5.きみの名は - 2
双見藍の母親について、調べてみると面白い――水之内にそう言ったあと、篠懸はまたどこかへフラッと出かけてしまった。ようやく作業が一段落ついた水之内が寮の一室に戻っても、そこでは取り残された後輩がひとりでせっせと写真を整理しているばかり。
「調べてみる、って言ったって……ねぇ」
独り言を口にしながら、水之内はパソコンで表計算ソフトを立ち上げる。開くのは、各種関係者の連絡先を集めたファイルだ。パスワードを打ち込めば、これまで界震を通じて関わって来た様々な人間の名前が表示される。《界震》に遭遇した者。《迷宮化》の被害に遭った者。《異色症》の症状が出た者。《超能力》の発現が疑われる者。あるいは、春菜のように界震関連のサイトを立ち上げたり、何らかのメディアで言及した者。新しいところでは、一年A組のほとんどの生徒の名前もある。南と白幡、それと聞き取りの際にアドレスや番号を伝えてきた数人の生徒を除けば、個人の連絡先は空欄だ。あとで、藍の連絡先も入れておかなければと水之内は思う。
その前に、検索をかけることにする。調べるのは、さっき話をしたときに聞いた、双見藍の母親の名前。
検索欄に打ち込んでエンターキーを押すと、データが一件見つかる。
「……あるのかよ」
彼女の名前に添えられた情報を見て――水之内は、知らず知らずのうちに長いため息をついていた。
保健室で聞いた、藍の話を思い出す。
「六年前……まだ私が小学生のとき、近所で《界震》が起きたの。震源は、住んでたマンションのすぐそばにあったスーパーだって聞いてるわ。平屋建てのスーパーよりも、私が住んでいたマンションのほうが《迷宮化》は激しかったけどね。ちょうどそのスーパーでレジを打ってた私の母は、界震とスーパーの迷宮化にビックリして、帰ってからさらにビックリして腰を抜かしたそうよ」
まあ、あの校舎を見たあとじゃ誰も驚かないだろうけど、と藍は自嘲気味に付け加えた。
「しばらくして、あの『みしるしの会』がやってきた。何をしてたのかは、もう何年も前の話だし、よく覚えてないわ。でも、とにかく、母が熱心に彼らの話を信じて、一緒に行動するようになったのは覚えてる」
スカートの布地を両手で掴み、俯きがちに藍は語った。
「そのうち、活動に入れ込みすぎた母が、父と頻繁にケンカするようになったわ。元々、そんなに仲が良くもなかった気がするけどね。父は母が界震の話をすると怒るようになったし、母はそれでも、父に会の教えを知ってほしいみたいだった。あの頃は、朝起きたらケンカでお皿がみんな割れてたりして、とにかく怖かったわ。父の話だと、母が一方的に暴れてたみたい。
結局、私の両親は離婚して、母は家を出て行った。界震がなければ、そうじゃなくてもあの会がなければ、今でも母は家にいたんじゃないかと思うこともあるわ。離婚を渋っていた母の背中を押したのも、あの会だったっていうし。本人達はいいことをしたつもりかもしれないけど、私は、あいつらのことが大嫌い。弟なんてまだ小さかったから、急に母親がいなくなって、ずっと寂しがってたのよ」
それなのに、と藍は呟いた。
「どうしてまた、あいつらが現れるのよ。どうしてまた、界震なんか起きるのよ。なんで私ばっかりこんな目に遭うのよ、おかしいじゃない……」
日本国内だけを見ても、迷宮化を伴う界震は、ごく軽いものを含めれば月に二、三度のペースで起きている。大きく間が開くときもあるし、間隔が狭まるときもあるが、決して珍しい現象ではない。
この六年間だけで百数十回の界震が起き、一回あたり数十人――それより少ない場合、界震そのものが気付かれないままになってしまうことが多い――から、多いときで数千人の人間を巻き込んでいる。となれば、何人かは、運悪く複数回の界震を経験することもあるだろう。その一人が、たまたま彼女だったというだけのことだ。とはいえ、水之内がそんなことを言っても、藍は納得しないだろうが。
「……それに……ねえ、水之内さん」
藍の声が震える。怒りゆえか、悲しみゆえか、それともそのどちらでもないのか。
「教えてよ。私が起こしたのは《奇跡》なの? だったらつまり、正しいのはあいつらなの? 間違ってたのは私なの? 私達は、本当のことを言ってたママを、嘘つき呼ばわりしてたっていうの? だから……だからママは、私達を捨てたの……?」
ひとつひとつ答えようとして、水之内は思い止まる。彼女がぶつけてきているのは、水之内に答えられるはずもない問いだ。彼女は、答えを求めているのではない。
