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迷宮高校の新学期  作者: こうづき
2.《迷宮症候群》
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2.《迷宮症候群》 - 6

 今回の界震によって、《迷宮化》の被害を受けた家は少なくない。とは言っても程度はさまざまで、言われなければ気付かないほどの軽微なものから、日常生活に支障をきたすほどの大きなものまで、その状況は千差万別である。

 とはいえ、《迷宮化》しやすいマンションではなく一戸建てが中心の地域であったこともあり、住むことができないほどの被害を受けた家はほんの数軒だった。ほとんどの家では、住民たちが当惑しながらも生活を続けている。一時的に避難を決めた家や、子供だけを避難させた家もちらほらと見られるが、多くの場合、理由は《迷宮化》そのものではなく、それに付随して発生した断水や停電、あるいは漏水や漏電であった。

 笠井劉生と紅島真那子の家の場合、漏水やガス漏れの被害はなかった。家に引き込まれている電線は以前よりもややたるみが目立つような気はしたが、今のところは何事もなく電気を送ってきている。

 問題は――《迷宮化》の際に、両家の建物が融合してしまっていることにある。

 外から見れば、まるきり一つの建物だ。もともと同じハウスメーカーによる設計で、デザインが似ていたせいもあるだろう。とはいえ、内部のほうはそれなりに節度を持った融合ぶりで、隣家との間にドアが三枚現れ、廊下が一箇所つながるだけで済んだ。

 両家の仲が良かったのは不幸中の幸いだったといえるだろう。《迷宮化》によって、敷地の境界線を犯されたとトラブルになった例も聞いているが、少なくとも笠井家と紅島家については、「まあ、しょうがないね」と苦笑するような雰囲気だ。なにも急いで建て替えることはない、とは笠井の父親の弁。築二十年に満たないこの家は、まだ建て替えの適正時期にはずいぶん早く、それだけに勿体ないと思う気持ちも湧いてくるのだろう。

 とはいえ、はいそうですか、と受け入れられるはずもない。

 現れた扉のうち、二階の北側にある一枚――自分の部屋と幼なじみの真那子の部屋を隔てる扉を、笠井はちらりと見やった。



 笠井と真那子の部屋を隔てる扉は、笠井の家のリビングにある扉のコピーだ。明るい茶色のドアの中心には幅十センチほどのスリットがあり、そこにすりガラスが入っている。

 ドアの向こうにあるものが見えるわけではないが、音は多少漏れてくるし、電気が点けばそうと分かる。消えたことにだって、そちらに顔を向けていれば気付く。

 真那子が眠ろうとしているのに、その安眠を妨げる必要もない。まだ眠くはなかったが、笠井は電気を消し、布団に潜り込んだ。

 時間はまだ夜の十時だ。中学生でも寝るには早いと感じる時間。けれどあの木曜日から、真那子はいつもこの時間に電気を消す。それが、もっと前から続いていた習慣なのか、非常事態ゆえの行動なのか、笠井は判断しかねている。

 仕方がない、とも思う。笠井と真那子の家があるブロックは、まだ下水管の修理が終わっていない。水が使えない――下水管が壊れているということは、たとえ給水車が来たとしても、水を流すことができないということだ――以上、やむを得ず笠井家も紅島家も、外で食事をして、銭湯に寄って帰るという生活をしている。家族で順番に風呂に入るよりは、早く寝る支度が済んでしまうのは道理だ。

 それに現状、夜中にトイレに行きたくなっても、ワンブロック先の公園に設けられた仮設トイレを使うしかない。早い就寝は、そういう事態に備える意味もあるだろう。たとえ早朝に目が覚めたとしても、それはそれで構わない。真っ暗な夜中よりは、明け方のほうがまだ外出する気になれるというものだ。朝の五時にもなれば、外は出歩けるほどに明るい。

 とはいえ。

(……眠れねえ……)

