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春の訪れ

 スキーの二日目も、耳が凍りそうなほど寒いものの、いいお天気で。予定通りに初心者ゲレンデに連れて行ってもらった。


 背後から近づくリフトにお尻を掬われて、立ち木を眼下に見下ろす高さへと、ゆっくり運ばれていく。

 しばしの空中散歩を楽しんだ後は、降りるタイミング逃さないようにと、緊張の一瞬。


 毎回、リフトに乗るたびに『うひゃっ』『おー』『それっ』と、心の中で呟く。

 そして、ソロソロと斜面へ出て。佐々木さんの引率で少しずつ滑りおりる。



 この日もいっぱい転んで、悲鳴と笑い声を上げて。


 バレンタインのことを思い出したのは、夕方。大浴場から出たところで、だった。


 昨日、香坂くんたちと出会ったようなタイミングで、広尾くんと出会って。

「あれ? 広尾くん、一人?」

「ああ、香坂が脱衣所にタオル忘れたって、戻ったから」

 亜紀ちゃんとの会話を聞きながら、内心で『チョコレート!』と、叫ぶ。


 どうして今、ここに。

 持って来てない!?



 落ち着いて考えれば、お風呂にチョコレートを持って行くなんて、ありえないのだけど。

 この時は真剣に“自分の迂闊さ”を呪った。



 結局、カバンの底に隠した包みは、一度も取り出されないままで帰ってきてしまった。

 『チャンスの女神には前髪しかない』とかいう現実を、ほろ苦いチョコレートと一緒に噛み締める。



 なんとも情けない結果に終わったバレンタインの後には、再試験が仁王立ちで待っていて。再履修だけは嫌だと、必死で勉強をする。

 バイトもテニススクールも休んで、三科目をみっちりと。

 再試験の成績は点数の八掛けだから、”優”はありえないけど。どうせ受けるなら、“良”を目指す。



 再試験の結果は、学生課からの通達によると、『午後から全科目 一斉張り出し』らしい。

 朝からソワソワとすごしたその日の昼過ぎ。ぱらぱらと見かける“お仲間”とすれ違いながら、人気のない校門をくぐる。

 

