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鼻歌よりも薔薇よりも  作者: 千花夕夏
1/1

前編 雨

 島にひとつだけある中学校が、つぎの春、閉校する。

 ふえていく空教室、とまった時計、あかない西門。校庭のすみには、いつのまにか鉄の壁で仕切られた立入禁止の領域ができていた。春の海の光が反射する鉄壁の向こうに、どんより暗い空間がある。それが何のためにできたのか、まだ誰も知らなかった。

居場所がせばまればせばまるほど、牧島マリアと同級生たちは、思い出づくりに励んだ。

五月の陽射しの中で、運動会の練習の声が、校庭に響いている。

「マリア、あれみて」

 一人の女生徒が、昇降口にはいっていくところだった。

まっすぐ前をみて、本を抱えて、長い髪を揺らしている。細くて白い手足が、灰色の校舎に映えていた。

「里見カイナよ。あの子、いつも自分だけは特別だ思ってるよね。」

「どうだろうね…。里見さんが持ってたの、新しい本だったね」

「そんなことはどうでもよくて。ねえ、マリア、あの子の口走ったこと、覚えてる?」

「あぁ……“わたしたちは、いずれ、みんな、大きな鳥の羽の下で海になる”って……」

「そうよ、どう思う?」

「どういう意味なんだろう?よくわからないけど、里見さんはよくそういうことを言うね。」

「あの子、私たちのこと怖がらせて喜んでるみたい」

「……ほっておこ」

「ほっておけないよ、マリアは、なんでそんなに優しいの。」

 そうじゃなくて、とマリアは思った。

 里見カイナは離島の出身だった。離島は、占いや霊魂を生業にしている人々がすんでいる。カイナは、神通力がとても強く、それを隠しもしなかったので、家族に嫌われ、本島にわたってきたという噂だった。

離島にも本島にも根付けないカイナのような子は、海の向こうの都会へいくしかない。マリアは、生まれた環境のせいで、そういう子が都会でどんな目に合うのか、よく耳にしながら育っていた。

 「あの子には、思い出なんて役に立たないんじゃないかな。だって、私たちは、みんな、島いがいで生きられない。」

 マリアは、そういって目を伏せた。なぜか、してもない約束を破られ、取り残されたような気持ちだった。


 疲れと熱気が詰まった春の運動会前日。

 里見カイナが、外国の本をクラスに持ち込んだ。

 同級生たちは、ここぞとばかりに口々に咎め、大さわぎをした。大勢でとりかこみ、教師に言いつけると責め立てた。カイナは、すっと背筋をのばしたまま、表紙においた自分の手をみつづけている。男子が、カイナの髪を力まかせにひっぱった。

「やめろ!」教師があいだにはいると、同級生たちは大きく息を吸って、黙る。若い美術教師は、大きな黒い目を泳がせ、薄い胴体から伸びた長い足でカイナに近づき、骨ばった手をだらりとさしだして言った。

 「外国の本は、今この国では禁止されている。今回は見逃してやるから、その本を渡せ」

 周りがざわつきはじめた。教師の言葉が、ただの決まり文句だったからだ。

 カイナは言った。

 「嫌よ。渡さない」

 そして、嗅ぎわけるように遠くにいるマリアをみつけ、みつめたまま、なにかを小さくつぶやいた。

 マリアは、はっとして息をのみ、カイナを見つめ返す。耳元に小さな風が吹き、ゆるして、と聞こえた気がした。“あなたの胸の奥に隠しているものを、これからとり出して、ナイフを作ります。ゆるして”