 悶々とした感情を抱えながら、笠井は寝返りを打ち、布団に顔を埋めた。


 あの日、家に帰った二人は、変貌してしまった自分達の家を見てまたもや唖然とした。

 とはいえ、校舎の変化に比べればこの程度はかわいいものだ。すぐに気を取り直してそれぞれの玄関から家に入ったが、迷宮化の余波で、家の中は大地震にでもあったような有様。天井との間に突っ張り棒を入れていた台所の食器棚は無事だったが、同じように地震対策をしていたはずの笠井の部屋の本棚は見事にひっくり返っていた。二階の天井が心なしか高くなっている気がするので、おそらくそのせいだろう。

 そんな状況だったから、せっかくの臨時休校もその後の土日も、家の中やご近所の片付けの手伝いに追われて、ちっとも休めていなかった。今日の授業もほとんど頭に入っていない。

(しっかし、マジで普通に授業やっちまうんだもんな……)

 木曜日はあの後、クラスごとに先生に付き添われながら荷物を取りに戻り、ひとまず別棟にある選択教室に引っ越しをして、すっかり遅くなった昼食を食べて下校した。その時点では、しばらくは休みになるだろうと期待していたのだが、思いの外あっさりと「月曜日から授業開始」という連絡が回ってきてしまった。一部の選択授業が、場所がないからと何の関係もない理科室や音楽室で行われたくらいで、あとは呆れるほどの平常運転だった。多少の《迷宮化》は、生徒も教師も、皆見て見ぬふりをしていた。

 もっとも、聞くところによれば、一年A組だけは少し様子が違ったらしい。あのクラスは唯一あの校舎で被災し、《迷宮化》の様子を校舎の中から見せられたクラスだ。そんなわけで、山畑先生が自習にした英語の授業や、ホームルームの時間を使って、帝都大の調査チームによる聞き取りが行われているのだという。外からの様子ならC・D組に聞くほうが良いはずだが、今のところまだそこまで手が回っていないようだ。一応、こちらのクラスにも調査が来る可能性はある、とD組の担任が言っていた。

(どうせ俺のところには来ないだろうな。うちのクラスの誰に聞いたって、言うことはだいたい同じだろうし)

 そんなことを考えて、ふと笠井は気付いた。

 ――自分はもしかして、誰かに話を聞いてもらいたいのだろうか。

「……なんだそりゃ。下らない」

 口の中で呟いて、布団を頭から被った。


 こんこん、とノックの音がして、笠井は目を開けた。廊下ではない。真那子の部屋に通じるほうのドアだ。

「劉生、いる?」

 小さな声。布団から跳ね起きて、「ああ」と答える。

 気がつけば鼓動が早くなっている。ひとつ深呼吸する。

 この五日間ずっと、暗黙の了解として「なかったこと」にしてきたドア。

 鍵もかかっていないドアで年頃の男女の部屋が繋がっているというのに、双方の親でさえ何も言わなかったのは、ふたりのことをきょうだい同然だと見なしているせいだろうか。

 ……そんなことは、ないのだけれど。

 今でも昔のように「劉生」と呼んでじゃれついてくる真那子。気がつけば身長の差は20センチ近くになり、隣にいても顔が遠い。小さい頃はくるくると巻いていた髪には縮毛矯正がかかり、シャンプーだかリンスだかコンディショナーだかのいい匂いがする。被災してからは特にそうだ。「銭湯ってすごいね、シャンプーもボディソープも、聞いたことないやつだけど髪さらさらだよ!」と、昨日ばったり銭湯の入口で会ったときに言っていた。湯上がりのまだ少し濡れた髪、上気した肌を見て、不覚にもどきりとした。

「まだ起きてる?」

「寝てたら返事はできねえぞ」

「あ、そうだよねぇ」

 ふふ、と真那子が笑う。ボリュームを抑えた彼女の声を聞き逃さないように、ドアの前に向かった。すりガラスの向こうに、真那子の姿がぼんやりと映っている。

「劉生」

 すりガラスに、真那子の手が触れる。指先だけはくっきりと見えるのに、そこから伸びる腕は白くぼやけていく。ドアの向こうで、真那子がどんな顔をしているのかはまったく分からない。

