001,星空の下
習作のようなものですが、お楽しみいただければ幸いです。あらすじの登場人物が出てこない1話で申し訳ないです。
美しい夜空だと思った。空には満天の星。そして輝かしい満月。時折そよぐ風が心地好く、知らず火照ってしまっていた肌の熱を拭い去ってくれる。
腰のベルトにつけたポーチから、昼に露店で買っておいた飴をひとつ取り出して口に放りこむ。舌で転がしてやると、すこしべったりとした感じの甘みが口の中に広がった。
ゆっくりと目蓋を下ろして、草原を吹き渡る風の音を聞く。
そうしてゆっくりとしていると、ふいに
「殺してほしいのか?」
と、風の音に紛れて、落ち着いた男性の声が耳に届いた。音の高低という意味では低い部類だろうが、涼やかな印象もある穏やかな声質だ。
私は焦ることなく目蓋を開いた。そこにいる人物が、不意打ちのような真似をしないことは、よく知っていたからだ。わざわざ声をかけてきているところからも、それははっきりしている。
「君はそんなことしませんよ」
私の言葉に、彼は気分を害したようだった。悲痛に顔を歪ませ、私から目を逸らしている。
美しい雄だった。少年というべきか、青年というべきか。女性であればロリータと表現される大人と子どもの狭間から、じきに脱しようとしている男性。
線の細い印象だが、その実、体はよく鍛えられ、引き締まっているのを私は知っている。
わずかに幼さを残した横顔は中性的で、悲痛に歪められたそれは儚げな芸術作品のようですらある。少しだけ長めな灰色の髪はそよ風ていどでは揺らがない力強さがある。そして、その頭頂部では、灰色の毛が重力に逆らうように天に向かって伸びていた。跳ねている毛は、頭皮に近づき、中央部に向かうに連れて、灰色から白色に変化している。彼の耳だった。
彼は獣人。彼の股の間からは、髪の毛と同じく灰色のふさふさとした尻尾が見えている。
「なんだか気が殺がれてしまったかもしれません。こんなに良い月夜です。殺し合うのは、また今度にしませんか?」
「……」
黙ってこちらに向き直った彼は、小剣を鞘から抜き放った。向けてくる視線はこれまで見たこともないほど険しいものだ。
「どうあってもやる気なんですね……」
悲しげな顔、というのを意識して表情を作る。以前は難しいと感じたものだが、最近はかなり慣れてきたという自信がある。
「悲しんでいる振りはやめろ」
彼は小剣の柄を握り締めながらそう言った。
表情はちゃんと作れていたはずだが、やはりというべきか、これ以上、彼を騙すことは難しいようだ。
「そうですか……」
もう遊びは終わり。それがわかったから、表情筋を意識することをやめにした。おそらく私は、まったく表情の抜け落ちた人形のような顔を彼に向けていることだろう。
彼はなんだか少し驚いたような顔をしていた。そういえば、彼の前で表情を作ることをやめたのは初めてだったかもしれない。彼からこの場に呼び出されてからも、なんだかんだと表情は作って見せていた。
「ほんとう……なんだな……」
悲しげな声色。
「確信もなしに、殺す、なんて口にしていたんですか?」
そんなはずはないだろう。彼は確信を得たからこそ、この場に私を連れてきたのだ。だれにも咎められず、殺し合いのできるこの場所へ。だから、今さらほんとうか、などと言い出すのは彼の弱さが原因と言えるだろう。ほんとうであってほしくない、そんな思いがあると言っているようなものだ。
しかし、そういったものにつけこむつもりは、もうない。これはひとつの通過儀礼なのだ。私が目的を達するための試練。過程のひとつにすぎない。
「面倒ですから、はっきりと教えて差し上げます。全部、私がやったことです」
そう言った途端、彼の顔つきが変わった。ふだんは柔和なそれが、いまはさながら飢えた肉食獣のように、激情に歪められている。噛み締められた口の端からは、肉を引き裂くための鋭い牙が覗いている。
次の瞬間、ギィンという硬く、重い剣戟の音が耳朶を打った。動き出しの僅かな体の沈みこみを見逃していたら、そのまま斬られていてもおかしくないほどの速さで、彼が小剣を振るって突貫してきたのだ。想定以上の速度であり、わずかばかりの動揺を心中に認める。
