5.きみの名は - 3
「おーい、どこまで行くんだ?」
迷路のようになった校舎の中を、サビ猫は迷うことなく進んで行く。窓のない、薄暗い場所にも構わず飛び込んでいくので、朱凛が慌てて携帯電話を取り出し、背面のライトを懐中電灯代わりに点灯させた。
やがて、サビ猫は半開きの扉の前にたどり着いた。幸い、ここまで作業服の男とは会っていない。
にゃあ、とサビ猫が鳴く。
「開けるんだな?」
「……ねえ、ハタっち」
朱凛が不思議そうな顔をする。
「さっきから気になってたんだけど……もしかして、その猫にゃんの言葉、分かるの?」
「いや、さすがに猫語は話せねえよ? けどさ、この猫の言葉だけは、何となく聞いてて分かる気がするんだ」
「分かんないよ! ハタっちばっかりズルい! あたしも猫にゃんと喋りたい!」
言いながら、朱凛が無造作に扉を開ける。中をライトで照らし、一歩踏み込んで――
「ぎゃあ!?」
「え?」
唐突な悲鳴。何事か、と後を追った白幡の足が――宙を踏む。
「うわぁ!」
バランスを崩し、暗闇の中に落ち込んでいく。
落下は一瞬だった。「ふぎゃ!」と身体の下で朱凛の声がして、慌てて「悪い!」と飛び退く。思わず頭の傷に手をやったが、幸い、今の衝撃で傷が開いた様子はなかった。
暗かったのは、朱凛が携帯電話を握りしめ、ライトを指で隠していたせいだ。手を放し、辺りを照らせば、落下したのが朱凛の身長ほどの高さであることが分かる。かなりの段差だが、致命的な高さというわけではない。何とかよじ登れるだろう。
にゃあ……と再びサビ猫が鳴いた。
「入っちゃダメって言ったのに……って?」
言うのが遅いよバカ、と思ったそのとき、背後から別の猫の鳴き声がする。
「あ! ねえハタっち、あっちにも猫にゃん!」
ライトを向けた先で、さっと隠れる何かの姿。
「アカリン、ライト消して」
「え? うん」
しばらくして目が暗闇に慣れてくると、どこからか射し込むわずかな光で様子が見えてくる。
「……子猫?」
視線の先で隠れているのは、二匹の子猫だ。暗くてよく分からないが、色はおそらく灰色と茶色。
「あー……もしかしてあの猫、こいつらを助けてほしかったのか?」
「ちょっ、ハタっちすごいね! ホントに猫にゃんの言葉が分かるんだね! あ、もしかして、これがハタっちの《超能力》……? カッコいい! すごい!」
「そうか! あ、いや待てよ、もしかしてあの猫が《超能力》で人間と話せるようになっただけかも……」
「だったらあたしにも分かるはずじゃん、やっぱりハタっちの力だよ!」
「すげえ! 超能力すげえ!」
ひとしきり手を取り合って喜んだところで、白幡は辺りを見回す。教室の半分くらいの広さの空間だ。校舎の中をぐるぐると回ってたどり着いたので、どの辺りかは分からないが、おそらく地下一階くらいの高さだろう。ぼんやりと階段のようなものが見えるので、さらに奥にも何かがあるのだろうか。とはいえ、これ以上奥に進んでしまうと迷子になりそうで危険だ。
どこからか水の滴る音がする。見れば、水道管が破損でもしているのか、床の一部に水たまりができていた。子猫たちが誤ってこの空間に落ち込み、出られなくなってしまったのだとすると、これまで無事でいられたのはこの水のおかげかもしれない。
「ん、これは……あたしのイチゴキャンディではないか! こんなところで再会できるとは!」
朱凛が床から拾い上げたのは、口の開いたキャンディの袋だ。キャンディはセロファンで巻いただけのタイプだから、ひょっとしたら、子猫にも開けられたかもしれない。