「劉生は、怖くない?」

「怖いって……何が?」

「《迷宮化》」

 数秒の沈黙は「続きを話せ」の意思表示だ。言葉にして確認するまでもない、いつもの呼吸。

「わたしは、怖いよ。だってこんなの、絶対おかしいじゃない。このドアはどこから出てきたの? いったい何なの? 何で出来てるの? 触っていいものなの? もう、ぜんぜん、訳が分からないよ」

「世の中なんて、そういうもんだろ。科学の力で分からないことなんて、いくらでもある」

「劉生は、平気なの?」

「平気もなにも、実際に起こったことはどうしようもないだろ。身体に害があるわけでなし、気にしなきゃいいんだよ」

「……ほんとに?」

 こつ、とドアに何かが当たる。おそらく、真那子が額を打ち付けたのだろう。

「身体に、害は……ないのかな」

「え? さあ……どうだろう。まあ、体調崩したってヤツは何人かいるけど、それはどっちかっていうと気分の問題っぽいし。なんだ、どっか具合でも悪いのか?」

「ねえ」

 真那子がドアノブに手をかける気配。

「開けても、いい?」

「へっ?」

 慌てて背後を振り返る。見られて困るものは……ない、と思う。片付けが完全には終わっていない部屋の隅には、ごちゃごちゃと無秩序に本や雑誌が積まれている。見られるとまずい本は、あの山の下の方にあるはずだ。

「い……いいけど」

 意外なほど軽い音を立てて、ドアが開く。真那子がおずおずと顔を出した。白いパジャマの上に、淡いピンクのカーディガンを羽織っている。

「入って」

「え、いいのか?」

「別に、嫌がる理由なんてないでしょう」

 妙な罪悪感を覚えながら、笠井は敷居をまたぎ、真那子の部屋に足を踏み入れる。真那子が蛍光灯を点けた。学習机とベッド、本棚にチェスト、加えて壁際にはアップライトピアノまで置かれているので、広さはほとんど同じながら笠井の部屋よりも手狭な印象がある。

「その辺、適当に座って」

 おずおずとベッドの隣、カーペットの上に正座する。この部屋に入ったのは何年ぶりだろう。小さい頃には何度も遊びに来たはずだ。笠井と真那子、それぞれの兄が格闘ゲームに夢中になっている間、邪魔だからと追い出されてはここで真那子と遊んでいた。あの頃はまだ、ベッドも学習机もなかったように思う。ピアノだけは、あの頃のままだ。

 真那子が眼鏡を外し、正面に座った。

 いつも学校にだって一緒に行っているわけで、彼女が傍にいることなど当たり前のはずなのに、なぜか正体不明の緊張感が身体を包む。

「……びっくりしても、大きな声出さないでね?」

 何を、と訊ねる間もなく、真那子が身を乗り出してくる。

(この状況って……)

