)
墨香は思わず息を呑んだ。
もちろん墨香も、木曜日に大きな《界震》が起きたことは知っている。学校に被害が出たことも、それが原因で金曜日が休みになったことも分かっている。学校の最寄り駅を含む広い範囲で一時的に停電が起き、電車がしばらく止まったことも母親から聞いて知っている。
けれど、それだけだ。
テレビでも新聞でも、この《界震》に関する報道は目にしていない。乗り合わせている生徒達の会話によれば、どうやらテレビのニュースでは何度か取り上げられたようだが、墨香はそれを見ていない。新聞を回し読みしている生徒達のグループもいるから、どこかの新聞では記事にもなったのだろう。墨香の家では取っていない新聞なのか、墨香が見逃しただけなのか、それは分からない。
だから、墨香が《迷宮化》の実態を見るのは、これが初めてだった。もしも墨香がウェブで情報を集めていたら、あちこちにアップロードされた写真を見ることができたかもしれないが、体調を崩して寝込んでいたこともあって、そんなことはしようとも思わなかった。そもそも墨香は、これがそれほど重大な出来事だとも考えていなかったのだ。休校になったことさえ、私立高校らしい過保護のあらわれだと思ったくらいだ。
なのに、この光景はどうだろう。
まるで、前衛建築家が余人には理解しがたい崇高な信念を持って建ててしまったような、奇妙な建物の数々。あるべきでない場所に扉があり、屋根の上に屋根があり、ある家では明らかに屋内用の階段が外壁に貼りついている。ある場所では、邪魔なブロック塀を押しのけて、家と家がひとつに合体している。まるでガン細胞か何かのように、家の一部が不気味に増殖し、本来の居場所ではないところに現れているのだ。
《迷宮化》したどの家も、決して住めないわけではないのだろう。実際、玄関扉がふたつに増えた家――墨香の記憶によれば、先週まではそうではなかったはずだ――から、背広姿の男性が鞄を持って出て行くのが見える。
けれど、ああして変貌してしまった家に住むのは、一体どんな気分だろう。
交差点でもないのに、バスが一時停止した。原因はすぐに分かった。ある家の塀が増殖して張り出し、障害物として道路に立ちふさがっているのだ。
(あの家の方は、きっと気まずいでしょうね……お気の毒に)
バスの邪魔にこそならなくても、歩道が塞がれている場所はちらほら見て取れた。そうやって変形したブロック塀を、数人の若者が取り壊している家がある。少し考えて、きっとボランティアか何かだろう、と墨香は結論づけた。
「秋月さん、おはよう」
バスを降りたところで、クラスメイトの天音楓子と双見藍に声をかけられる。まるで待っていたかのようだ、と思ったが、どうやら本当に墨香を待っていたらしい。
「木曜日、お休みしてたでしょう? 前の校舎が界震でしばらく使えそうにないから、クラスごとC棟に引っ越ししたのよね。場所、案内するわ」
「あ……待ってください、私、荷物や上履きが前の校舎に……」
「机やロッカーの中身はぜんぶ持ってきたよ。下駄箱も。勝手に開けちゃってごめんね」
楓子がおがむような仕草をする。まあ、と墨香は口元に手を当てた。
「それは……お手数をおかけしました。本当にありがとうございます」
「かしこまらないで、困ったときはお互い様でしょ」
楓子の席は、墨香の席のすぐ後ろだ。一年A組の教室の机は男女混合の名前順で並んでいるので、墨香の前と横には男子が座っている。あまり男子と喋るのが得意でない墨香としては、ついつい、真後ろに座っている楓子に声をかけることになる。
「あの……しばらく使えそうにないって、どこか崩れたりしたんですか?」
墨香の問いに、楓子はぷっと吹き出す。何か変なことを言ってしまったかとおろおろする墨香に、藍が苦笑しながら声をかけた。
「まだ時間はあるし、実際に見てみるといいわ」
ぽかんと口を開けた墨香を見て、楓子が楽しそうに「そうなるでしょ?」と言う。なるほど、これは笑いもするわけだ。
「な……なんですか、これ?」
ようやく絞り出した言葉は、自分で聞いても間抜けだと思う。
しかし……他にいったい、何を言えばいいのか。
目の前の、まるで悪い魔法使いが住むお城のような建物。なるほど、これは確かに……当分、使えそうにない。
ショックが抜けきらないまま教室に入った墨香は、ふとその空気に違和感を覚えた。
にぎやかな教室。あちこちでグループを作って交わされている会話。この光景だけを切り取って見せられたなら、何の違和感もない……のだが。
入学式から、まだ一週間と少ししか経っていない。皆それぞれ相手の出方をうかがいながら、グループを構築している途中だったはずだ。
それなのに、教室には何か、まるで皆がずっと仲間だったかのような一体感が存在している。
(ああ……また、やってしまいました)
この感覚には覚えがあった。
秋月墨香は昔から身体の弱い子供だった。季節の変わり目には恒例行事のように風邪を引き、そうでなくても月に一度は熱を出した。好きでそうしているわけではないのに、サボりだと影で誹られもした。心配した母親には何度も病院に連れていかれたが、特別な病気ではないと言われるばかりで、根本的な解決にはつながらなかった。
行事のある日も例外ではなかった。楽しみにしていた遠足の朝に熱が出たこともある。転校してしまう友達のお別れ会の日に休んだこともある。クラスが盛り上がった体育祭の日に、保健室で寝ていたこともある。
(あの日だって)
半秒だけ目を閉じて、墨香は思い出す。
中学三年の体育祭の日、墨香のクラスがいたチームは優勝した。前半はずっと低迷していたが、最後のリレーで劇的な大逆転があったらしい。優勝のどさくさに紛れて男子の一人が女子の一人に告白したとか、便乗して担任の先生までが別の先生に告白したとか、皆でそれを物陰から応援したとか、その場で手ひどくフラれただとか、そのまま担任の即興失恋ソングの演奏会に皆で付き合わされたとか、泣き崩れる担任を皆で慰めたとか……そんな、ずいぶんと忙しい一日だったそうだ。
次の日登校してみると、教室はまだその話題で持ちきりだった。「何の話ですか?」と訊ねてみると、友人達は面白おかしく、それらのエピソードを墨香に語ってくれた。だから墨香は、その日起きたことのほとんどを知っている。
――けれど、そこに墨香はいなかったのだ。
(……私は)
あの時と同じように。
今もまた、墨香は傍観者でしかなかった。