マリアにできることは、何もなかった。ただ、額の奥に無理やり冷たいものと熱いものを同時に詰め込まれたような感じがして、痛くて目をつぶった。

カイナは言った。

「先生、あなただって、この本が好きでしょ。前は、ずっと持ち歩いていたじゃない。それに、大事な誰かに、あげたりしたこともあったわよね」

 周囲は大きな声を上げ、教師は、軍がどうこうと言い訳を続けた。骨ばった教師の肩が震えている。

 さわぐ周りをかきわけ、カイナは、ぼうっとしているマリアのそばに近寄った。そっとマリアの頭をそっと撫でる。長い髪が、マリアの頬にさわって優しく揺れた。

 「思い出一つ使ってしまった。ごめんなさい。ありがとう。」

 マリアは、思わず何度もうなずいた。カイナは、マリア自身よりもマリアのことをわかっているのだ、という気がした。マリアの友達が駆けより、マリアにさわらないで、意味わからない、と言う。マリアは、消えたいような甘くとけるような気持ちで机につっぷした。

 



 マリアの家は、島で唯一のホテルである。教師は昔、毎夏、ホテルにとまっては、島を巡り、絵を描いていた美大生だった。

 都会風の長めの髪をした、青白い、時々暗い目をする男と、小さなマリアはよく一緒にいた。散歩したり、夏祭りにいったり、昼寝したり。

 マリアでさえ知らない本島の話や離島の話を聞いたりもした――――離島の人間にかかわると水難にあうから、気を付けなければならないこと。なぜなら、昔、本島の役人が、離島の信仰を罰し、人々を海に沈めたからであること――――など。

 マリアには難しいような英語の本も、くれたりした。マリアは今でも、その時の本を本棚の一番手に取りやすいところにおいている。

 美大生は、何度も島に通ったあと、画家になることをあきらめて、僻地教師として赴任してきた。子どもの頃からよく知っている大人が、教壇に立っているのをみて、マリアは身のおきどころを間違えたような気持ちになったものだ。だが、その頼りない傷みこそ、透明な光る糸のようにも思え、誰にも秘密で守ろうとしてきたのだった。

 その日、カイナは、マリアにだけ謝ったあと、教室からでていき、帰ってこなかった。




 星がきれいにみえる夏休み最後の夜。

 長い雨が続いたせいでしっとりした地面の上を、うちわを持った人々が笑顔で歩いていく。

 今夜は、島中の人が、夏祭り会場になっている中学校へむかい、一晩中そこで過ごすのだった。校庭の四角く区切られた暗い空間は、だんだんと大きくなっていたが、まだ誰もそのことを気にしてはいなかった。ただ、毎年のにぎわいがそこに広がっていた。


 ―――そんな日に、マリアは一人、海へ向かっていた。

浴衣のすそを気にしながら走り続ける。マリアの小麦色の小鹿のような脚がみえかくれし、肩のところで切りそろえた艶やかな髪も、乱れて、潮のにおいがしていた。

 海の岸壁にたどりついたとき、マリアは、だれもいないはずのその場所で、海に向かって祈る人影をみる。

それは、小さな黒い天使の置物のようで、マリアが目をこすると、

「やっぱり、きたのね。」

という里見カイナの黒い瞳とめがあった。カイナは、祈りの手をほどき、笑った。

「里見さん、どうしてここにいるの」

 学校での外国本の一件以来、二人が言葉を交わすのは初めてだった。

「私は、毎年ここにくるの。ほら、海の向こうをみて。たくさんの赤い光がみえるでしょ。」

 夜の海に、離島が浮かんでいる。ここからみると、大きな生き物が眠る影のようにみえた。

そのこんもりした背中を、赤い光がほたるのようにおおっている。

「なんかすご…」

「今日は、私の島でもお祭りなの。大勢で松明をもって山に登って、亡くなった人の魂をアカウ樹の根元に返すの。そして、アカウ樹の実を食べるの。」

「……私たちのお祭りとはだいぶちがうね。」

 マリアは、夏祭りの日のために三人の友達とおそろいで買った髪飾りをなくしてしまい、急になにもかもが信じられないくらい面倒くさくなってしまったのだった。けれど、家にいても親に心配されるだけなので、海へ来ることにしたのだった。

