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バレンタイン

 宴もたけなわ。


「ヨッコちゃん、ちょっと待って」

 注ぎかけたビールを止めた東海林さんが、なにやら難しい顔で私の斜め後ろ辺りを見ている。

 何が有るのか気になりながら、手にしていたビンをテーブルに戻した時。


「野島っ」

 東海林さんが、叫んだ。

 大声に驚いた私の、視界の端。少し前に私たちが“サービス”に行った上座の方から、背の高い男子が立ち上がったのが見えた。

 改めて目をやると、その隣で腰を浮かせた広尾くんの姿も。


「えっちゃんっ」

 血相を変えた野島くんが、大股でこっちへとやってくる。


 彼が辿りついた先では、真っ赤な顔で えっちゃんが倒れていた。



 えっちゃんの近くで飲んでいたらしい二人のOBに、野島くんが『何したんじゃ、ワレェ』と詰め寄る。

 『黙っとらんと、答えろや』と語気荒く凄む野島くんは、それでも壊れ物のように えっちゃんを抱きかかえていた。



 悪意を持って“潰された”らしい えっちゃんを抱き上げて、野島くんが座敷を出ていく。その後を、忘れられていた二人分のコートを手に、亜紀ちゃんが追いかけて。


 後味の悪い忘年会は、程なくお開きになった。



「えっちゃん、大丈夫かな?」

 駅までの道を歩きながら、くったりと抱え上げられていた友人の姿が、頭を過ぎる。 

 二人を最後まで見送った亜紀ちゃんによると、えっちゃんをおんぶした野島くんは、無言で帰っていったという。

「えっちゃんの家、遠いしな」

「……市外、だよね」

「タクシーもこの季節、拾いにくいだろうし。野島も、そこまで金を持っていたか……」

 並んで歩く広尾くんの言葉に、夜間料金は割り増しになると聞いたことがある気がしてきた。

 そうでなくても、一ヶ月程前に えっちゃんが『ユキちゃん、バンドを始めたって』と、不安そうな顔で言っていた。その言葉を裏付けるように、最近の野島くんは髪を染めているし。

 バンドって多分、かなりお金のかかる趣味じゃないかな?


