撫子 相聞
寝不足で、頭が重い。
ため息をつきながら、缶コーヒーを一口。
あああ。あくびが止まらない。
昨夜の“手紙”のおかげで、一限目の講義は、ひたすら睡魔との戦い。
持ち込んだコーヒーが唯一の武器だけど。
敵もさる者、引っかくもの。
大教室でスライドを使って……なんて凶悪過ぎ。
「あの、ヨッコちゃん。大丈夫?」
隣から聞こえた えっちゃんのヒソヒソ声に、意識がクリアになる。
今、一瞬。寝てたかも?
こんな時にこそ、『目の前に壁がないと眠れない』って癖を発揮するべきなのに。
全く役に立たないったら、ありゃしない。
「うん。眠いだけだから」
くーっと、前方向へと伸びをする。
前に座っている亜紀ちゃんの背中を突ついてしまって。振り返った彼女にジェスチャーだけで謝る。
気を取り直して、シャープペンシルを手にスクリーンを睨む。
でも、やっぱり。
眠い……。
二限目の選択科目をサボることにした私は、一人で学生食堂へむかう。
ガランとした通路を窓際へと進んで、八人掛けのテーブルをキープする。
一番、窓に近い椅子に座って、ガラス越しに春の日差しを浴びながら、テーブルに突っ伏して。
右側に並んだ二脚と向かいの三脚。この後で友人たちが座ることになる椅子へと、触覚で触れるように意識を伸ばす。
私たち六人の座る位置というのは、なんとなく決まっている。食堂と講義室で椅子の向きが違ってはいても、基本的な位置関係は変わらない。
サークルの飲み会では、変則的になることもあるけど。
三つ並びの席の、真ん中は必ず えっちゃんと広尾くん。
えっちゃんの隣に小島くんが座って。小島くんの前が木下くん。
私と亜紀ちゃんは、空いている席のどちらか。
おさらいのように、友人たちの座る姿を思い浮かべながら、意識の触角で一つずつ椅子を押さえていく。
広尾くんがえっちゃんの前に座るのは、『ちょっとでも近くに』って意識でしているのかと思っていたけど。どうなんだろう。
あんな手紙を寄こしておいて、昨日も今日もいつも通りの席に座っていたしなぁ。
私の考えすぎかな?
うん。考えすぎ、考えすぎ。
でも、ちょっと、嫌ではあるんだよね。えっちゃんと差し向かいでご飯を食べている広尾くん。
今まで言い出せなかったけど。
付き合うなら、席替えをして欲しいなぁ。
でも、なんて言って?
『広尾くんと付き合っているから』なんて理由は、とてもじゃないけど、皆に言えない。
どんな顔して、言ったらいいのやら。
考えただけで、恥ずかしすぎる。
いや、そもそも。付き合うってことは……。
えっちゃんと野島くんみたいに、当然の顔で寄り添っちゃったり?
缶ジュースの回し飲みをしちゃったり?
うわぁ。
広尾くんと? 私が?
夢と現の境目を漂いながら、シャボン玉のような脈絡のない思考が、フワフワ浮かんでは弾ける。
弾けたシャボン玉に流されるように、意識が夢への階段を下りていく。
夢の世界に片足を入れかけたところで、感じた気配に呼び戻されて。
意識が一息に、現実へと上ってくる。
「あ、ゴメン。起こした」
ゆるりと頭を起こすと、斜向かいの椅子を引いた広尾くんが、『しまった』って顔で謝ってきた。
額に寝跡が付いていそうで、軽く前髪を整える。
その間に腰をおろした広尾くんは、コンビニのビニール袋から缶コーヒーを二本取り出して、片方を私の前に置いた。
「一限、爆睡してたって?」
笑いをこらえるような顔で尋ねる彼に、恨みを込めた視線を送る。
全く、誰のせいだと……。
諸悪の根源は、平然とプルタブを開けながら
「ヨッコちゃんほどきれいじゃないけど。さっきのノート、コピーいる?」
なんて、言っている。
今日のノートは見事にミミズがのたくっていて、読めたものじゃなかったのは、自分でも確認した。講義のあとで、荷物をまとめるときに。
「ノートがないと、難しそうな話だった?」
「難しくは、なかったけど。ちょっと、教科書からそれた話も出てきた」
「そっかぁ」
「あれは多分、テストに出そうな気がする。妙に力を入れて説明してた感じだし」
広尾くんのヤマが結構あたるのは、後期の古文でお世話になってよく知っている。
「じゃぁ、よろしくー」
「OK。じゃぁ、ちょっとコピってくる」
財布とルーズリーフをカバンから取り出した彼が、コピー機のある図書館へと立ち去るのを見送るでもなく。
もう一度、テーブルに伏せる。
指先に触れる感触で、目が覚める。
顔だけを起こすと、いつもの席に座った広尾くんがコーヒー片手に、ちょいちょいって感じで私の右手をつついている。
「広尾くん。前の席に来ない?」
あ、寝ぼけ半分で。つい。
本音というか、欲が出てしまった。
「前って、ここ?」
言ってしまったモノは、仕方ない。向かいの椅子の背もたれに手を掛けた彼に頷くと、身体を滑り込ませるように移動してきた。
そんな広尾くんの動きにあわせて、私も身を起こす。伸びをする。ついでにと、腕時計を確認して、二限の大半が終わっていることを知った。
これだけ寝たら、さすがにすっきりした。
「ほい、コピー」
差し出された数枚のコピーを受け取る。
丸みを帯びた横長の文字に、一筆箋のアヤメを思い出す。
この文字で、手紙を貰ったんだ。
目の前に座る本人の姿とチラチラ見比べては、ニヤニヤしてしまう。
一人、ノートのコピー片手に浮かれていると、
「あの、さ」
ためらうような声に呼ばれた。
あ、不気味だよね? まずい、まずい。
空咳でにやけ顔をごまかしながら、コピーを畳む。
なんとか取り繕った顔を上げると、広尾くんは赤い顔で、飲み終えたらしきコーヒー缶を弄んでいた。
「昨日の……アレ」
「あ、うん」
今の今まで思い浮かべていた、“手紙”のことだよね?