 カイナは、微笑み、遠くをみた。

「あのね、私の島のお祭りは、もともとはここ本島のものだったのよ。離島の人たちは、本島のお祭りの仕方をまねしたの。自分たちの本当の信仰を隠すために。」

「……ほんとうに?」

 マリアは、遠い記憶の中で、どこかで誰かにその話を聞いたことがあるように思った。

「あなたは、子どもの頃は、このこと知ってたはずだよ。」

 そういうと、カイナは、小鳥の羽が舞い落ちるみたいな声で、ハミングした。

 何か、聴いたことのない言葉を、風にのせるように。

 そして、歌が終わると、いっそう解放されたような笑顔をみせた。マリアは、カイナから目がはなせなかった。

 「だからね、マリア。私は、大丈夫なの。アカウ樹のそばでなくても、世界のどこにいっても、私は祈ることができるから、大丈夫なの。今では、わたしの島の誰も、そんなこと忘れてるけど……、本当はわたしたちはどこにでもいけるの」

 カイナが美しい声で歌ったのは、小さな祈りだった。松明をもって山に登った後、アカウ樹の下に集まった離島の人々は、祈りの言葉をみんなで言うのだった。その言葉だけは、自分たちの島だけの秘密にして、決して、絶対に、誰にも言ってはだめだ、と教えられてきていたものだった。カイナは、言った。

 「マリア、私、ずっとずっとあなたと一緒に島から出て、都会にいけたらいいなと思っていたの。だけど、やっと、一人でも大丈夫だって思えるようになったわ。今日、ここで会えたから。」

 言いきったカイナは、すっと立ち上がり、離島をにらんでいた。

マリアは、足元をみる。カイナの言葉に驚き、地面が抜けたかと思った。マリアの脳裏に、背骨のない魚みたいになって漂う教師の姿や、都会のホテルに一人で泊まるカイナの姿が閃き、消える。島のホテルを継ぐ自分や、具合の悪い祖父、いつも機嫌の悪い母親…

 「カイナ、私、本当は…」

 マリアが口を開いた時、大きな風が吹いた。

岸壁の小石が巻きあがり、顔に打ち付ける。

二人はまぶたをぎゅっと閉じて、互いの腕をつかんだ。




 無理やり一人になり、マリアは浴衣のまま、さ迷っていた。まだ知らないはずの光景がまぶしくて懐かしいような、手に入れる前に失くし物をしたような気がしていた。確かなことは島のどこにも自分の居場所はないということだった。

気つけば、ぬかるんだ山道に入ってきていた。アカウ樹を探しているのかも、自分は……マリアがそう気づいた時、ずだん、黒く重い幕が落ちたように、あたりが一段と暗くなった。

 土から浮きでてうねる根っこで、下駄が脱げそうになる。尖った葉が、足首にはりついた。密集する下草の湿った息が充満する中を、ぐじゅぐじゅ進む。鼻緒に泥がめりこんでいた。

 手で汗をぬぐい、いちど顔を上げる。

 思わず、息をのんだ。

人の腕のような大小の枝が、無数にぶらさがり、どこまでも頭上を覆っていた。

 千畳もありそうな、腕の天井を支えている瘤だらけの太い幹がむこうにみえる。幹に千切れそうなしめ縄がまきついている。

 マリアが、アカウ樹の根の上にいるのはたしかだった。ぐん、髪が枝にひっかかり、強くつかまれ、

 「あっ」

アリアは、つまづいた。

浴衣の蝶に泥が飛び散る。長い袖がひっかかり、手足が思うように動かせなかった。すぐ近くの黒い水たまりに、顔から倒れていく―――。

その時、小さな明るい力が、マリアの体を支えた。腕がぐっと引き上げられ、まっすぐ立つことができた。

―――カイナが隣にいた。

「カイナ、どうしてここに?なんで?」

「急に怒って帰ったから、気になって追いかけてきていたの。あんたこそ、なんでここに?」

そういうと、カイナは、口ごもるマリアの答えを待たずに、すっとしゃがみこみ、

「足、大丈夫?血がでてる。」

 と言って、マリアの血のにじんだ砂まみれの鼻緒にそっと息をふきかけた。そして、マリアがやめて、という間もなく足の親指と人差し指のあいだをちゅるっと舐めた。カイナは、マリアの頭をなでながら、その先のアカウ樹に目をやる。