寸でのところで抜き放った片手剣で受けてギリギリと鍔迫り合うが、それは一瞬のことで、彼はすぐに剣を引き、連続して斬撃を放ってくる。上下左右に散りばめられたそれを、可能な限り最小限の動きで受け止める。彼としても一撃で仕留めるというよりも手数で削ろうという算段であるのか、一撃の威力は初撃ほど重いものではない。
「ぐっ」
しかし、やはり想定以上の速度で振るわれる細かな斬撃は、急所の守りを確実にするために優先順位を下げざるを得ない、手や足の各所に小さな傷を増やしていく。
このままではいけない。剣での間合いよりもさらに内側、あたかも拳で打ち合うかのような至近距離で相手の視覚を翻弄するように高速で動き回りながら切り刻む彼の間合い、いずれ防御を崩されてしまうであろうこの間合いで戦い続けることは危険だ。
だが、ここで距離を取ろうと退いたところで、すぐに追撃してくる彼にまとわりつかれることは目に見えている。そんな光景は幾度となく見てきた。だからこそ、前に出る必要がある。
最低限、弾くためだけに当てていた剣を、こちらからも押しこむように力を込める。そうしてできた彼の一瞬の硬直に、だがしかし、剣を振り上げる余裕はない。だからこそ、
「ああっ!」
足を踏ん張って体当たりを敢行する。まずは剣を振るえるだけの間合いを確保できなければ話にならない。初撃で奪われた優位を、取り戻す必要がある。
息を飲むような小さな呻きとともに、彼がわずかに後ずさる。そうして出来た空間を、すかさず剣で振り払う。彼の小剣はこちらに届かず、私の剣先は彼を捉えているこの距離こそが、私にとってもっとも有利な間合いだろう。
彼の体勢は私の体当たりで崩されている。
(斬った!)
致命傷にはならないだろう。だが、少しずつでも削っていくことが肝要なのだ。怪我を負わせることができれば、あの恐るべき身体能力を抑えることができるはずだ。
足を傷つけることが最上ではあるだろうが、出血させるだけでも十分ではある。一息で殺しきれる相手でないことは始めから承知の上だ。
剣先が彼の体を切り裂くと思われた瞬間、彼は体勢を崩しながらも体を捻り、剣が通過するのに合わせて回転した。防具ごと肉を斬る感触を予期していた腕には、わずかに布を裂いた感触だけが伝わってくる。
それでも、瞬時に追撃を意識できたことは上々の反応だったと言えるだろう。私は横に流れた剣を、腕の筋肉を軋ませながらも振り上げて、体勢を崩しかけていたところを無理に回転動作をした代償に地面に倒れた彼に向かって、振り下ろそうと迫った。
だが次の瞬間、地面に倒れた勢いのままに体を丸めて後退しようとする彼の姿が、月の光を受けて煌いた。
とっさに剣で頭と首を隠すように防御する。彼の放った小刀は剣に命中し、甲高い音を立てて彼方へと弾き飛ばされていった。反撃を無傷で凌げはしたものの、追撃の勢いは完全に殺されてしまった。
視界の先で、彼が悠然と立ち上がる。月明かりを受けて、灰色の髪が銀色に輝いている。
彼の姿はいくらか土で汚れはしたものの、ほとんど無傷の状態だ。対する私は、問題のない範囲とはいえ、いくらか傷を負ってしまった。
「これほどとは思っていませんでした」
正直な気持ちを吐露する。
彼の戦闘能力についてはわかっていたつもりだった。これまで幾度もパーティを組んで、ギルドの依頼をこなしてきた。そうしてずっと観察してきたのだ。
「……」
彼は何も口にはしない。代わりというわけでもないだろうが、彼の全身が、赤色の、煙とも光ともとれない、細かな粒子のごとき輝きを纏いだす。
赤の加護色。七柱の神の一柱であり、獣人の加護神であるドゥベを象徴する輝き。
ああして大仰に加護を発露させるのは、たいていがスキルの発動に際してのことだ。
基礎的な身体能力向上スキルを除いて私が知っている彼のスキルは二つ。ひとつは水を扱うスキル。これはさほど警戒する必要を認めない。人間が魔法として体系化しているものに比べれば大して威力のないものだ。もともと攻撃性能などに期待したものではなく、簡易に水を確保するために体得したものだろう。拠点を離れて活動する者に習得者が多いものだ。
