1.《迷宮》のはじまり - 2
揺れがようやく小さくなっていく。時計は十一時十二分を指していた。
目の前で起きた光景を理解できず、青海は呆然と天井を見上げる。
天井は元の高さより幾分か高くなっているように見えた。教室の中はひどいありさまだ。机と椅子のいくつかはひっくり返り、そうでないものも元の列をまったく留めていない。まるで嵐に遭ったあとの船の中のようだ。床の上には教科書や筆箱、鞄やその中身が散乱していて、どれが誰のものかも分からなかった。生徒達も、元の席とは関係なく、ある者は立ち上がり、ある者は慰め合い、ある者はへたり込みながら、教室のあちこちに散らばっている。
そしてもう一つ。教室の後方の廊下寄り、掃除用具のロッカーがあった辺りに、大きな四角い穴が開いている。穴の中には、まるで最初からそこにあったかのように、どこかへ続く階段があった。先は暗くて見えない。果たして、どこかへ繋がっているのかどうかも分からなかった。どうやら何人かの机や鞄、それと教室の後ろにあったロッカーのうち一台が、穴の中に呑み込まれたようだ。先ほどの悲鳴はこれが生まれた時のものだろう。
誰もグラウンドに避難しようとする者はいない。佐藤先生は教卓に縋り付きながら、顔をしかめて腕を押さえている。他にも何人かが怪我をしているようだった。さっき転んだときに打ったのか、南が左のこめかみの辺りを押さえて唸っている。「大丈夫?」と藍に聞かれ、南はずり落ちた眼鏡をかけ直しながら頷いた。
そんな光景を眺めながら、ふと右目に違和感を感じて青海は目をこする。だが、その違和感はすぐに消えた。ホコリのせいかな、と思いながらまばたきをする。
「何が、どうなってるんだ……?」
「《界震》よ」
呟いた南に、確信を持った口調で藍が答える。
「まさか……界震って、あれは本当に揺れるものじゃないだろ?」
「普通はね」
《界震》。
数十年前から、世界のあちこちで報告されるようになった自然現象だ。
主観的には地震に似ているが、地震計では検知されない。けれどひとたびそれが起こると、人間は身体に震動を感じ、動物たちも地震の時に似た行動を取り、まれに奇妙な形の雲が見られることもある。錯覚などではないことは明らかだが、その正体はいまだもって突き止められていない。地震に比べれば発生回数は少なく、青海自身、はっきりそれと分かる界震に遭遇したのはまだ数度目、何年ぶりかのことだった。過去に気付いたものに比べても、今回のものはとびきり大きかったと青海は思う。地震に例えるなら、震度6弱、などと言われても納得できる。いや、そんな大きな地震はこれまで経験したことがないのだが。
「おそらく、地面は揺れてないんだわ。揺れたのは、建物のほうよ。つまり、これは……」
外を見ると、いつの間にかC組とD組の生徒がこちらに近づいて来ていた。フェンスの向こうから、遠巻きにこちらを見ている。窓から青海が手を振ると、「みんな、無事かー!」と体育教師の声がした。青海は「ちょっと待ってくださーい!」と叫び返す。
「皆さん、大丈夫ですか? 怪我をした人は手を挙げてください」
窓に近づきながら、佐藤先生が訊ねる。手を挙げたのは三名。一人は迷いなく、二人はためらいがちに。他にも、多少アザや切り傷を作っている者はいるが、さほど大きな怪我ではないようだ。
「一年A組、無事です! 怪我人が三名いますが、歩けないほどではなさそうです」
「そこから出られるかー?」
佐藤先生が叫ぶと、体育教師が大声で返してくる。
「この建物、どうなっているんですか?」
戸惑いながら訊ねる佐藤先生に、体育教師は「どうもなにも」と首を振る。
「見ての通り、ひどい《迷宮化》だ!」
「……《迷宮化》?」
聞き慣れない言葉に、青海は首を傾げる。どこかで聞いたことがあるような、ないような。
「《迷宮化》っていうのは、界震のときに、おもに人工の建物が迷路みたいに変化する現象よ。こんな規模のものは見たことがないけど」
藍の説明を、皆は黙って聞いている。周囲が自分の言葉を待っていることに気付いたのか、藍はやや声を大きくして続けた。
「建物の一部が増殖したり、他の部分と付け替えられたりするの。大きい建物や、重い建物のほうが被害を受ける。木造の一戸建てより高層マンションのほうが、一般的に被害が大きい。どうしてこんなことが起こるのか、仕組みは分かってないわ。そもそも《界震》自体が、正体不明の現象だしね。
きっと、この建物はよほど界震との相性が悪かったのよ。土地や建物によって、迷宮化の起こり方はずいぶん違うって言うし。震源はどこだったのかしら……」
「双見さん」
南が眼鏡を押し上げる。