「なかなかすごいのがいるね。」

 そういうカイナの口元だけが、笑っていた。小さな歌がカイナの唇からもれる。

 その声をかき消すように、風が吹いた。

「きゃぁっ」

 風が吹くと、腕が垂れ下がる天井が揺れ、銃弾のように雨滴が降り注いだ。

 くぼみのある丸い葉がためこんでいた雨滴の一粒一粒が、皮膚の表面で、幕をはり、弾ける。終わったかと思うと、また風がふき、波のように繰り返された。声を出すことも、息をすることもできない。音がやみそうになったとき、マリアはやっと目を開けた。

「帰りたい。私、なんでここに来たのかも、わからないの。もういいわ。十分だわ。」

「違う、もっと奥に本当にすごいのがいるのよ。隠しているんだわ。隠れているのかも。マリア、そいつと繋がれるかもしれないわよ」

待ってて、そういうと、カイナは、立ち上がり走り出そうとした。マリアは、カイナの腕をつかむ。

「いかないで」

「大丈夫、私は、あんたみたいにここで生まれたわけじゃないもの。ぜんぜん大丈夫よ。」

カイナは、マリアをその場に残して、アカウ樹の暗闇にむかって走っていった。嬉々としてふところに飛び込んでいくようだった。

マリアは、泣いた。いかないでほしかった。

いつも代わりのもので我慢してきたこと、いつも「ここにいる」という答えしかしてこなかったこと、すべて後悔していた。いまはもう、都合のよい助けは来ず、手の中にあったものさえ   

指から零れ落ちていくことを止められなかった。ただただ、自分のことを忘れないでほしかった。

「いかないで」

マリアは、どのくらい泣いていただろうか。

「ほら」

いつのまにか傷だらけの腕が、マリアの前に無防備にさしだされた。帰ってきたカイナは、両手いっぱいの赤い実をマリアにみせる。

「この実は、マリアのこと、守るよ」

 マリアは、言った。

「カイナも、持ってて。」

カイナは、不思議そうな顔をして、何か言おうと口を開いたが、

「関係ないと思っても持ってて。私のためだと思って持ってて。なんでもいいから持っててよ。」

 泣き続けるマリアを抱きしめて、カイナはうなずいた。

「どうしてまた怒ってるの・・・」

マリアは、赤い実をつかみ、カイナの胸元に押しこんだ。

 



 夏休みがあけると、マリアは新しいブレスレットをしていた。

同級生たちは「それ、なに?」と不思議な顔をした。焼け焦げたような赤の、甘い匂いのする、アカウ樹の実で作ったブレスレットだった。

「自分でそういうの作れるなんて、すごい。私にも同じの作って」

 そういったのは、カイナだけだったので、

「いいよ。私のぶんの実は全部使っちゃったの。カイナの実は、まだ、持ってる?」

「あるわ」

 マリアは笑顔になるのをおさえきれなかった。

「じゃあ、紐の色はどうする…?リボンみたいに結ぶ形にもできるし、金具をつけたりもできるの。間に、ガラス玉を入れたりしてもいいよね」



「冬の夜と、夏の夜、とどちらが潮のひきが強いか、わかるひとは?」

 美術教師の質問に、さっと手があがる。

 少し離れた席に座る、二人の少女の腕。どちらにも手首に赤い印がある。アカウ樹の実がきゅるり、と鳴り、甘い匂いがあたりに漂った。

「私たちの海では、冬至の夜が一番、潮がひきます。その時に、わたしのおじいちゃんのおじいちゃんたちが、離島から歩いて、隠れながら本島に渡ったの。そして最初のアカウ樹の種を持ち帰ったの。それをまいたら、あっというまに島中に群生しました。そして、みんなアカウ樹を信仰しているふりをしながら、その木のかげで、私たちの祈りの言葉をささやいていたんだわ。」