そしてもうひとつ。
「幻影」
彼がその名を口にすると同時に、彼の体が宙に溶けていく。完全に消えてしまうわけではないが、まるで彼方に揺らめく陽炎のように曖昧なものとなる。
このスキルも、本来はそれほど恐れる必要はないものだろう。姿を隠すスキルとしては最上位のものだが、一対一で向き合っている状態ならば、見つけづらい、ということはない。はじめから存在を認識できていれば、視界の違和感にその存在があるということだ。
それに、当然のことではあるが、音を消したりはできないのだ。足音はもちろん、衣擦れの音や、物体が通過する際の空気の揺らぎも、消し去ることはできない。
だが、彼が扱えばどうなるか。
私は周囲に目を配り、比較的、背の高い草が生い茂る場所に移動した。背の高いといっても、せいぜい腰に届くくらいのものだ。四足獣であれば、飛び出してくるまで存在に気づけないということもあり得ない話ではないが、彼は獣人であって獣ではないので、姿を隠される心配はない。
刹那、しっかりと捉えていたはずの揺らぎが視界から消え去る。
初撃からのやりとりが脳裏を過ぎる。一瞬一瞬の剣線を捉え続けなければならないあの戦闘を、幻影状態の彼を相手に行うなど無理がある。あの時は捉えられていた彼の姿が、攻撃を防ぐために必要なそのほんの一瞬が捉えられなければ、それが致命傷となる可能性がある。
彼に付与された加護は、私にとって十分に致命足り得る。それはすでにわかっていることだ。
風にそよぐのとは明らかに違った揺らぎを見せる草の海に、視界の違和感を見る。私はそちらに向かって大きく剣を薙いだ。
こんなもので彼を仕留められるはずもないが、少しでも足を止めさせ、距離を保持する必要がある。
私自身も移動しながら、草の動き、視界の違和感と合わせて、聴覚を頼りにして彼の位置を見失わないように、そして適切な間合いよりも離れるくらいに意識して立ち回る。
それでも度々、彼の斬撃に見舞われる。
防戦一方ではあるが、それで構わない。幻影は、長時間、展開し続けられる類いのスキルではないからだ。幻影状態の彼を仕留めることは難しい。彼自身がそういう認識で無茶をしてくるのならばそこが付け目ともなるだろうが、それがあり得ないことはわかっている。だからこそ、どんなに苦しくても、耐え続けることが活路になる。
「ぐっ!」
また一筋、腕に剣傷が走り、鮮血が飛び散る。この地方一帯で標準的な軽戦士の出で立ちをしていたものが、ずいぶんとぼろぼろになってしまった。肌が露出して、いたるところから出血してしまっている。
彼が強いことはわかっていた。本当ならば、もう少し準備期間を設けたほうがよかったのかもしれない。だが、人間でいうところの勇者のように集中的に加護を付与されている彼の成長速度は並外れている。
敏捷性や反射速度など、種族的に恵まれたものも含めて、彼は逸材といっていい。
たとえ効率よく物事を運べたとしても、今を逃せば、殺すことは容易ではなくなる。いや、正確には、私の手で殺すことは、だ。
かんたんに思いつくものとしては、人間をけしかけるのがもっとも容易い。何人、何十人と死者がでるだろうが、個人の強さでは限界がある。いずれ追い詰めることは間違いなく可能だ。
だが、私はこの手で彼を殺したいのだ。
彼自体に、特別な執着があるわけではない。彼とはこの何ヶ月か、ともにギルドという場所で依頼を受けたり、適当に狩場に赴いたり、かなりの時間をいっしょに過ごしてきたが、そこに特別な感慨はない。
だから理由は、これが最初の一歩だからということに過ぎない。
「しまっ」
動き回るにつれ、踏みしめられた草が周囲に増えていたことを失念していた。いや、そちらに意識を割くだけの余裕がなかった。
蹂躙された草は、彼らにとって血といって差し支えないだろう液体を滲ませながらそこかしこに横たわっていたのだ。故にこれは、呪いにちかいものなのかもしれない。液体に足を滑らせて体勢を崩してしまった私を、彼は見逃してくれない。隙を逃さない、という意味だ。
