第二話 隣の部屋の会話
アパートの階段を下りて、道路に出ようとした時、
「あの、ご主人様……」
イヨが僕に声をかけてきた。
イヨの方を見ると、イヨは自分の首輪から伸びる鎖の先を持って、僕の方に向けていた。
「え? 何?」
意味が分からず僕は聞く。
「すいません、よろしければ、この鎖の先の持ち手を持っていただくか、それとも金具でベルトなどにつけていただけないでしょうか」
「?」
俺は何となくその鎖の先の持ち手を受け取った。
これは……。
何だか背徳的な雰囲気を感じた。
「ありがとうございます! では行きましょうか」
嬉しそうにそう言うイヨ。
「ええと……この状態で、歩くって事、か」
犬の散歩のように、イヨを鎖でつないで歩く……。
やばい、ドキドキしてきた。
「あの、お嫌でしょうか……」
心配そうな顔をするイヨ。
「嫌と言うか、その、そう、イヨちゃんはどうなの? 鎖でつながれるの、嫌じゃないの?」
「わたしは、ご主人様にわたしの鎖を持っていただけたら、嬉しいのですけど……」
そうなのか。
そう言えば、まあ、奴隷を鎖でつないで歩く人は、良く見るよな。
俺が育った家に奴隷がいなかったからなじみがないだけで、世間ではごく普通の行為なのかもしないが。
だけどいきなりそんなプレイ(いや別にプレイじゃないが)をしろと言われても。
ちょっとドキドキして手が震えちゃうんですけど。
「手で持つのがお嫌なら、服につないでいただくとかでも、良いですけど。わたしはこの土地に来たのは初めてですから、このあたりの人はわたしを見慣れていません。そんな奴隷が繋がれないで歩いていたら、怪訝に思われるかもしれませんし……」
そうか、そういう問題があるのか……。
「手で持つのが嫌ってわけじゃないけど、その、服につなぐってのはどうやるの?」
「ああ、それはこうです。貸してください。」
イヨは鎖の先の、プラスチック製の持ち手から、内蔵されてた金具を引き出した。
「よろしいですか? 失礼します。」
そうして、金具を俺のズボンのベルトに固定した。
なるほど。
手で持つより、背徳感と言うか、ドキドキと言うかが少なくて心臓にやさしい気がした。
手も空くし。
「これで行こう」
「はい、ありがとうございます!」
イヨのまぶしい笑顔。
こっちまで嬉しくなってくる。
「ところで、ご主人様は、アパートのお隣さんなどに挨拶はされましたか?」
一緒に歩いていると、イヨが不意にそう言った。
「してない。した方がいいかな?」
「そうですね、ちょっとした贈り物を持って挨拶に行くと、喜ばれると思いますよ」
「贈り物。何がいいだろう?」
隣に挨拶するとか、全然考えたことがなかった。
「菓子折りとかどうでしょうか。あまり高いものでなくて、小さめのもので十分だと思いますけど。」
「菓子折り?」
菓子折りって、どういうものだっけ。
「スーパーなどに売っていると思いますよ。ちょっと高級な感じの、贈り物用の……」
ああ、ああいうやつか。
「分かった。両隣だけでいいかな?」
「アパートは全部で8部屋ですよね? このぐらいの大きさのアパートだと、人によっては全住民に挨拶する人も居ると聞きましたよ」
「それはちょっとした出費だな……」
「そうですね、やはり両隣だけでいいかも知れません」
「だな」
そんな事を話しながら二人、スーパーへの道を歩いていた。
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伊藤ヤマトがすんでいる部屋は202号室。
その隣、201号室では、ヤマトと同じくこの春から大学生になる女子が、つまらなさそうな表情で窓の外を見ていた。
「あーあ」
その女子、太田川ハルカは、ため息をついた。
ウェーブのかかった長い茶髪の先を指でもてあそんでいる。
「なにをご覧になっておられるのですか、ハルカ様」
ハルカの奴隷が聞いた。
「別にー。ただ隣の住人が、出かけたなって思って」