「里見の答え、それはそうなんだが…。だけど、そこまできいてないんだ。」

 教師は目を細めて苦笑いし、マリアもカイナと一緒に笑った。ずっと笑い続けていた。



いつものように教室への階段を上っていた冬のはじまりの日、後ろから駆けてきたカイナが、きつく、きつく、マリアの手を握ってきた。 

「島に帰ってくるように言われたわ」

ぞっとするほど冷たい手だった。

「久しぶりに島に帰るわ。どうせそろそろ、引っ越しの荷物をまとめなくちゃ、と思っていたの。家におきっぱなしの子どものころの大事な物をとってきたいし……ちょうどいいわ。すぐ帰ってくる。」

 カイナは、眉間にしわをよせ、長いまつげを伏せて、小さく震えていた。いやな流れにまきこまれて遠くに流されることがわかっている、そういう顔をしていた。マリアは、ただ、ぐっと手を握り返した。

「私、私も島を出るわ。カイナと一緒に行くってきめたの。」

カイナは、すこし驚いた顔をしたが、うん、と深くうなづいた。

そしてそれっきりだった。

カイナは学校に姿をみせなくなった。


今までになく暗くて、ちくちくする大気が空を覆い始める。

 同級生の間では、噂が流れた。

 ――――里見カイナは、家族に監禁されて、記憶を消す術を施されたらしい。

 ――――なにかの禁忌を破って、島の人に殺されたのだ。

 ――――いや、島から逃げて、とっくに船で都会の港に向かっている。

 

 ほんとうのことを教師にきいても、教師は首をかたむけ、じっとマリアをみて、ただため息をついてみせた。まりあは、切りすてられたような、切りすてたような気分で、立ち尽くしていた。


潮が音をたててひいていく、一番長い冬の夜。

 海の上を歩いて、離島へ帰ろうとするカイナの夢をみた。

 裸足で、白いパジャマをきて、震えながら歩いていくカイナ。そっちへいかないで、帰ってきてと叫んでも、声は届かなかった。島の人々は、小舟を用意して砂浜で待っていた。

そして、やっと浜辺に歩きついたずぶ濡れのカイナを、力ずくで船に詰めて、花を盛り、海におし流した。人々は、カイナが小さな声でうたっていたのと同じ歌、まりあには夢の中でしか思い出せなくなったメロディーを、強風にかきまぜられながら低い声で歌っていた。


 カイナがいなくなってから、校庭の工事は急に進んでいった。

冬至の夜には、境界線が一気に引かれた。

海から始まり、校庭を横断し、その先の空と地面のあいだまで伸びる白い直線だった。まだ海は静かで、生まれたての鳥でも自由に飛べそうなくらいなのに、工程が進むにつれ、だんだんはっきりと姿を現したのは、飛行機の滑走路だった。

 

 教室の窓から、校庭の真ん中をまっすぐに横切る滑走路と立ち入り禁止の鉄壁がよくみえた。交響曲みたいに堂々と、気持ちよく延びていく線を、同級生たちは  どこかうっとりと眺めた。そして、空へと日々伸びていく滑走路を、滑走路への出入りを禁じる高い壁を、不思議と受け入れていった。 

里見カイナの噂にあきた頃には、まるで昔からあったみたいに、なじんでいた。


海からの冬の光が、空き教室に、止まったままの時計に、開かない西門に、そして滑走路に反射している。 

マリアだけが、まだ自分はここにいるのに、と感じていた。小さな爪で、窓枠を何度もひっかきながら、マリアは思う。何が原因かとか結果かとか関係なく物事は進む。透明な光る糸は消え、一人になったという実感もないまま、マリアは一人だった。