 何秒か、呼吸を忘れる。

 いつもと違うシャンプーの香りが、鼻腔をくすぐった。

 真那子は片手で前髪を上げる。いつもどこか自信なさげに伏せられている瞳が、ぱっちりと見開かれてこちらを見ている。

 次の瞬間。

「――っ!?」

 ぞくり、と背中に悪寒が走った。

 上がりそうになった悲鳴を噛み殺す。

 生まれてからずっと、飽きるほど見てきたはずの顔。

「お前……その目、どうしたんだ」

 ようやく、それだけ言葉を絞り出す。

 左の黒目の、上から三分の一ほど。

 目を伏せていれば隠れてしまうその部分が、まるで切り欠いたように、深い赤色に染まっていた。



「分からない。でも、たぶん、あの日……《界震》のときからだと思う」

 再び顔を伏せて、真那子はぽつぽつと語る。

「今朝、コンタクトを入れようとして気がついたの。木曜日に外したときは気がつかなかったのに。おまけに、いまは今朝よりもひどくなってる気がする」

 休みの日に会った真那子が、コンタクトレンズではなく眼鏡をかけていたことを思い出す。

「ひどくなった、って……広がってるとか?」

「ううん、それは変わってないと思う。でも、色が……濃くなったような気がするの。このままじゃ、みんなにもバレちゃう……」

「いや、隠してる場合じゃないんじゃないだろ。おばさん達には言ったのか?」

「言ってない。こんなときに、余計な心配させたくない」

「余計な、って……だって、なんかの病気だったらどうすんだよ」

「これが普通の病気なわけない!」

 はっ、と気付いて真那子が口元を押さえる。幸い、真那子の両親が様子を見に来る気配はなかった。階下からテレビの音が聞こえるので、おそらく二人ともまだ一階にいるのだろう。

 改めて、笠井は真那子の左目をのぞき込む。定規で鋭い線を引いたように、あるラインから上だけが、カラーのセロファンでも重ねたように赤く変色している。飼育小屋のウサギのような赤目よりは、やや赤紫に近い色だ。

「視力は? そっちの目、ちゃんと見えてるのか?」

「うん、大丈夫。だから、たぶん……放っておいても、いいと思うんだけど」

「良くないだろ。眼科行ってこい」

「……眼医者さんじゃ、どうにもならないんじゃないかな」

「行ってみなきゃ分かんないだろ。お前、虫歯になったときもそうやって、やせ我慢した挙げ句に夜中に痛いって大騒ぎしたの忘れたか?」

「なっ……!」

 真那子が絶句し、その頬にみるみる朱が差していく。

「そ、そんな昔のこと、なんで覚えてるのよっ」

「あれはいつだっけ? 小学六年生? 昔ってほど昔でもないよなぁ」

「じゅうぶん昔でしょ! バカ!」

「大きい声出すと、おばさん達にバレるぞ」

 囁くと、真那子はしゅんと大人しくなる。

 正直なところ、笠井は真那子の母親に見つかることはあまり心配していない。おそらくだが、「あらあら、ごゆっくりどうぞ」で済ませてくれるような気がしている。それはそれで恐ろしいことではあるのだが。

 問題は、笠井の母親のほうだ。

(こんなところを見つかったら、間違いなく殺されるな……)

 少しばかり、そうなった場合の様子を脳内でシミュレーションしてみる。「あんた、マナちゃんに何てことしてくれたの!」から始まって、鉄拳制裁ののち説教が始まり、最終的には真那子に土下座させられる未来が脳裏に浮かぶ。バリカンで頭くらいは刈られるかも知れない。

 ついでに、真那子の父親がいつものしかつめらしい表情のまま、「年頃の男女だ、色々なことがあるだろう。それは構わないよ。それで、責任は取ってくれるんだろうね?」と詰め寄ってくる様子もなんとなく想像できた。下手をすれば笠井の母親よりずっと怖い。笠井の父親はたぶん、その様子をおろおろと見ているだけだろう。

「……劉生?」

 妄想に逃避していた笠井は、真那子の訝しげな声でふと我に返る。

 そういえば朝から、どこか元気がなさそうだと思っていた。この目を見られたくなくて、彼女は俯いていたのだろう。

 これからも、ずっとそうやって過ごすつもりだろうか。

 いったい、いつまで?

「あー……真那子。今度、ちゃんと病院に行こう、な。なんなら、俺が付き合うから」

 気がつけば、そんなことを口走っていた。

「きっとすぐに、何もかも元通りになる。家も、学校も、町も、ちゃんと綺麗になる。その目だって大丈夫だ。どうにかなる」

「ホントに?」

 真那子が笠井のジャージの裾を掴んだ。

「ああ。絶対、なんとかなる」

「……分かった。劉生がそう言うなら、信じる」

 そう言って、真那子は少しだけこわばった笑みを浮かべた。

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