「そうですか」
「男だったわ」
「そうですか」
部屋の中では、ラジオが流行の曲を流している。
「女の子の奴隷連れてた」
「そうですか」
ハルカの奴隷は従順に相槌を打つ。
「……」
言う事がなくなったのか、黙り込むハルカ。
「……何を思われますか」
「あの男と、女奴隷だけどさ」
「はい」
「やっちゃってると思う?」
ハルカは自分の奴隷の方に向き直り、真面目な顔で聞いた。
「セックスですか? まず、間違いないでしょう」
奴隷は請け合った。
「だよねー!」
ハルカはテンションが上がった様子でそう言った。
「ですよね」
「いいよねー!」
「いいですね」
奴隷は少し笑いながらそう言う。
「なのにさー、何でかな!?」
ハルカは少し苛立ったようにそう言う。
「何がでしょうか」
「何でさー、あたしの奴隷は、女なのかな!」
「そのようなことを言われましても……」
ハルカの奴隷、ナミは困ったような顔で笑った。
ナミは髪を黄色く染めている奴隷少女。
髪型はショートで、体はやや小柄で子供っぽい体系。
女子にしては背が高い方のハルカとは少し対照的だ。
「大学に合格したらイケメン奴隷買ってもらえると期待してたのに、何なのかしらうちの親は」
「もし買ってもらえたのがわたしのような女子でなく、格好いい男性の奴隷でしたら……」
「なによ」
「されるのですか」
ナミは興味深そうに言った。
「セックス? それは分からないけど。でもそこまでしなくても、イケメン奴隷がいればもっと、トキメキがあるでしょー!」
「同意いたします」
「あんたもさー、あれでしょ。男のご主人様が良かったでしょ」
ハルカはぐいっと顔を近づけてそう言った。
「それは」
「正直に言いなさい」
「男のご主人様が良かったです」
「正直でよろしい。あなた、エロ奴隷ね」
「その言い方は」
「なにかしら、エロ奴隷」
「あの」
「言いたいことがあるなら言いなさい、エロ奴隷」
「……ございません。ナミはエロ奴隷でございます」
ナミはあきらめたようにそう言った。
「よろしい」
ふんぞり返るハルカ。
しばらくして、二人は同時に吹き出した。
少しの間意味の分からない笑いが止まらない様子だった。
「あーおかし。それはそうと、エロ奴隷」
「いつまでわたしはそう呼ばれるのですか」
「あたしが飽きるまでよ、エロ奴隷」
「あきらめました」
「分かりましたの言い間違いかしら? まあいいわ。で、あたしは彼氏を探したいわけなんだけど」
「この春から大学生なのですよね、まずは勉学の事を考えられた方が」
「黙れ」
「黙ります」
和気あいあいとした会話である。
「仮によ? 仮に、あの隣の男に標的を向けてみたいわけよ」
「良い考えですね」
「ん? そう?」
「お隣というのは親しみがわくかもしれませんし、恋人が近くに居ることになれば便利でしょう。」
「そうね。で、どんな作戦があるかしら?」
「いきなりですね」
「考えなさい」
「そうですね。でも、情報が少なすぎます」
「じゃあ情報を入手するにはどうする?」
「まずはお隣の挨拶をしにいくとか……」
「それでどんな情報が入るのよ」
「では、料理を作りすぎるというのはどうでしょう?」
「何それ?」
「つまり、夕食時にですね」
「何」
「隣に行くわけですよ。で……」
「あ」
「お分かりになりましたか」
「『あの、ちょっと夕食を作りすぎてしまいまして……おすそ分けいかがですか?』とか言うわけね」
「そう、それです」
「うーん」
「お気に召しませんか」
「いまいち。考慮には値するかもだけど」
「そうですか」
「なんかもっといいアイデアないの?」
「あ……」
「なになに。なんか思いついた?」
ハルカはずい、と身を乗り出す。
「わたしをレンタルするというのはいかがでしょう」
ナミは真面目な顔で、こちらも身を乗り出してそう言った。
「なにそれ」
「わたしをその人に貸します」
「んー?」