「分からない。けど」
それでもひとつだけ、答えたいと思った。
「どちらが正しかったとしても、悪いのはきみじゃない。子供ってのは、いくらでも間違うものなんだ。それが当たり前なんだ。そんな理由で捨てられたっていうんなら、きみは、きみのお母さんに、いくらでも文句を言っていい」
藍は答えず、しばらく無言で涙を流していた。
ノートパソコンの画面を見ながら、水之内は渋面を作る。
藍の母親の名前は、確かにデータの中に存在した。彼女が「みしるしの会」に所属していることも書かれている。データの日付は五年前。まだ、水之内が篠懸の元に来るか来ないかという頃だ。もちろんこのデータを入力したのも水之内ではなく、研究室の先輩か、あるいは篠懸自身だろう。
(なるほど、震源付近で被災したなら、そういうこともあるよな……)
なぜ、彼女の情報が残っているかといえば――それは、彼女が《迷宮症候群》の発症者だったからだ。症状は、前髪の一部の変色。藍がそのことに触れなかったのは、母親が隠していたからか、単に忘れているからか。おそらく前者ではないかと水之内は思う。
そしてもうひとつ。
(この時期にはもう、連中も《超能力》の存在を確信してたのか)
藍の母親――追分ゆかりという名前のその女性は、自らが《超能力》――もとい、《奇跡》の使い手だと自称していた。
メモには、ポルターガイスト、と書いてある。ポルターガイスト現象といえば、手を触れていないのに物が動いたり、騒がしい音がしたりする心霊現象のことだ。
篠懸の過去の論文を思い出す限り、五年前にはまだ、篠懸自身は《超能力》の存在について半信半疑だったのではないかと思う。それでも結局、相次いで発見された実際の現象を見て、彼はこのオカルトじみた存在を科学的に検証することを決めたのだ。そんな篠懸も、学会では異端児とされている。篠懸のほかに、《超能力》について真面目に研究している人間を、水之内は知らない。他の業績がなければ、篠懸の話とて相手にもされなかっただろう。
つまり――追分ゆかりが《超能力》の使い手だったとして、五年前にはまだ、彼女の能力を受け入れてくれる人間は、あの会にしかいなかったということだ。
(そりゃあ……傾倒するのも、無理はないんじゃないか……?)
急に訳の分からない力に目覚め、外見が変わって、不安にならないほうがおかしい。
宵宮高校の一年A組は、幸いなことに早期に発見し介入することができた。そうでなくとも、発症者がこれだけ同時に発生しているのだから、多少とんでもないことがあっても「普通のこと」として受け入れやすいだろう。
しかし、ほとんどの発症者は、その事実をひとりで抱え込むことになる。
そして「みしるしの会」は、そんな発症者を見つけては、自分達のもとに引き入れていくのだ。
(少し方針が違えば、いい団体になるのかもしれないけど……)
特定の宗教を信仰していれば、あるいは生粋の無神論者なら、彼らの教えを真っ向から拒絶することもあるだろう。しかしここは日本だ。特定の宗教を信じる代わりに、万物に神が宿ることを無意識に信じる者が多い国だ。たとえば何気なく使う「お天道様の下を歩けない」などという言葉も、太陽に宿る神を信じなければ出て来ないだろう。そんな国で、目の前に存在する《奇跡》や《御標》を前にして、それをもたらした神――あるいは何か超常的なものの存在を信じることが、それほど難しいことだとは思えない。
水之内にできるのは、その前に彼らを発見し、心配ないと伝えることくらいだ。これは決して特別なことではなく、ましてや神の奇跡などではないのだと。その暗闇は、科学の力で照らし出すことができるものなのだと。
(実際、どうなのかは分からないけど……ね)
水之内自身は、「会」の唱えるお題目を全く信じてはいないが、だからといって《界震》や《迷宮化》、《迷宮症候群》、そして《超能力》の仕組みを科学的に説明できるわけでもない。すべてが宇宙人の仕業だと言われればそうなのかもしれないし、実際、篠懸はそういった仮説も立てて真剣に検討している。いずれ「神」の存在が明らかになり、「会」の言っていることがすべて真実であったと分かる――ということも、可能性としてはあり得るのだ。
(しかし、これは……彼女に伝えたほうがいいのか?)
迷いながら携帯電話を取った、その時。
まるでそのタイミングを狙い澄ましたかのように、着信があった。