 メインストリートを吹き抜ける寒風に、ぶるっと震える。

 この寒さの中、彼らはどこにいるのだろうか。


「やっぱり、野島も男だよなぁ」

 白い息を吐きながら、広尾くんが呟く。

「普段、人当たりがいいのが嘘みたいに、怒り狂ってたもんなぁ」

「うん」

「方言、丸出しだったし」

 『関西人は、頑なに方言を直さない』といっていたのは、関西の大学に通っていた件の従兄だったけど。普段の野島くんは、それなりに気を使って話していたらしい。

 あんな野島くんを見たのは、初めてだった。


「彼氏、か」

 隣からの声を聞きながら、緩んできたマフラーを巻きなおす。

「彼氏だから、怒り狂うことが許される。男として、許せないことをされた時に」

「……」

「彼氏じゃない男は……どうしたらいいんだろうな」

 左肩から下げたバッグの持ち手を、左手でぎゅっと握り締める。

 そんなこと、私に聞かないで。



 忘年会が終われば、一人暮らし組は私も含めて、それぞれの実家へと帰省する。

 夏祭りのときのように『皆で初詣』なんてこともなく、年を越して。

 冬休みが終わる。



 一月の下旬から後期試験が始まって。

 それさえ終われば、サークルのスキー旅行と一緒にバレンタインなんてものが待ち受けている。


「ね、えっちゃんは、やっぱり野島くんにチョコを渡すよね?」

 女子三人で集まって、試験前に勉強会のようなことをしていたのは、空き時間のカフェテリアでのことだった。

 広尾くんたち三人は、バイトだったり講義だったりでいなかったので、これ幸いと女子ならではの話題を振る。

「えっと、あの……はい」

 えっちゃんは、恥ずかしそうに赤くなった顔で小さく頷いた。

 それを見た亜紀ちゃんが、私の隣から身を乗り出す。

「おぉぉ。手作り? ね、手作り?」

「一応、がんばってみようかな、とは……」

「ひゅー」

 突っ込んだことを尋ねた亜紀ちゃんが、ニヤニヤと笑いながら、向かいのえっちゃんを小突く。

「亜紀ちゃん、いい加減にしておかないと……」

「そうだよね。“愛しのユキちゃん”に見られたら、怒られる」

 『おー、怖い怖い』と、首をすくめて紙コップのコーヒーに手を伸ばす亜紀ちゃん。

「今日はバイトだから、ユキちゃんは来ないけど?」

「いやいや。えっちゃんの危機とあれば、瞬間移動くらいしてくるって」

 そんな冗談に、三人でクスクス笑う。



 フルーツジュースの紙パックを手に取って、ストローに口をつけながら友人たちを眺める。

 さて、どうしたものかなぁ。


 広尾くんに、チョコレート。


 『義理でも えっちゃんがバレンタインに参加したら、野島くんが怖い』というのが、先輩も含めたサークル女子の一致した見解で。それを受けて、スキーの二日目にバレンタインが重なってはいるものの、サークルとしてチョコを配ることはしないことになった。

 その上で、えっちゃんは野島くんに手作りを渡す、となると、私が広尾くんに渡すのが微妙な感じになる。

 仲間外れみたいになる木下くんの立場は? って。   


 だからといって。

 義理チョコとして三人に渡しても、あの野島くんは受け取らないような気がするし。そもそも広尾くんへのチョコを義理に紛れさせるのは、私が嫌だし。


 亜紀ちゃんが義理でも何でもいいから、木下くんに渡してくれれば、格好がつくのだけど。

 それを、お願いするのも……なんか……ねぇ?


 『広尾くんのことが好きです!』って

 宣伝しているみたいで、恥ずかしすぎる。



 『どうしようか、どうしようか』と、迷いと言うには弱い感情を持て余しながら、試験期間をすごす。

 答えは出ないまま、試験の結果は次々と出てきて。


「げ、再試」

「……ヨッコちゃん、いくつめ?」

「三個め。必須はこれだけ、だけど」

 あきれたような広尾くんの声を聞きながら、教科ごとに張り出される成績表の、学籍番号と並んだ“不可”の文字を睨む。

 消えろ、消えろ。

 一文字消えたら、クリアだ。


「ヨッコちゃんって、ノートとかきれいなのに。やっぱり予想外だな」

「なんか覚えようとしても、頭から溢れてこぼれちゃった感じ」 

「頭の中、いっぱいだったんだ」

 そりゃもう、誰かさんのせいで。雑念だらけよ。


 雑念を追い払うように、真剣に願って見詰めていても、非情な“不”の文字が姿を消すことはなく。

 二月下旬に、必須科目の再試験が私を待つことになる。



 憂鬱な再試験の前には、楽しみにしていたスキー旅行があって。

 夜行バスでの移動を終えて、ホテルに荷物を置くとすぐさま、先輩や高校時代に経験のある子たちは、自分のレベルに合ったコースへと向かうリフト乗り場へと散らばっていく。

 まるっきり初心者の私は、亜紀ちゃんや米山くん、そして広尾くんとのメンバーで一日コースの初心者講習を受けることにした。

 

 スキー板の留め方、外し方から始まって、歩き方を練習して。

 

 ああもう。先っぽを踏んだ。

 あれ? こっちの足を持ち上げ……うわぁ。


 少し足を動かすだけで転ぶし、身体中に力がこもるし。

 スキーって、大変。


 それでも最後には、少しスキーらしくはなってきた。

「もう少し滑りたかったかも」

「えー。私はもう、疲れたー」

 一日の講習がおわって、コーチが帰っていく。

 私たちも、時間を合わせて下りてきた経験者グループと合流して、ホテルへと帰る。

 

「まあ、たしかに冷えてきたしね。あー、ホテルの温泉が楽しみー」

「ヨッコちゃん、年寄りくさーい」

「でも亜紀ちゃん、美人の湯だってよ?」

「それは、食前食後に入らなきゃ」

 明日のバレンタインには、関係ないけどー。

 そう言って肩に担いだ板を揺すり上げる亜紀ちゃんの笑い声を聞きながら、バッグの底に隠して来た包みを思う。

 

 えっちゃんと野島くんの二人は、今回のスキーには参加していない。野島くんが腕でも折ったら、バンド活動に差し障るからって。 

 その事実に背中を押されるように、チョコを用意したけど。

 明日、こっそりと広尾くんに渡すチャンスって、あるかな?