片膝をつくような体勢で地面に這いつくばった私の首目掛けて、彼の持った小剣が振り下ろされる。
ぎりぎりのタイミングで剣を掲げるようにして防御を試みるが、彼の剣の勢いを止めることはできない。
ギインという甲高い音を立てて、剣は弾き落とされてしまった。だが防御のために剣を掲げたことで上体が起こされていたことと、わずかに剣筋を逸らすことができていたおかげで、首は落とされずに済んだ。
「ううっ」
しかし無傷というわけにもいかず、肩口から胸元にかけてのあたりを切り裂かれてしまった。勢いに押され、尻餅をつくような格好でへたりこんでしまう。
痛みに呻く間もなく視線を上げれば、再度、剣を振り上げているおぼろげな彼の姿が瞳に映る。その向こうには煌々と輝く満月が見えた。
恥も外聞もなく、みっともなく地面を横に転がる。間一髪で斬撃を逃れ、しゃにむに掴んだ土を陽炎のように歪んで見える彼に向かって投げつける。たとえ見えなくても、彼はいなくなったわけではない。
空間の歪みが一瞬、後ずさったのを見て、身を起こすと同時に腰に差した鞘から剣を抜き放ち、振り払った。
剣線は後退する彼を捉えることができなかったようで、剣を握った手にはなんの手ごたえも感じられず、斬撃はそのまま横に流れてしまった。途端、鋭い痛みが肩口に走り、勢いに流されるままにたたらを踏む。
そのまま倒れそうになるのをなんとか踏みとどまり、慌てて剣を構えると、ゆらゆらとした彼の姿は飛びのいたときのまま、その場で動かずにいた。
「はあ……はあ……」
呼吸が苦しい。喉が張りつくみたいに渇いていて、せめて唾液を飲みこみたいのに、そのわずかな間すら惜しんでしまうほど酸素がほしい。焼けたように熱い肩口の傷は、鋭い痛みを脳へ向かって訴え続けている。主に腕を中心とした全身の傷だって、塞がってくれたわけじゃない。意識を向ければそこにも痛みがあることがわかり、地面に倒れこんでしまいたくなる。
やや離れたところにいる彼の姿が、じょじょにおぼろげなものではなく、はっきりとした輪郭を伴っていく。だらりと下げた剣の先からは赤い血が滴っていた。考えるまでもなく、いまも胸に垂れ落ち続け、衣服を汚しているこの血と同じものだろう。
泰然と佇む彼の、返り血やわずかに土が付着した以外に汚れたところのない姿を見て、彼の幻影を乗り切ったのだと知った。
幻影の効果時間は長いものではない。わかっていたはずなのに、いったいこの苦しみがいつまで続くのかと何度も思った。だが、それもようやく終わったのだ。
「どうして……」
ふいに彼がつぶやいた。それはややもすれば風にかき消されて、私の耳にまで届くことはなかったかもしれないほど儚いもの。
形勢は極めて不利だ。ほとんど無傷に近い彼に対し、私はこのままでは失血死してしまいかねない。いや、そうならないとしても、これ以上血液が失われてしまえばろくに動けなくなってしまい、容易く彼の剣に捕まってしまうことだろう。だから……
「ああああ!」
地を蹴って彼に向かう。ギリギリと柄が軋むほど強く握った剣を振りかぶって、彼に向かって振り下ろす。
小剣で斜めに受けられて、彼が片足を引いて半身になることで空けられた空間に、斬撃が流された。痛む体ではとっさに体勢を立て直すことができず、そのまま地面に剣を振り下ろしてしまう。直後に体の側面に衝撃が走り、視界が回る。
地面に突っ伏した状態で顔を上げ、彼との距離が開いていることを確認し、どうやら蹴り飛ばされでもしたのだと理解する。
幸いにも手放していなかった剣を支えに立ち上がる。足に力が入らず、がくがくと膝が笑った。
「そんなに僕を殺したいのか」
その声はすぐ近くから聞こえた。いつのまにか目の前に彼がいて、私を見下ろしていた。
支えにしていた剣が弾き飛ばされ、体勢を崩したところに彼の足がめり込んだ。わずかに宙に浮いた後、地面を転がる。
「ぐ……うう……」
地面を掴むみたいに腕に力を込めて、腕立て伏せでもするみたいに体を起こそうとする。四つんばいのような状態になったところで、また蹴り飛ばされた。