ゆっくりと近づいていくと、子猫は案外あっさりと、朱凛と白幡の手の中に収まった。それぞれに子猫を抱き上げ、おそらく母であろうサビ猫の元に連れていってやる。
にゃあ、とサビ猫が鳴いた。
「なんて言ってるの?」
「……よくやった、褒めて進ぜよう?」
妙に上から目線だったのは気のせいだろうか。
「さて、オレらも出ないとな」
自分が先に出て、朱凛を引っ張り上げるか――と考えたそのとき、再びサビ猫が鳴く。
「え? もう一匹いるのか?」
白幡が訊ね返した、次の瞬間。
――ずん、と世界が揺れた。
やって来たのは、ふたりの女性だった。
「双見藍さんね?」
その片方に声をかけられ、藍は警戒の表情で彼女を睨み付ける。
「あ、あの人、朝チラシ配ってた人じゃない?」
植え込みの裏で、青海が藍に近づいた女性を指さす。
「そうだっけ? じゃあ、ホントに『会』の人なんだ」
「待て、誰か一緒にいるぞ……うちの生徒か?」
もう少し近くに隠れればよかった、と呟きながら南が目を細める。眼鏡が合っていないのか、あまりはっきり見えていないらしい。
「誰っ?」
藍の問いかけに、女性はそっと頭を下げる。
「『みしるしの会』の鈴木といいます。あなたのお母さんとは、仲良くさせてもらっているわ」
「……あなたは?」
鈴木の隣に立っている女子生徒に、藍はうさん臭そうな視線を向ける。彼女はびくりと肩を震わせ、それから「あの」とおそるおそる口を開いた。
「わたしはD組の紅島真那子。手紙、見てくれてありがとう」
「ああ、これ書いたのはあなた?」
責めるような、見下すような、皮肉っぽい声音で藍は言う。真那子は「ご、ごめんなさい」と頭を下げ、鈴木の後ろに隠れた。
「……D組の、紅島さん? 誰?」
楓子が呟くと、南が「え」と意外そうな声を上げる。
「あれ、紅島なのか? 俺、小学校からあいつと一緒だぞ」
「ホントに? だったら聞いてきてよ、何でこんなことしたのか」
「後でな。いま、何の話をしてるんだ?」
「え?」
聞いて分からないの、と言いかけて、青海もきょとんとした顔をしていることに気付く。
「双見さんの声は聞こえるんだけど、あとの二人は声が小さくて……耳いいんだね、天音さん」
「そう……かな」
思い返しても、特にそんなことを言われた記憶はない。まさか、これが《超能力》だったりして、などと思いながら楓子は藍たちの様子をうかがう。
「あ……あのね双見さん、わたし達、あなたを誘いに来たの」
「ねえ、この人に私の母親の話は聞かなかった? 聞いたんだとしたら、どうして私が仲間になると思うのよ」
すると、虚を突かれたような顔で真那子は首を傾げる。
「お母様の話も聞いたし、朝あったことも知ってるよ。だから……今の双見さんになら、分かると思ったんだけど。違うかな」
「なにが言いたいの? 意味が分からないわ」
藍が眉をひそめて問い返す。
青海と楓子は何事かと顔を見合わせる。南は「さっぱり話が見えん」と頭を抱え、携帯電話を取りだした。
「南くん?」
「とりあえず、水之内さんに連絡する。連中が校内に入り込んでるってことは、伝えておいたほうがいいだろ。ここは山畑先生あたりのほうがいいんだろうけど、携帯の番号なんざ知らないからな」
諦めた顔で発信履歴をタップする南。幸い、相手はすぐに出たようだ。
楓子は藍たちのほうに視線を戻すが、相変わらず肝心なことが分からない。「会」が藍を勧誘していることだけは察せられたが、それだけだ。
「そもそも、どうしてこんなところに呼び出す必要があったわけ?」
藍が問うと、真那子に代わって鈴木が口を開く。
「それはね、会長の《目》によれば、もうすぐここで――」
言いかけた、その時。
ずん、と世界が揺れた。




