5.きみの名は - 6
「おい、次はどっちだ」
「どっちも人が通ったと思う、でも、新しいのは……こっちかな?」
暗闇の中を、真那子はライトも点けずに走っていく。南は自分ではなく、そんな真那子の足元に懐中電灯を向けた。ほこりは舞っているが、大きなゴミが落ちているようなことはなく、足元で気をつけなければならないのは段差だけだ。
「ええと、次は……」
「右に行くと、さっき通った場所に出るぞ。大丈夫か?」
「そ、そうなの? よく分かるね。私、昔から方向音痴だから……出かけたときは地図アプリ見ればいいけど、こういう迷路みたいなのは全然ムリ」
「俺もそんなに方向感覚はいいほうじゃないぞ。ただ、ここはなんて言うか……分かりやすいだろ?」
「ええっ、そうかな……」
考えてみれば、南が真那子と会話をするのは久しぶりだ。せいぜい、町内会の行事にかり出されたときにバッタリ出会ったくらいだろうか。それも、大抵そばに笠井がいた気がする。
「なあ紅島、お前、あの《界震》の時にはどこにいた」
「校庭だよ。目の前で校舎が変形していくもんだから、フェンスにかぶりつきで見ちゃった」
「そうか……C組やD組に、お前みたいに目の色が変わったとか、そういうヤツは?」
「《御標》のこと? 私以外には知らないな。南はA組だっけ? 考えてみたら、そっちのほうが危ない場所にいたんだから、《御標》があってもおかしくないよね。私、すごく不安でさ、『会』の人にこれがどういうものか教えてもらうまで、どうしよう、病院行かなきゃ、って焦ってたんだ」
みしるし、と真那子は《異色症》のことを呼ぶ。
その文言は南も、「みしるしの会」のウェブサイトで目にはしていた。とはいえ、そのあたりのオカルトじみた言説は「実在の論文を無断でハク付けに使ったたわごと」と考え、最初から気にも留めていなかったのだが。
「でも今朝、初めて『会』の人と話をして、いろいろ教えてもらったんだ。たまに、何だかモヤモヤしたものが見えてて、何だろうって思ってたんだけど、やっと分かったよ。これが《奇跡》の力なんだね。私にもできることがあるんだって思ったら、すごく嬉しい」
真那子の表情はよく見えないが、きっと明るい笑みを浮かべているのだろうと南は思う。
不安げに自分の能力を告白してきた青海の顔、藍の能力を見て呆然としていた楓子や墨香の顔を思い出す。少しずつ濃くなっていく額のアザに怯えながら、必死にその正体につながる資料を探していた自分のことも。たとえどんなに胡散臭くても、そこに「仕組みの解説」があるのとないのでは、まるで気分が違うのだ。訳が分からないものは、恐ろしい。
「たまに? 見えたり見えなかったり、なのか?」
「うん。ゆかりさん……双見さんのお母さんは、『最初のうちは、力が安定しないものだ』って言ってたよ。そのうち落ち着くから、安心しなさいって。私もそうだったからって」
「ん?」
いま、何か爆弾発言を聞いたような。
「おい紅島、そのゆかりさんってのは何なんだ? どっから出てきた?」
「どっからって……『会』の人で、私に声をかけてくれた人だよ。娘の学校が《界震》に遭ったのを見て、我慢できなくて美空ヶ丘に来ちゃったんだって。ああ、そうだ、聞いてよ南。ゆかりさんの《奇跡》は、周りのモノを勝手に吹き飛ばしちゃったりするから、子供を危ない目に遭わせちゃう前に家を出たっていうの。家族には分かってもらえなかったけど、仕方ないんだ……って言ってたけど、それじゃ、ゆかりさんが可哀想だと思わない?」
「え……ええ?」
おかげで少しばかり事情は分かったが、何だか余計にややこしくなってきた。「もう全て忘れて家に帰りたい」という気持ちが、南の腹の底にふつふつと湧き出し始めていた。
「よく分かんないけど、とにかく来てください! 不法侵入者がいるんです!」