「わたしはその人を偵察します。ご主人様のためにその人を観察してまいります」
「んー……あいつはあんたを何のために借りるわけ?」
「まあ、それは、その」
「……」
「……」
しばらくラジオの音だけが部屋に流れた。
「あんた、それ、あんたがエッチしたいだけでしょう!」
大声でハルカはそう言った。
「け、決してそのようなことは」
嘘をつくのが下手な性格のナミは、目をそらしながらそう言った。
「やっぱあんたエロ奴隷だわ―」
「いえ、誤解で」
「エロエロだわー」
「あの、たとえそうだとしてもですね」
「何よ。って言うか認めたのね。」
「その、隣の人についてですね、いろいろな事は、分かるのではないかと思うのです」
ハルカは口を閉じた。
「でもダメじゃん」
しばらくして、ハルカが言った。
「ダメでしょうか」
「ダメ。あの男には、もう女奴隷がいるもの」
「何人いるのですか」
「え? そりゃ一人でしょうけど」
「では、ダメではないです」
「……」
「……」
ラジオが一曲流し終わって、しばし無音の時が流れた。
「3Pか! 3人プレイか! いやもうダメ、あたし付いていけないわー、発想がー」
「ええと」
「ごめんね、エロ奴隷とか言って。あたし見くびってた。エロ魔人って呼んであげる、これからは」
「そんな」
「それでね、エロ魔人。あたしね、あんたの事、少しは大事に思ってるの」
「うれしいお言葉です、後半は」
「そんなあんたをね、ただで赤の他人に貸したくはないの」
「なるほど、確かに、不自然かも知れませんね」
「最終的にレンタルするのは良いのよ。でも、どうやってそこまで持っていくのかしら?」
「考えないといけませんね」
「考えて」
「わたしがですか、そうですね……」
「いいアイデアを期待してるわ」
「では、こういうのはどうでしょう」
「お、なになに?」
「ご主人様は、どうしても私をエロ奴隷という事にしたいようですし……」
「何よ」
「わたしが、セックス中毒と言う事にしてですね、女のご主人様に買われたわたしは、セックスができなくて悲しくて毎日泣いているとか、そういう事に……」
「はははは!」
ハルカは大声で笑いながら床の上に転がった。
「ごめんね、あたし、あんたがそんなに苦しんでるなんて、気が付かなかった!」
「いえ、いまのは、そういう事にする、と言う話で」
「夜な夜な体がうずいて泣いてたのね!」
「泣いてません」
「化身だ……エロの化身……」
「決してそのような」
ハルカはナミの方をポンポンと叩き、渋い顔でうつむいて首を左右に振った。
「もういいっ……もういいんだっ……自分を偽らないでも……」
「あの」
「爪の垢をせんじると媚薬になるレベルのエロの化身だよね」
「……もうなんとでも言ってください」
「じゃあ、何かの機会があったら、そう言う感じで?」
ハルカは真面目な顔でナミに確認した。
「そう言う感じで」
「あんたがセックスができなくて夜な夜な悲しんで泣いてるって暴露していいのね?」
「そういう事にしてもかまいません」
「微妙にお互いの主張に違いがあるようだけどまあいいわ」
「そうですね」
ため息をつくナミ。
「しかし最初のきっかけは欲しいわね」
「落し物でもしますか」
「なにそれ」
「いえ、ただ単に、その人の前を歩いているとき、ハンカチか何かを落とすだけですけど」
「……良く思いつくわね」
「古典的な手ですが」
「そうね」
ハルカは少し考える。
「最初はこっちから仕掛けたくない気はするのよねー。しばらく機会が来ないかどうか、待ってみようかしら」
「例えばどんな機会を待つのですか」
「お隣さんだから挨拶に来るかもしれないじゃない?」
「それはそうですね」
「その時、菓子折りでも持ってくる気の利く男なら、ちょっとはあたしも動いてもいいかなって気になるわ」
「なるほど」
そのころ、イヨと一緒にスーパーに来た伊藤ヤマトは、食材と一緒に両隣に配る菓子折りを買っていたところだった。