「う……げほっ……」
目の前の地面に血が付着していた。だがいまは、そんなことを気にしている場合ではない。一刻も早く立ち上がり、剣を抜いて構えなければならない。すでに二本の剣を手元から失い、残っているのは小剣が一本だけ。たとえ剣が尽きようとも戦う意志はあるが、勝率の低下は避けるべきだろう。勝率の低下は……。
どこをどうされたのかもわからなかったが、衝撃が体を襲った。わずかな浮遊感と全身の痛みに身を硬くして、ぎゅっと目をつぶる。
ややあって、長く息を吐くように体を弛緩させて目を開くと、視線の先には満月があり、自分が仰向けに横たわっているのだと気づいた。
地面を踏む音がして、頭ごと視線を向けてみれば、彼がこちらに歩み寄ってくるところだった。弛緩していた全身の筋肉に力を込めて、私は立ち上がろうと思った。直後、喉に違和感が走り、咳をすると、液体の絡んだ濁った音が聞こえ、口の中に生臭いような嫌な臭いが広がった。
起き上がることもできないまま、彼が傍らに立つことを許してしまった。彼は静かに私を見下ろしている。険しいはずのその表情は、月明かりを背にして陰になっているせいか、無表情にも、悲痛に歪んでいるようにも見えた。
「獣みたいな目だ……」
彼が言った。
意味などわからない。
腕を曲げて、掌底を地面に突っ張るようにして上体を起こそうとする。
「おごっ!」
腹部に足を落とされた。うまく呼吸ができなくて苦しい。
「ミード……」
彼に伝えた私の名前。それを口にした彼の表情は視界が歪んでよく見えない。幻影とはちがう。彼の姿のみならず、視界すべてが滲んでいてよく見えない。
苦しい。痛い。痛くて、苦しい。
生暖かいぬかるみに沈みこんでいくみたいに、あるいは薄ら寒い汚泥に絡めとられていくみたいに、体が溶解していく感覚。
私が意識を手放そうとしていることで、体中のあらゆる存在が、結合していることを放棄して分解していってしまうかのようでもある。
これが死の片鱗なのかとぼんやりと思う。私が彼の同胞たちに与え、これから先、もっと、もっと多くの者たちに与えようとしている苦しみ。
理解はしていた。実感も、どこまで正確なものかは疑問も残るが、得ることができた。それでも私の意志は揺らがない。
彼の姿が視界にはっきりと戻ってくる。
月明かりを背にして逆手に持った剣を振り上げている。切っ先が向けられているのは、どうやら私の首のようだ。
「ミード……。みんなの仇だ……」
そう呟いたとき、彼の手の震えは治まった。腕に力が込められ、剣先が私の首目掛けて向かってくる。
私は剣先を手のひらで受けた。勢いを止めきることは到底できず、私の顔のすぐ横に剣が突き刺さる。いくらか髪の毛が巻き込まれて、ぶつぶつと切断されたような感触がした。
手のひらも地面に縫いとめられ、動かすことはできそうにない。
「なっ!」
驚愕に目を見開いている彼に向かって、もう片方の手で最後の一本である小剣を抜き放ち、精一杯の力で突き出す。
彼はとっさに飛び退ろうとしたようだったが、剣を握った手には肉を貫く感触があった。
よたよたと2、3歩後ずさった彼の胸のあたりに、私の小剣が突き刺さっていた。
私は体を起こし、手のひらを縫いとめられていた剣を抜いた。全身に力が入らないのは相変わらずで、地面に深々と突き刺さった剣を抜くのは大変な作業だった。
私の血を大量に吸ったであろう小剣を手に、膝をついてはいるが、彼に向き合う。
視線の先で、彼もまた膝をつき、胸を押さえていた。剣はすでに抜き去ったらしく、近くに転がっている。
彼は、胸から下を自身の血で汚していた。とっさのことで狙いを定めることなどできず、ただがむしゃらに剣を突き出しただけだったのだが、思いのほか、傷つけられてはまずい箇所に命中したのかもしれなかった。
「はあ……はあ……。僕は……ぐ……こんな……」
彼は荒く息を吐きながらも立ち上がろうとするが、膝が折れ、地面に手をついてしまう。
私はよろよろと立ち上がり、彼に向かって歩き出す。彼を殺すために。