青海の訴えを聞き入れた山畑先生――最初は訝しげな顔をしていたが、青海が「カツラ、お似合いですね」と囁いた途端に、快く協力してくれた――は、その場にいた数人の先生を連れ、さらに消防への連絡を指示してから、青海と共に元一年生校舎に向かっていた。
そんな彼らを、自転車で猛然と追い抜いていく男子生徒がいる。本来、駐輪場より奥への乗り入れは禁止されているはずだが、その鬼気迫る表情に教師達も文句を言いそびれた。
「それにしても……ずいぶん揺れたのに、もう《迷宮化》はしないんですね」
周囲を見ながら佐藤先生が言う。たしかに、最初の界震では明らかに校舎の一部が変形した建物がいくつもあったが、先ほど起きた二度目の界震では、周囲の校舎に変化は見られない。
「代わりに、どこか特定の場所がひどいことになっていたりするかもしれないね」
「脅かさないでください」
特定の場所がひどいことに――と言われ、つい山畑先生の頭上に目をやる青海。彼のカツラは、頭頂部あたりを覆う部分カツラだ。先生のお洒落な服装に、若ハゲは似合うまい。女生徒からはイケメンと呼ばれ、本人もまんざらではなさそうな態度だから、なおさらだ。
「あっ、青海くん!」
楓子が大きく手を振る。その足元には、なぜか楓子にすり寄る子猫が二匹。少し離れたところから、親と思しきサビ猫が睨みをきかせている。
「みんなは?」
「D組の子と南君は、中に入っていっちゃった。あとふたり、水之内さんと、別の男の子も」
楓子が指さした先には、チェーンもかけずに乗り捨てられた自転車がある。
「藍とあの『会』のオバサンは、まだそこにいるはず。オバサンの仲間がまだ中にいるみたいなんだけど、まだ出てきてないよ」
一見なにも変化のない校舎を見て、山畑先生が「どうするかな」と腕を組んだ。
「真那子! そこにいるのか!」
廊下にあった窓を覗くと、なぜかその下が深い穴になっていた。その穴に向かって、笠井は大声で叫ぶ。南の話では、真那子はこの下にいるようだ。どうしてそんなことになったのかはさっぱり分からないが、こんな《迷宮》の中で迷子になったら大変だろう。
「……えっ、劉生?」
ややあって、戸惑った声が聞こえる。穴の底でライトが光った。
「おいおい、このタイミングでそこに来るかよ……愛の力って怖えな」
「南? なんだ、まだ一緒にいたのか」
「一緒で悪かったな」
愛の力だのなんだの、南が何を言っているのかはよく分からないが、とにかく真那子が無事ならそれで構わないと思った。
――思った、のだが。
「うわあああ!」
「きゃあああ!」
突然、暗闇の中に悲鳴がこだまする。
「な、何なの?」
真那子の戸惑ったような声。ずしん、ずしんと響く何かの足音。人間のものではありえない。まるで、何か大きな肉食獣かなにかのようだ。
「誰か、そこにいるのか!? 逃げろ!」
どこかから慌てた声がする。
「ひっ……!?」
「紅島、おい、落ち着け、しっかりしろ! 立てるか!」
ライトがフッと消える。明るい場所にいる笠井からは、穴の底の様子はよく見えない。
「立て、くれし……っ!?」
だが、そこに何か、巨大な白いものが飛び込んできたことは、笠井にも分かった。
正体不明の何か。白い毛を持つ、ライオンのようなシルエット。
あんな生き物は見たことがない。こんなところにいる理由も分からない。
だが、そんなことは、問題ではないのだ。
――真那子が食われる!
そう思った瞬間、笠井は身を乗り出していた窓をいっぱいに開け、そこから身を躍らせていた。
高さはせいぜい三階分。そして真下には、謎の白い生き物というクッション。
「おい、バカ、何を――」
「うおりゃあッ!」
全体重と落下速度を込めて、笠井は白い生き物目がけて全力の蹴りを放つ。
足裏から全身に、激しい衝撃が突き抜ける。
ずるり、と足元が滑って、笠井は眼前に広がる白い毛並みにしがみついた。白い生き物はぐらりとその身体を傾がせ、地面に倒れる。
「……ところで、こいつは何なんだ?」
訊ねた笠井の姿を、真那子は呆然と見つめていた。