 一年生用掲示板を緊張とともに見る。

 試験を受けた科目を確認して。

 学籍番号が……。


「よし、クリア」

 必須科目は“良”だったし、選択の二つも落第を免れた。

 これで、明日の追い出しコンパも心おきなく、楽しめる。



 晴れやかな気分で迎えた翌日の追い出しコンパは、忘年会よりも大所帯だからと、いつもより大きな座敷のあるお店で開かれた。

 四年生の代表だった人が乾杯の音頭をとる。

 一緒のテーブルに座っている亜紀ちゃんやその向こうに座った えっちゃんとビールのグラスを合わせて。この一年で慣れてきた苦味が、口に広がる。

 ビールはやっぱり、最初の一口が最高。


「えっちゃん。俺がそれ、飲むから」 

「あ、はい」

 形だけ口をつけたらしいグラスを、えっちゃんの隣に座った野島くんが引き寄せ、一息に飲み干す。

 そんな野島くんをうっとりと眺めた えっちゃんは、最初に頼んだ烏龍茶を飲んでいる。


 二人とも口には出さないけど。多分、“忘年会の一件”の影響だろうな、って思いながら、なんとなく、野島くんの隣に座る広尾くんをチラリと見る。

 後ろから話しかけてきた三年生と、和やかに談笑している姿にほっと息をついて、ビールを一口。

 『彼氏じゃない男は、どうすれば』なんてぼやいていた彼が、さっきのやり取りを見ていなくって、よかった。



 付きだしの和え物をつまみながら、亜紀ちゃんが先月、偶然道で出会ったという高校の同級生の噂話に花を咲かせる。

 この和え衣、ワサビの香りがいいアクセントだなぁ。ビールが進む、進む。


 話の合間にそうやって食事を楽しんでいると、後ろを向いていた広尾くんが、こっちに向き直る。

「ヨッコちゃん、亜紀ちゃん。スキーの写真があるってさ」

「あ、根岸さんが撮ってた分?」

「そうそう。行ってみないか?」

 広尾くんのお誘いに、亜紀ちゃんと二人、歓声を上げて席を離れる。



 最近、発売になったらしい使い捨てカメラをスキーに持って来ていた根岸さんは、ホテルの中だけでなく、滑っているところまで撮ってくれていた。

「これ、二日目ですか?」

 ミニアルバムをめくった亜紀ちゃんが向かいに座る東海林さんに尋ねる。テーブルの上にアルバムが差し出される。

 どれどれ、と覗くと、へっぴり腰の私が写っていた。


「お昼休憩に集まった時だな。ここにロッジが写っているし」

 そう言って、東海林さんが写真の左端を指差す。

「撮られてるの、きづかなかった……」

 『こんな格好悪い写真は恥ずかしい』と思いながら、私も手にした一冊目のアルバムに目を落とす。

 颯爽と滑ってきているのは総合大の風間くん、だな。このウェアは。たしか。


 風間くんは『雪国の出身』って言ってたから、差がつくのは仕方ないけど。

 でも、悔しいなぁ。

「こんな風に滑れるようになりたいなぁ」

 ぼやきながら、持ってきていたビールのグラスを口に運ぶ。 

 隣で広尾くんが噴き出す。

「ヨッコちゃん、今度はスキー教室に通う?」

「それは、どう考えても無理じゃない? テニススクールと違って、向こうに住まなきゃ」

 どれだけ、お金がかかると思っているのよ。

 そう言ってグラスを置くと、東海林さんが大皿からエビチリを取り分けながら、

「ホテルとかのアルバイトをすれば、寝床と食事は確保できて。空き時間に滑れるよ」

 なんて、“いかにも”な提案をする。


「俺、今年のスキーはそうやって、参加していたし」

「あー。だから行きも帰りもバスに乗ってなかったんですね?」

「そう。ヨッコちゃんたちが泊まったのが、俺のバイト先」

 なるほど。趣味と仕事を両立、って所か。

 バイタリティーって、こういうことかなぁ、と思いながら、ミニコロッケに手を伸ばす。


「あれ? でも、部屋は木下と一緒じゃなかったですか?」

 左隣の広尾くんが、東海林さんのグラスにビールを注ぎながら首を傾げる。

「うん。皆が来ていた間は平日でホテルも空いてただろ? だから休みにしてもらって、三日間は“お客様”をしていた。でも、お友達料金で、皆の宿泊料もちょっとだけ割引になってたはず」