 食前食後の温泉、ではないけれど。夕食の前に暖まろうと、同室の一年生四人で七階の大浴場へと向かう。

 “美人の湯”にゆっくり浸かりながら、一日頑張ったふくらはぎをマッサージする。

 明日は、佐々木さんの引率で初心者ゲレンデへ行くって、言ってたなぁ。今日よりは、転ばずに滑れるといいなぁ。



 後から湯舟に入ってきた三年生の先輩と『ヨッコちゃんは楽しめた?』『はい』なんて会話をしながら、しっかり暖まって。

 女湯の戸口を出た辺りで、香坂くんと行きあった。その隣では米山くんがテトラパックの牛乳を飲んでいた。


「なんで、牛乳?」

 久恵ちゃんがものすごく嫌そうに顔をしかめる。そういえば、夏の合宿で『牛乳嫌い』って言ってたっけ。

「そりゃあ、風呂上がりは牛乳がお約束」

「そんな、銭湯の常識……」

「常識で言ったら、ビンだけど」

 紙パックは、邪道、と言いながらジュルジュルと音を立ててストローを吸う米山くんの背中を、久恵ちゃんがベチベチと叩く。

 そんな二人を皆で笑いながら、エレベーターホールへ移動して。


「女子の部屋割も、くじびき?」

 エレベーターを待つ間、香坂くんが恭子ちゃんに尋ねる。

「まさか。四人部屋があるから、一年生は一部屋ねーって、根岸さんが。先輩たちも、話し合いで決まったっぽいし」

「あ、そんなもんなんだ? 男子は纏めてくじ引きだぜ?」

「えー、じゃあ先輩と同室だったりするんだ」

「俺と広尾は、二年生と同じ部屋」

 うわ、それはまた。お互いに気を使って、疲れそう。



 六階で男の子たちが降りた時。

 エレベーターホールにいた広尾くんの姿が見えた。



 夏合宿みたいな宴会になるのかと思っていた夕食は、『ナイターで滑りに行く』という先輩たちがいるからと、それなりの時間で食べ終えて。

 居残り組の私たちは、ホテル内のお土産売り場を覗いたり、もう一度温泉に行ったりと、ゆっくり夜を過ごす。


 部屋で四人、持ってきたスナック菓子をつまんで。他愛ないお喋りに参加しながら、頭の片隅では明日チョコを渡す算段を考える。

 夕食のときのことを考えると、明日も食事は手ぶらで集まるだろうし、スキーの最中なんてありえないし。

 となると、今みたいな隙間時間しか残らないのだけど。一人だけ別行動をする理由がいるし、広尾くんが部屋で一人なわけじゃないし。

 そもそも、彼の部屋が何号室か知らない。


 考えれば考えるほど、無理、って思えてきて。

 諦めの境地に達したせいか、アクビが湧いてくる。


「ヨッコちゃん、眠い?」

 隣の久恵ちゃんに、覗き込まれて。目を擦る。

「うー。昨日のバスが眠れなくって……」

「空調が良くなかったしねー」

「う、ん」

 あ、またアクビが。


 会話の最中にも、フカフカとアクビをしている私に久恵ちゃんが笑う。

「ほらほら。お子ちゃまはネンネの時間でしゅよ」

「はーい。ママ。おやしゅみなしゃい」

 なんて、ままごとをしながら寝る支度を済ませて、端のベッドへと潜り込む。

 声のトーンを落としてお喋りを続ける友人に背中を向けて、壁にくっつくような体勢で目を閉じる。


 バスで眠れなかったのは……空調のせいだけじゃない。

 顔のすぐ側に壁がないと眠れない、子供時代からの妙な癖のせい。

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