「私が君を殺すのは、君を殺したいからではありません。その先に、私の目指すものがあるからです」
彼の足元には血溜まりができていた。この短い時間で、表面的にははるかに多くの傷を負った私をも上回りかねない出血量だった。
「ぼ、ぼくは……ひと、り……に……しな……い……」
見上げてくる彼の瞳は茫洋としていて、すでに焦点が合っていないように見える。このまま、手を出す必要すらないのかもしれない。
「ひとりに、とは、ドゥベのことでしょうか? でしたら心配はありません。最後の眷属であるあなたが死ねば、彼もあなたの後を追うことになるでしょう」
彼はすでに私の言葉など聞いていないかもしれない。項垂れた彼の体は脱力しているようで、命が風前の灯であることは明白だ。
長く苦しませることは本意ではない。一歩踏み出した。
「ら、いか……すろ……」
彼が何事かを呟いた瞬間、彼の体がびくりと震えた。そしてまるで内側からなにかが彼の体を突き破ろうとでもしているかのように、表面のあちこちが断続的に隆起する。
一見、華奢にも見えるものの、実態は筋肉でよく引き締められた彼の肉体が、みるみるうちに膨張していく。とくに上半身の膨らみは大きく、彼が身につけていた衣服や防具は破れ、弾け飛んでいた。そうして現れた素肌は、人間ではあり得ない、灰色の体毛に覆われていた。
私は己の判断の遅さを呪った。変態が始まった時点ですぐに止めをさすべく攻撃を仕掛けるべきだった。
さきほどまでは彼のものだった小剣を、首を落とさんと振り下ろす。
だが、刃は彼の首どころか、肉体のどこも捉えることはできなかった。剣を握った私の両手は彼の片手に掴まれ、押すことも、引くこともできなくなってしまった。
己の肉体を変化させるスキル。彼が使い手だとは知らなかった。奥の手、というものだろうか。
彼はもともと私よりも背が高かったが、いま並んで立つとすれば、ほとんど真上を見るように見上げなければ話ができないかもしれない。彼の身を包んでいた衣服は、いまではぼろ布が纏わりついていると表現するのが適切なありさまだ。
「ぐっ……」
手首を掴んだ彼の手が、きつく握り締めてくる。私の意思に反して手のひらが開いてしまい、握っていた小剣が地面に転がった。
ゆっくりと腕を持ち上げられ、地面から足が離れる。そうして相対した彼の顔は、巨大な狼のものとなっていた。目の前で変態の過程を見ていたからこそ、面影を見つけることもできるが、彼がスキル所持者だと知らなければ、目の前の巨大な狼人間をふだんの彼と結びつけることは、たとえ彼が狼の獣人と知っていたとしても容易ではないだろう。
直後、私の体は宙を舞っていた。視界の遷移でおぼろげに判断したものであり、明確な認識があったわけではない。
そしてまた衝撃に見舞われる。ついさきほどの、体がばらばらになってしまったのではないかというほどの衝撃ではないものの、もし加護がなければ死んでしまっていたかもしれない。身構えも、心構えすらできずに叩きつけられたとき、自分が落下した側であるのに地面に殴られたように思われた。
「あ……ぅ……」
体のどこにも力が入らず、指先さえ動かすことができない。いや、動いてはいるのだが、それは自分の意思とはちがう、ただの痙攣でしかない。
ふいに、いつか見た光景がよみがえる。
みんな楽しそうに笑って、笑顔を交し合っている。私はその輪の中にはおらず、だれひとりとして、視線すら向けてはくれない。
みんなは私を無視しているわけではない。存在を知らないのだ。私の姿は見えず、私の声は聞こえず、私という存在はみんなに触れることができない。みんなにとって、私はここにいない存在。
悲しくて。
寂しくて。
どんなに泣いても、叫んでも、だれも私を見てはくれない。
どうしたらいいのかもわからずに、ただ泣き暮らす日々。いつしか目を背けて、みんなのほうを無いもののように思い込もうとさえした。
だけど、それじゃあ駄目なんだって、囁く声がした。
羨ましくて。
妬ましい……。
私はここにいる。だれの目に映らなくとも、だれにも声が届かなくとも。
私はここにいる! それを証明する!