「へぇ」

 注がれたグラスをテーブルに戻した東海林さんが、種明かしをしながら瓶を受け取って広尾くんに注ぎ返す。

「去年、ヨッコちゃんみたいに悔しかったから。この正月から、後期試験を挟んでずっと向こうで滑ってた」

「東海林さん。それで、試験の結果は……」

 怖いもの見たさ、みたいに尋ねると、かえって来た答えは。

「そりゃ、オールクリアに決まってるだろ。再試験は、別料金だし」

 う。それを言われると……。


 『ヨッコちゃん。わざわざ斬られに行かなくっても』

 あきれたように呟く、広尾くんの声が余計に傷にしみる。


「なに? ヨッコちゃん、さては単位を落とした?」

「ちゃんと取りましたー」

 笑いながら突っ込む東海林さんに言い返していると、

「だから、取れない方が不思議なんだって」

 東海林さんから受け取った取り箸で、玉子焼きのようなものを取り分けている広尾くんに、追い討ちを掛けられた。


 だから、誰のせいだと。



 その後も、あちらこちらへと席を移動しながら、学年最後となるイベントを堪能した。



 春休みは、バイトの合間に、一年生だけでコートを借りてテニスをしたり、飲みに行ったり。

 充実した毎日を過ごして、四月を迎え。

 私たちは二年生に進級した。



 新入生に向けたサークルの勧誘も一段落して。今年の新歓を週末に控えた水曜日の夜のこと。


「ヨッコちゃん。これ……」

 そう言いながら広尾くんが差し出したのは、小ぶりの紙袋だった。 

 いつも通りにテニスのレッスンを受けた帰り道。別れぎわに起こった突然のことに、つい彼の顔と紙袋を見比べる。

「たいしたモノじゃないんだけど、ヨッコちゃんに渡したいな、と思って」

「あ、うん」 

 勢いのようなものに押されて、受けとる。覗いて見る。


 頼りない街灯の光で、薄い箱状のモノが入っているのが見えた。


 中身を尋ねても、曖昧に笑ってごまかす。

 そんな広尾くんに首を傾げながら、いつものようにアパート近くの公園の前でバイバイをした。



 よく言えば“手早く”、実状は”手抜き”な夕食でお腹を満たして。

 食後のお茶を傍らに、さっき渡されたモノを袋から取り出す。


 きれいに施されたラッピングを解いて表れたのは、一冊の本だった。広尾くんがバイトをしている本屋さんの紙カバーが、丁寧に掛けられている。

 『最近、何か本の話題ってしたかなぁ』って、心当たりを探るけど。

 思い出せないまま、そっと表紙を開く。真新しいハードカバーに特有の、軋むような音が背表紙から聞こえた。



 それは、写真集だった。

 風景の写真に、和歌のキャプションが添えられている。


 普段の私なら多分、手に取らないような。

 でも、心惹かれる何か、がある。



 ススキを透かすようにして撮られた夕焼けに、何度目かのため息をついて。次のページをめくると、栞が挟んであった。

 『サン・ジョルディか……』そう思いながら、本屋さんがこの時期にサービスでくれるソレを手にとって。

 明日がその当日であることに気づく。



 大切な人へ、本を贈る。

 栞に書かれたサン・ジョルディの説明に、動悸がする。



 まさか。私が。

 大  切  な  人?



 それは、自意識過剰。と、自分をたしなめて、軽く頭を振る。

 ついでに見上げた壁掛け時計の示す時刻に驚いて、慌ててお風呂に入ろうと立ち上がる。 



 お風呂を済ませて、髪を乾かして。

 あと少しだけ……と、本を手にとって、敷いたばかりのお布団の上に座りこむ。

 さっき挟んだままの゛サン・ジョルディの栞゛を頼りに、ページを開いた。


 あれ? 違う?


 開いたページに、栞はなく。

 代わりに写真と呼応したような、菖蒲の一筆箋。



  ヨッコちゃんが、好きです。

  付き合ってください。 

             芳久



 書かれた文面に、息を飲む。

 激しい動悸に、口元を押さえる。


 丸みを帯びた横長の文字は、今までに何度も目にした。

 私には、分かる。

 左下に記された署名を見るまでもなく、これを書いたのは広尾くん。


 ウソ……うそ……嘘。

 でも、だって。


 頭の中で思考が、乱反射している。両手で包んだ頬が熱い。

 ウロウロとさまよう視線が、開いたままのページを無意識に辿る。

 写真に添えられた和歌は、古文の講義に出てきた。去年の秋に、広尾くんと一緒に受けた一般教養の。

 だったら、咲き乱れるこの花は、アヤメだ。


 そしてこの歌は、

 『貴女に恋焦がれて。道理を見失っています』

 そんな意味だった……はず。

 

 うわぁ。えぇっと。きゃー。

 転がるように身悶えていると、壁に頭をぶつけた。


 ダメだ。

 脳みそ、煮えたぎっている。



 危険物な本と手紙を、そっと紙袋に戻して、テレビの横に置く。

 『寝ちゃえ』と、部屋の明かりを常夜灯へと落として。お布団に潜り込んだ。

 壁にくっつくようにして、目を閉じる。


 瞼の裏に浮かぶ、丸い文字。

 ”好きです”の言葉が、グルグルと渦をまく。 


 慌てて目を開くと、壁一面にアヤメの幻影が。



 明日は、一限目から必須科目の講義なのに。

 今夜は、眠れないかも……。

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