「《迷宮化》って……建物だけじゃなくて、中にいる生き物にも影響があるんじゃなかった?」
教室の中がざわつく。藍は小さく首を振り、少し口ごもりながら答えた。
「《迷宮症候群》って言われてるやつね。迷宮化した建物の中で起こることが多いから。……まあ、めったにあることじゃないし、そのせいで死んだって話はなかったと思うわ。ひとまず、考えなくていいわよ」
生徒達が不安げに顔を見合わせる。数名が携帯電話の電源を入れ、ウェブやメールを確認し始めた。佐藤先生も特にそれを止めることはなく、窓から顔を引っ込めて生徒の数を数えている。
「あとは……廊下に避難した人たちがいましたね」
「はい! はいはーい! 廊下に四人います! 大丈夫です! でも教室に入れません!」
先生が廊下に向かって声をかけると、元気のいい朱凛の声がする。たしかに、教室の後ろにあるドアの前には例の穴があって、通るのは危なそうに見えた。
「それで先生、なんかすごいことになってるんですけど、探険してきていいですか!」
「ダメです」
即答だった。
「これから皆でグラウンドに避難しますよ。貴重品だけ持って廊下に出なさい」
幸い、黒板に近いほうのドアは無事だ。青海はひとまず財布とカギ、携帯電話を制服のポケットにねじ込む。散らばった教科書とノートは自分のものを探し当て、筆箱と一緒に机の上に揃えておいた。余震のひとつもあれば、さらなる迷宮化でまた落ちてしまうかもしれないが。
「えー、でも、どっから行くんですか? 階段、なくなっちゃってますよ?」
朱凛が言う。青海も廊下に出て、好奇心から隣の教室を覗いてみた。B組には生徒の姿はない。こちらの教室もひどい有様で、床に穴こそないものの、なぜか廊下に面するドアが一枚増えていた。壁に掲示された時間割によると、いまは音楽の時間らしい。音楽室があるのは、敷地の中でもかなり遠い場所にある特別棟だ。いや、音楽室が遠いというよりは、一年生の校舎が辺鄙なところに建っているのである。
廊下の方はといえば、階段のあったはずの場所にはなぜか、ごく短い通路ができていた。三段の短い下り階段を経た先には、おそらくそのまま外に続いているであろう引き戸。これが普通の建築物だとしたら、思わず狂気を感じるような構造だ。あちこちに奇妙な穴や出っ張り、不必要な窓が出現しているが、パーツの一つ一つはあくまでこの校舎に元から存在していたものに見える。
「うわっ、やっぱり界震だよ、この辺一帯あっちこっちで迷宮化だって」
「え、マジ、震源この近くってこと?」
「テレビの取材とか来るかな」
どこか呑気なクラスメイト達の会話。ひとりが思い出したように携帯電話のカメラで周囲を撮影し始めると、数名がそれに続いた。そのまま写真や動画をSNSにアップロードしている者もいるようだ。
「……参ったな」
そんな中、携帯電話を手に南が顔をしかめる。
「どうしたの?」
「母親からメールだ。家はだいたい無事、だけど水もガスも電気も止まってるらしい。ってことは、もしかして、地下もこんな感じになってるんじゃないか? 水道管とか、ガス管とか」
自分が無事である旨を返信しながら、南はため息をついた。
「ああ、南んち、この近所なんだっけ」
青海にとって、高校に入って最初にできた友人がこの南だ。
同じ中学校から進学してきた生徒は何名かいるのだが、男子は一人も同じクラスにならなかった。せっかくなので、新しい友人関係を作ろう! と意気込んでいたところに、ちょうど南が話し掛けてきて意気投合し、以来一緒にいることが多い。南と同じ中学から来た生徒は多いのだが、「せっかくの新生活なのに、内輪でつるんでてもつまらないだろ」とは彼の弁。
「おおっ、そうか、あたしもメール見ないと! ……って、あたしのカバンどこー!」
朱凛が叫んでいる。そういえば、朱凛の席は教室の後ろに空いた穴の近くだ。ひょっとすると、彼女の鞄はあの穴の中かもしれない。
「先生、お弁当は持っていったほうがいいですか?」
「……持っていきたいのなら、どうぞ」
誰かの質問に笑いが起こったが、ひょっとするとこれは大事な質問なのかもしれない、と青海は思う。ここから脱出したところで、また戻ってくることはできるのだろうか。こんな状態だ、じきに崩落くらいしてもおかしくない。とはいえ、弁当をぶら下げてここから出る勇気はなかった。青海はどちらかといえば、長いものに巻かれて生きていきたいと思っている。
「西階段に行ってみましょう。あっちは無事かもしれません」
一年A組の生徒三十二名は、戸惑いながらもぞろぞろと先生の後をついて歩く。この状況では避難経路も分かりはしないし、分かったとしても意味があるとは思えなかった。