 

 卒業式の飾りつけがされた体育館に、練習の声が響く。一番後ろのすみに、ぽつんと空いている席があった。その席をぼうっとみているマリアを、同級生がつつく。

「ねぇ、マリア。香水とかつけてるの?あなた、なんか匂う。甘いような…。」

「……」

「そのブレスレットからにおうのよ。取りなさいよそれ。」

「……いやよ!」

「取りなさいってば!なんだか気持ち悪くなるのよ、そのにおい」

「やだっていってるじゃない!」

手首をつかまれ、ブレスレットにさわられ、マリアは相手を平手打ちにした。

マリアの耳にだけ、大きな風がふいた気がした。

誰かが大笑いする声が、確かに聞こえてくる気がした。

ここからは見えるはずがないのに、ほっそりした体の、長い髪をなびかせた影が、校庭の滑走路の壁の向こうへ、笑いながら、すっと、入っていくのがわかった。まるで、呼ばれたか、招かれたか、ずっと前からここで待ち合わせをしていたかのように自然にどこまでもつづく壁の向こうへ、笑いながら消えていった。

 ―――おい、みんな!遠くの座席から教師の声が響く。まわりも振り返り、マリアたちを怪訝そうにみる。騒ぎはいつまでもおさまらなかった。


マリアは教室には帰らず、一人、校庭まで走った。目を閉じ、大きく息を吸い込み、吐く。ゆっくり目を開けると、マリアは壁に駆け寄っていった。どこにも隙間のない壁。

 「カイナ、ねえ、この向こうにいるの!?」

 マリアは、壁を叩きながら、何度も叫ぶが、答えはなかった。ただ、あたりには海と油のにおいが漂っていた。壁をたたきながら、壁際を歩き続けた。疲れて、どんと地面に膝をつくまで歩き続けた。下草の生えるアスファルトの淵に、マリアはしゃがみこむ。

 両手で土をひっかいた。ひっかき傷をくりかえしつけて、すこしずつすこしずつ傷を広げ、えぐっていく。爪がはがれるのも気にせずに、その隣にも、その隣にも、固く、乾いた、熱をもった、くぼみを作った。大きな動物の鼻息で荒らされたみたいな穴が、ぼつぼつと並ぶ。

 「できたわ」

 ブレスレットのリボンはすっかり汚れて、黒くなり、ねじれている。

 マリアは、ほつれたブレスレットを、引き裂いて、千切った。

 手首に残る赤い汁、赤い痕。

地面に散らばるアカウ樹の実。

火薬のようにちらばる実を、あつめて、手の平に広げてみた。

 マリアは、これを、ひとつぶ、ひとつぶ、自分でつくった穴に埋めていこうと思う。

埋めた実が芽吹いて、うねる根が、やすやすと、真新しいアスファルトを盛り上げ、真っ白な道をはがし、裂いて、くつがえせばいい。カイナが鼻歌をうたいながらやすやすとやったみたいに、一瞬で変えてしまえばいい。根は、はりめぐらされ、島中の根という根とつながって、吸い上げた水がしみだし、あふれて、砕けたアスファルトの裂け目から流れ出るだろう。

 ――――もうすぐ、大きな鳥が、ここに舞い降りる。私たちは、まだみたこともない大きな鳥の羽の下で、とっくに一人ひとりの影をなくしてる。みんなで一つの、大きな影になって、海の水みたいにこの島を覆い始める。


 マリアの目や口に、汗が流れおちた。マリアは、木の実の赤い汁が染みついた手で、口元をぬぐう。

のどの渇きにたえられなくなり、マリアは、自分の手首を舐めた。

座り込み、ひとり空をみあげるマリアの口の中に、甘い味が広がっていった。


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