5.きみの名は - 5
「儀式をしたのは、震源だった場所じゃない。震源になる前の場所よ」
そう言って、鈴木は校舎に向かって歩いていく。
「どういう意味だ?」
「あなた達なら理解できるでしょう。私達の会長は、これから界震が起こる場所を予知することができるの。そういう《奇跡》の使い手。もっとも、分かるのは実際に目で見た場所だけだから、事前に見つけて警告できることなんて滅多にないけどね。
それでも、一度界震が起きた場所を見れば、そこで余震が起きるかどうかを予想することはできるわ」
ふと見れば、さっき朱凛たちが飛び込んでいった場所から、音もなくサビ猫が出て来るところだった。楓子は鈴木の話を意識の隅で聞きながら、さり気なくサビ猫との距離を詰める。そのとき、サビ猫の後ろから子猫が二匹出てきたのを見て、楓子は目を丸くした。まだ生まれて半年は経っていないだろう。さっきは連れていなかったはずだ。こんなにかわいい子猫を、楓子が見逃すはずがない。
「界震が起きたとき、その中心地にいることが、《御標》を授かる何よりの条件。もちろん、少しくらい離れていても、その身が《御標》を授かるに相応しければ、《御標》を得ることはあるわ。でも、そんな幸運は、なかなかありはしない」
「だから、わざと震源で待ち受けて、《迷宮症候群》を発生させようってことか。そうまでして《超能力》が使いたいのか?」
「そんな不躾な言い回しをしないで。私達はべつに、私利私欲から《奇跡》を求めているわけではないわ」
会話はまだ続いていたが、さほど興味もなかったので、楓子は構わず校舎の中に踏み込む。最初の界震のあと、このあたりがどうなっていたのかは覚えていないが、とにかく目の前には理不尽な構造の空間が広がっている。
「そうやって人工的に《御標》を作り出せるのなら、私を誘う必要なんてないじゃない」
藍の不機嫌そうな声。そんなことはないわ、と鈴木が応える。
「あなたの元に《御標》が降りたのなら、それはなにか意味のあること。すべきことがあるということよ。それと、これは会とは関係ない、私達の個人的な願いなんだけど……どうか私達のところに来て、ゆかりちゃんを許してあげてほしいの」
「イヤよ」
知らない名前が出てきた。鈴木の口ぶりからして、「会」の関係者なのだろうか。そういえば今朝、藍は拡声器の男に向かって、家族がどうとも言っていた。ゆかり――紫と、藍。家族だと言われれば、それはそれで納得できる名前だ。何があったのかは想像すらできないけれど、藍の反応からして、よほど嫌な思い出があったことだけは察せられる。
(私が余計な動画を流さなければ、あの人達が来ることも、藍が泣くこともなかったのかな)
高校に入り、友達になったばかりの藍。何となしに気が合って、これから仲良くなれると思っていたところなのに。こんなことで傷付けてしまうなんて、あんまりだ。
逃げるように歩き続けた楓子は、廊下の一箇所で足を止める。廊下に大きなスライド窓が出現し、そこから中が見えていた。上下にスライドする窓を上げ、顔を突っ込んで中を覗くと、そこには予想もしていなかった深い穴が口を開けている。中は暗く、どれだけの深さがあるのかは分からなかったが、少なくとも底までの距離は二メートルや三メートルではない。
二度目の界震のあと、地面はしばらく揺れていたが、校舎はさほど変形していなかったことを思い出す。
(ひょっとして……さっきの界震で、地下に向かって《迷宮化》したの?)
じっと暗闇の中に目をこらしていた、その時。
「え?」
どこかから、男のものらしい悲鳴が聞こえてきた。
みんなを呼んでこなくちゃ――とっさにそう思った楓子は、踵を返して走り出す。
逃げまどっていた数人の男達と出くわしたのは、悲鳴を聞いてから数分後のことだった。白幡たちの姿を見て一度は絶叫した男達は、そこにいるのが人間であることが分かると、ほっとしたように立ち止まる。朱凛が携帯電話のライトを向けると、向こうも懐中電灯の光を向けてきた。
「おや、誰かと思えば『みしるし』の。こんなところで会うとは奇遇だね」
「……篠懸先生? どうしてそちらの学生たちと?」
怪訝そうな顔で訊ねる、懐中電灯の男。その左目を見て、「あ」と朱凛が声を上げる。
「今朝の人だ!」
朱凛のライトに照らされた男の瞳が、何色とも言い難い虹色に染まっている。間違いなく、今朝、藍にバスの前へと吹っ飛ばされた、「みしるしの会」に属する拡声器の男だ。
「ああ、あのときの子供達のひとりか。今朝はどうも、取り乱してしまって悪かったね。あまりの《奇跡》を前にして、冷静ではいられなかったんだ」
「朝の……ってことは、藍ちゃんがブッ飛ばしたのってこの人? 元気そうで何よりっす」
男は白幡の言葉に「これはどうも、おかげさまで元気だよ」と厭味のない口調で応じた。どうやら怒ってはいないらしい。