「どう、かな?」
「あー、うん」
いいよ、のつもりの返事は。
「ええっと……それは、つまり。その……」
伝わらなかったらしく、困った顔をされた。
断るなら、『ごめんなさい』だろうけど。
OKって、どう言うの?
『喜んで』は、どこかの居酒屋みたい。
『よろしくお願いします』だったら、何かのレッスンだし。
『彼女になります』って、誰に宣言してるのって感じ。
『謹んでお受けします』横綱昇格じゃないってば。
両想いになれた嬉しさで、舞い上がってしまって。どう返事をするかなんて、考えてなかった。
どうせ眠れなかったのだから、昨日の夜にじっくりと思案すればよかった。
そんな反省をしつつ盗み見た広尾くんは、垂れ目に引きずられたように、眉毛までが下がっていて。
例えようのないほど、情けない顔をしていた。
ちょっと待って。
早とちりしないで。
断るつもりなんて
欠片もないから
「ふ、ふつつか者ですが。よ、ろしく?」
慌てた返事は、自分でも妙な感じになってしまったけど。
彼の眉間が緩んで、晴々と微笑む。
そして。
微笑みが見る見るうちに、クスクス笑いへと進化して。
「ここで、“大和撫子のヨッコちゃん”が来るとは、思わなかった」
なんて、言われる。
「大和撫子かなぁ?」
「“不束者です”なんて……」
いや、あんな告白をしてきた広尾くんだって、相当なもんだと思うけど?
そんな会話を交わしながら、カバンから取り出した財布を手に取ったところで、食堂が一気に混んできた。
そろそろ二限が終わったらしい。
「広尾くん。さっきのコピー代と、このコーヒーも」
「いいって。“彼女”なんだから、コーヒーもコピーもおとなしくおごられてなさい」
「そんなこと言って……」
「じゃあ、今日の記念」
何が記念、だか。
「今日の席、ここ?」
木下くんの声に顔を上げると、木下くんと並んで亜紀ちゃんがいた。その後ろから野島くんとえっちゃんも。
「昼寝するのに良さそうな、特等席やん」
とか言いながら野島くんが私の座っている席から、一つ間を空けた椅子にカバンを置く。そして、えっちゃんは当たり前のように間の椅子に座ると、私の顔を心配そうに覗き込んできた。
「ヨッコちゃん、大丈夫?」
「ごめんね、心配をかけて。本当に、寝不足なだけだから」
気遣わしげな声に、そう答えた私の言葉に
「本当に、寝不足みたいだな。二限もほとんど寝てたし」
広尾くんたら、重ねるように言って。
「それを広尾は、ずっと眺めとったん?」
野島くんにニヤニヤ笑いで、突っ込まれている。
『女の子の寝顔、眺めとるなんて、やらしいなぁ』とか言っている野島くんに、財布片手に立ち上がった広尾くんは苦笑いをしている。
その間に、えっちゃんの向かいにカバンを置いた亜紀ちゃんが、席をキープするために置いていたルーズリーフのバインダーやペンケースを回収して差し出しながら
「おサボりの二人は、二限のノート、コピーする?」
しかつめらしく、尋ねてくる。
「あぁぁ。ありがとう。お願いしてもいい?」
「あ、でも。ヨッコちゃんは一限もか」
と言われて、ちょっと動揺する。
広尾くんに既にもらった、って言うのは……ちょっと、恥ずかしい。
「それは、俺がしておいた」
しれっと言った広尾くんが、ちらりと視線を寄こす。
ひゃー。皆、どう思うだろ?
「あ、そ。じゃぁ、二限だけでいいのね」
良かった。一限は、ちょっと私も怪しいのよね。
そう言いながら亜紀ちゃんが、お財布を取り出すのにあわせて、私も席を立つ。
あ、誰も突っ込まない。なんで? って。
それに、広尾くんの席がいつもと違うことも、何も言われなかった。
なんだ。
そんなもの、なんだ。