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迷宮高校の新学期  作者: こうづき
1.《迷宮》のはじまり
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1.《迷宮》のはじまり - 1

 木曜の三時間目は古典の授業だ。

「みんな静かに、授業を始めますよ!」

 一年A組の教壇に立つ佐藤弓子先生は、黒髪に茶色のバレッタ、灰色のスーツにぱりっとした白いブラウス、とどめに野暮ったい銀縁の眼鏡と、「教育熱心な女教師」を絵に描いたような格好をしている。

「教科書の十七ページを開いてください。前回の授業では、四行目までを説明しましたね」

 開いた窓からは、まだ幾分か涼しい春の風が吹き込んでくる。窓際の席に座る青海(おうみ)奏太は、その春めいた匂いの元を探すように、視線を外へと向けた。

 窓といっても、つい一ヶ月前まで彼が通っていた公立中学校のものとはわけが違う。縦長の窓は、横ではなく上下にスライドするタイプだ。凝ったデザインの茶色い窓枠が、レトロな雰囲気を漂わせる。外壁を明るい色のレンガで仕上げられた、およそ高校のものとは思えないこの洋館が、私立宵宮(よいのみや)高校の一年生校舎である。

 学年あたり四クラスという規模に比べ、この高校の敷地は広大だ。眼下には三面のテニスコート。フェンスを挟んで、その向こうが第一グラウンドだ。C組とD組の生徒が、男女に分かれて体育の授業を受けているのが見える。

 青海は視線を教室の中に戻した。小気味よい音を立てながら、佐藤先生が黒板に徒然草の一節を書き写している。その姿を真似て、ノートの隅に棒人間を描いてみた。大きめに描いた頭の中に、ロボットめいた四角い目と口。我ながら、なかなかよく描けている。

(……って、待て待て、今日はダメだろ、僕!)

 慌てて消しゴムをかけた。高校入学と共に新調したばかりの消しゴムは実に優秀で、落書きの痕跡をほとんど分からないレベルまで拭い去る。

 それから黒板の文字を、いつもより少しだけ丁寧に書き写した。

 理由は、彼の三つ前の席にある。今日は空いているその席は、青海と同じ中学校の出身である、秋月墨香のものだ。

(明日こそ、秋月さんに声をかけよう)

 おはよう、もう体調はいいの、それは良かった、ところで昨日のノート見る? ――そんな会話を脳内でシミュレートして、にやつきそうになる口元を左手で隠した。

「ここまでの話は覚えていますね……四十塚(よそづか)さん」

「は、はいっ!?」

 ガタンと机を鳴らしながら、四十塚朱凛(あかり)が上体を起こす。短いポニーテールがぴょんと跳ねた。どうやら授業開始の直後から、光の速さで眠りに落ちていたらしい。教室の中に広がった静かな笑いにも、気まずい素振りは欠片も見せず、「いやー、すいません、聞いてませんでした!」と頭を掻く。

「……では四十塚さん、改めて聞きます。この話の舞台はどこでしたか?」

「え? えーっと……あ、そうだ、三角のお菓子の……京都! 京都です!」

 片手を挙げ、胸を張って答える朱凛。どうだすごいだろう、と顔に書いてあるようだ。すらりとした肢体に、猫を思わせるぱっちりとした瞳。いかにも運動が得意で快活な女子という印象だし、実際、中学時代はバスケ部で大活躍していたという噂だ。残念ながら、勉強のほうは運動ほど得意ではないようだが。

「正解です。今日の授業もその調子でお願いしますね」

 厭味を込めた口調でそう言うと、佐藤先生は授業を続ける。

 時刻は十一時三分。

 ごくごく平和な授業風景が続いていた、その時。


 ――ずん、と世界が揺れた。


 一年A組のほとんどの生徒にとって、その瞬間は、長らく忘れられないものになっただろう。



「きゃあっ!」

 最初に声を上げたのが誰だったかは分からない。

 すくい上げられるような、深く大きな揺れだった。足元が頼りなく揺らぐ。それはまるで、地面というより、世界に対する自分の立ち位置が揺らいでいるかのような不安定感。椅子から立ち上がることすらできない。身体が、あるいは意識が、遊園地のアトラクションを思わせる容赦ない揺れに翻弄される。

 にわかに騒がしくなる教室の中、青海は顔を上げ、ふと黒板の上の時計を見る。

(あれ? 揺れてない?)

 これだけの揺れだ。金具で壁にかけられている時計など、揺れるどころか落ちてもおかしくない。しかし時計はぴたりと静止したままだ。

 だが、それもほんの二、三秒のことだった。直後、さらに大きな振動が襲いかかり、今度こそ時計が大きく跳ねた。誰かの筆箱が派手な音を立てて床に落ちる。女生徒の悲鳴が上がる。

「落ち着いて! 机の下に隠れなさい!」

 佐藤先生が叫ぶ。振動で暴れる机の脚を掴み、その下に潜り込む。真新しい教科書とノートが目の前に落ちた。青海は身をすくめる。

「揺れが収まったら、グラウンドに避難しますよ!」

 だが、何秒経っても揺れは収まる気配を見せない。こんな時には大抵、誰かしらの携帯電話から緊急地震速報のアラームが聞こえてくるものだが、それもない。不規則な揺れに加えて、どこからか唸るような地鳴りが響きだす。

「ね、ねえ、ちょっとヤバいよ! みんな逃げよう! 崩れるよ!」

 悲鳴のような朱凛の声。その直後、何か重いものが落ちる音と共に震動が教室を襲う。近くに雷でも落ちたかと思うような轟音と衝撃。幾人かの悲鳴が重なる。一度は落ち着きかけた教室が、再び混乱の渦に陥る。

「やめとけ! 逃げるったって、今動いたら余計に危ないだろ!」

 揺れに足を取られながら立ち上がったのは、眼鏡をかけた生真面目そうな男子、南葉一郎だ。

「そ、そうよ、それに、これ、地震じゃなくて――」

 隣にある南の机に縋りながら、泣きそうな声で小柄な女生徒、双見藍が訴える。


「――《界震》だわ!」


 不意に電気が消え、教室がわずかに暗くなった。青海の頭上で窓枠が軋む。足元がずずんと大きく揺れ、藍が南ともつれ合うようにして転んだ。

 床がわずかに傾いたのか、机や椅子が窓際に向かって滑り出す。かと思えば再び足元から突き上げるような揺れが起き、今度は廊下側へと机が滑っていく。朱凛を含めた幾人かの生徒は物のない廊下へと退避したようだ。興奮気味に携帯電話を構え、教室の様子を撮影していた女子が、小さな悲鳴と共に机の下からまろび出る。窓際に追いやられた青海は机の下を飛び出し、つんのめるようにしながら茶色い窓枠を掴んだ。

 ……ふと。

 その向こうに見える光景に、妙な違和感を覚える。

 ここは二階だったはずだ。眼下にはテニスコートが見え、その向こうにはグラウンドがある、はずなのだ。だが、そのテニスコートの位置がやけに低い。これではまるで二階ではなく、もっと上の階から見ているかのようだ。

「おい、上!」

 誰かの声に天井を見る。何かが落ちてくるのかと青海は身構えたが、違った。天井が、部屋の中から何かに殴られたようにへこむ。白い天井を横切るように走っていた茶色い梁が歪み、そして――

「なっ……」

 ――スティックチーズのように裂けて……増えた。


 再び、今度は別の場所から数名の悲鳴が上がる。もはやそちらに視線を送るのも恐ろしく、青海は窓枠に掴まる手に力をこめ、固く目を閉じて悪夢の終わりを待った。

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