「ところで、さっきの悲鳴は何だったんっすか?」
白幡が何気なく訊ねた、その途端。
「……ああ……うん、何と言おうか」
男は困った顔で小さく首を振り、
「ひとまず、見てもらったほうが早いでしょう」
篠懸に向かって、そう声をかけた。
「中から悲鳴? なんでまた」
「私に聞かれても分かんないよ、でも、確かに聞こえたんだから!」
楓子が示した窓を、真那子がのぞき込む。もともと廊下に設置してあった非常用の懐中電灯を見つけた南は、それを取り外して持ってきた。穴の中を照らせば、やはりずいぶん深いことが分かる。
「……あの穴の底を、誰かが通った気がする」
言い出したのは真那子だ。
「紅島、その目……なにか見えるのか?」
「う、うん……なんとなく、人が通ったかどうかが分かる……のかな? たまに、こんな風に変な見え方をするんだけど……」
「よし、この際どんな《超能力》だろうが構わない、使えるなら使おう。鈴木さんだっけ、あんたも何か《奇跡》とやらを使えるのか?」
「私はなにも」
南に訊ねられた鈴木が、無念そうに首を振る。
「ゆかりちゃんなら近くにいるはずだけど、あの《奇跡》もここで使えるようなものでは……」
「……待って、どういうこと? ママにも何か力があるの?」
戸惑った顔の藍。南はそれを横目で見ながら、残ったメンバーの顔ぶれを見る。
「まだ出て来ないところを見ると、白幡と四十塚さんも校舎のどこか……ひょっとしたら、あの地下のどこかにいる可能性がある。悲鳴が聞こえたってのが気になるな」
きょろきょろと周囲を見回していた真那子が、「こっち」とある方向を指さす。
「誰かは分からないけど、誰かがこっちに行ったよ。私、行ってみる」
「あ、おい!」
走り出した真那子を見て、南はどうしたものかと逡巡する。少し考えて真那子の後を追いながら、携帯電話を取りだした。
(頼むから、出てくれよ……!)
南の祈りが通じたのか、わずか2コールで相手が出る。何の用だ、と訊ねた相手に、南は怒鳴るように告げた。
「おい、笠井、今どこにいる? すぐに元の校舎に来い、お前の嫁が待ってる!」
「は? 何の話だ? 真那子に何かあったのか?」
電話の向こうで、戸惑った笠井の声。
(ああ、やっぱりこれで通じるんだ……)
妙な感慨を覚えながら、南は端折りに端折った事情を笠井に説明する。
「それで、なんで俺を呼ぶんだ?」
「お前なら、どうせちょっとくらい《迷宮化》してたって、紅島を見つけられるだろ! 俺がはぐれたときの保険だ、保険!」
下手な《超能力》よりもよほど強力な、愛の力で。言外にそう言ったところで、真那子が階段を駆け下り、それを追った南の携帯が電波を見失った。
「こっ……これは……」
「みしるしの会」のメンバーに案内された先。そこに待ち受けていたものを見て、白幡は絶句する。朱凛さえも言葉を失っているのだから、どれだけの衝撃か分かるというものだ。
さっきの場所から、さらに階段を二階分ほど降りた先。降りるにつれ迷宮は狭くなり、おそらくこのフロアが最深部ではないか、と思わせるその場所に――
「毛玉……?」
――白くて動く、謎の巨大な毛玉がいた。
「お……おい、なんだこれ、冗談だろ……?」
人間よりも大きな、もっふりとした毛玉。触ったらふかふかだろうと思わせる、白い毛並み。懐中電灯に照らされたところしか見えないので、全体像はよく分からない。
その毛玉が、もぞりと動いた。
「ひっ……!」
いくらダンジョンめいた場所だからといって、まさか――本物のモンスターが出るとは。
「これは……素晴らしい! 本当に、この学校はなんて面白いんだ!」
嬉しそうな篠懸の首根っこを掴み、白幡はひとつ上のフロアに駆け戻る。
「呑気なこと言ってる場合か! 何なんだ、アレは!」
「私にもさっぱり分からないよ。もっと調べてみなければね。君達、何か心当たりは?」
「正直、分かりません。《迷宮》の最深部に降りたのだから、神の御使いだろうと接触を試みたのですが、あれは……どちらかといえば、悪魔のような……」
青ざめた表情で、虹色の目の男はぶるりと身体を震わせる。
「さっきは、あれが急に飛びかかってきたんです。金色の爛々とした瞳が見えました……『食われる』気がして、必死に逃げてきたんです」
「ふむ、確かに、あのサイズの生き物に襲われれば、私などひとたまりもなさそうだね」
朱凛が不安げに白幡の腕を掴み、階段の奥に潜む闇に目をやった――そのとき。
「きゃっ!」
不気味な咆吼が、地下の空間を揺るがす。
「…………?」
だが、白幡の耳に聞こえたのは、まるで印象の違う言葉。
――どうして行っちゃうの? ここはどこ? お兄ちゃんたちは?
「まさか、さっきからオレを呼んでたのは、お前だったのか……?」
当惑しきった顔で、白幡はうめくように呟いた。