ここで消え去るわけにはいかない。
私は独りきりのまま消え去ったりはしない。たとえどれだけの屍を積み上げようとも、どれだけの憎悪を向けられたとしても、私は私という存在を刻み付けて見せると誓った。
浅ましくも生きるのならば、諦めるという選択肢はこの胸に存在しない。
偶然、頭が向いていた先に彼がいた。少しずつこちらに歩み寄ってくるのがわかる。視界がはっきりしないのは、顔にかかった髪のせいかもしれない。髪を除けて確認したいと思うのに、腕が上がらず、頭を振ることもできない。
「ぐ、うう……」
いつもより低い唸り声を上げて、彼が歩みを止める。膨れ上がった太い腕で、自身の胸を押さえ、その場に膝をついた。
たくましく隆起した胸からは、いまはもうほとんど出血していないように見えたが、完全に治癒したわけでもないらしい。
早く立ち上がらなければいけない。彼がまだ生きていて、私もまた、まだ生きているのだから。
だというのに、私の意思に反して、体は言うことを聞いてくれない。いや、これまで動いていた時点で、十分以上に働いてくれていたというべきだろうか。もしこれが、ただの人間の肉体であったのならば、加護があったとしても死は免れないものだったかもしれない。
それでも、いま動かなければ、死を待つのみなのだ。彼はゆっくりとではあるが、こちらに向かって歩き出している。自分で殴り飛ばしておきながら難儀なことだが、おそらくは衝動を抑えられなかったのだろう。変態スキルの持ち主にはままあることだが、彼が己を御しきれないというのは想像しにくい。推測でしかないが、瀕死の状態だったことと、私に対しての激情が破壊衝動を増大させたのだろう。
そうして生まれた、私にとっては僥倖と言っていいこのわずかな時間。なんとしても立ち上がらなければならない。彼の傷はおそらく致命傷だ。だから、立ち上がり、逃げるだけでも勝機がある。
立ち上がるため、体の各所に力を込める。込めれば込めただけ痛みが返ってきて、自然と顔が歪み、食いしばった歯のあいだからうめき声がもれてしまう。
足音が少しずつ近づいてくる。もはや視線を向ける余裕すらない。立ち上がるという考えを捨て、ずりずりと無様に這いずって移動する。
「はぁ、はぁ……ぐ、げぼっ!」
目の前の地面に血をぶちまける。がむしゃらに四肢も腰もうごめかせて、どれだけ這いずったのだろう。彼から見れば、のんきに草の上を這いずり回る芋虫のようにでも見えるだろうか。だがなりふりなど構っていられない。私はなんとしても勝ちを拾わなければならないのだから。
それでも限界は訪れる。戦い始めた当初の動きとは比べるべくもないこの這いずる動作ですら、いまの私の体には大変なものになっているらしい。次第にうごめかせることすら困難になり、動きが止まる。
まるで温かな布団でまどろんでいるときのように意識が判然としなくなってくるのを、歯を食いしばって耐える。
気づくと、足音が聞こえなくなっていた。自分の体が地面を這いずる音と呼吸音でほとんど聞こえていなかったために、いつ足音が止まっていたのかわからなかった。
体を転がすようにして仰向けになり、わずかな首の動きと視線で這いずってきたほうの様子をうかがう。
そこには、こちらに頭頂部を向けて倒れている彼の姿があった。彼の体からは、赤い光が漏れ出し纏わりついている。
しばらく身を休めた後、なんとか体を起こし、引きずるようにして彼の許へと近づいた。道程には私が這いずって移動した跡が残されている。彼の倒れた場所には彼のものと思われる血が広がっていたが、そうして見えなくなっている部分の先にも、私の這いずった跡は残されていた。
彼の体にまとわりついていた赤い光の粒子が、吸い寄せられるように私の体に染みこんでくる。
顔を確認する。瞳が開かれたままだった。私はそれを閉じようとして、その目の端にわずかに汚れの洗い流された跡を認めた。
私が殺した。
…………。
不恰好で、運に助けられたひどい有様だった。独力で倒したいなどと意地を張った結果がこれだ。
私は思案する。一時の感情を優先して意地を通すことと、目的のために感情を抑えること、そのどちらを優先するべきかを、今一度自分自身に問いかける。
見上げた月明かりさえ眩しかった。
私は彼の首を切断した。