夏のできごと
お参りの前に屋台で足を止めるほど“失礼”な子は、さすがにおらず。
手水を使うための杓を手にホッと息をついた私は、『神様に“類友”と思われたくない』という保身的な気持ちが潜んでいた自分の心に、ヒヤリとした。
周りに気付かれていないかを、一番近くにいる広尾くんの顔色を盗み見る事で確認して。
醜い内心を洗うように、手を清める。
お参りを済ませたあとは、参道を戻りながらの屋台巡り。
亜紀ちゃんとおしゃべりをしながら歩いていて。
「ね、えっちゃん」
さっきまですぐ後ろにいたはずの友人を振り返る。
そこには見知らぬ他人の姿しかなく。
神域という場所柄、“神隠し”なんて言葉が浮かんで、鳥肌がたつ。
「えっちゃん? どこ?」
「えっちゃんなら、野島と一緒に。ほら」
キョロキョロしている顔の前。ぬっと突き出された腕の示す先に、背の高い男の子と並んだ縹色の浴衣が見えた。提灯形の明かりに、簪が光る。
どうやら二人は金魚掬いに興味を惹かれたらしく、いつのまにか別行動をしていた。
小さく安堵の息をついた私に、教えてくれた広尾くんは、
「邪魔をしたら馬どころか、野島に蹴られるよ」
と、もっともらしい顔で忠告めいた事を言う。
「野島くんって、サッカー小僧だから気をつけなきゃ」
「そうそう。バウンドしたテニスボールをリフティングしようとするくらいだし」
広尾くんと二人で笑いながら、改めて屋台の方へと一歩踏み出しかけて。
「馬に蹴られて、って……あの二人って“そう”? いつの間に?」
隣の亜紀ちゃんの素っ頓狂な声に足を止めた私は、さっきのやり取りのなかに『人の恋路を邪魔する奴は、云々』なんてフレーズが隠れていたことに気付いて。
おぉ!? と思いながら、広尾くんを見上げる。
「いや、“まだ”みたいだけど」
彼は、顔の前で小さく手を振って否定する。
「でもまぁ、野島はチャンスを狙っているみたいだから……時間の問題? ヨッコちゃんが運転免許を取るのと、どっちが先かな?」
そんな少しばかり失礼な事を言った広尾くんを、軽く睨もうとして。
目にした彼の切なげな表情がきっかけとなって、記憶のいくつかが線で結ばれていく。
そうして星座を描くように浮かび上がってきたのは。
広尾くんって、もしかして
えっちゃんのこと?
そんな会話の間に、友人たちは移動してしまっていて。なんとなくそのまま三人で屋台を回る。
総合大の香坂くんが『鳥居の所で落ち合おう』と決めてくれていたから、呑気に屋台を覗きながら参道をくだる。
私たちが最初に着いて。次が恭子ちゃんと香坂くん。
えっちゃんたちが珍しく遅いのは……言うだけ野暮か。
そして、やっぱり最後まで来ないのは、米山くん。それに木下くんと久恵ちゃんの三人。
三人を待つ間。亜紀ちゃんが大袋で買ったベビーカステラを、えっちゃんや恭子ちゃんと一緒に摘んでいて、なんとはなしに目を上げた。
腕組みをして鳥居にもたれた野島くんが、軽く身を屈めるようにして広尾くんとなにやら二人で話しては、笑いあっている。
何の屈託もなさそうな広尾くんの笑顔に、彼の“想い”が私の妄想のような気がする。
うん、広尾くん。
周回遅れの恋は。
友達の想い人を好きになるのは。
辛いだけだから
やめたほうがいいよ。
夏休み中に行われるサークル活動は、隣県のペンションで二泊三日のテニス合宿なんてものもある。
春には初心者だった えっちゃんが、そろそろラリーができる位まで上達しているというのに、私はといえば、自動車の教習並に、進歩していなかった。
この合宿でもう少し、ゲームらしくなるまで上手くなりたい。
そう考えて参加した合宿の半分が過ぎた、二日目の午後。
イメージ通りに打てないことに対するイライラで、缶入り紅茶の飲み口に歯を立てている私に、広尾くんは
「そりゃぁ、六年かけて身体に覚えこませたフォームなんだから……」
呆れたように言いながら、スポーツ飲料のプルタブを起こす。
「だけどさぁ」
「俺だって、高校時代に苦労したんだから。頑張って練習、練習」
そんな彼の言葉に、少し拗ねた気分で缶に口をつけて。二口ほど飲んだところで目にした光景に、軽く咳込む。
野島くんと えっちゃんが、互いのジュースを交換して飲んでいる。遠目にも分かるほど、えっちゃんが赤い顔で野島くんを見つめている。
確かに、“時間の問題”。いや、もしかしたら“もう”なのかもしれないけど。
そう思いながら、隣の広尾くんの顔色を伺う。
彼は、その一幕に気付いていないらしく、目の前のコートで行われている四年生のゲームを熱心に見ていた。
「右側のペアの前衛、上手い」
小さく呟きながら拍手をしている姿に、安堵の息を吐く。
「そんなに、凄かった?」
「身軽、っていうか……おっ」
私達の入学と同時にサークルを引退していた四年生だけど、合宿には有志で差し入れに来てくれた。
そして、三年生の先輩に渡された大量の飲物に私達が群がっている間に、さっそくゲームを始めている。広尾くんが『上手い』と言っていた女子の先輩は、小柄な身体で軽やかにボレーを決めていた。
「あの先輩って確か、ここまで運転してきたって……」
ホンダさん、だったかな?
「うん。言ってた」
「あの細い道をって、考えられない」
「双葉マークには、ムリムリ」
最寄のバス停から上ってきた道を思いながら紅茶を飲んでいると、広尾くんの向こう側から東海林さんが話によってくる。
「ですよね? あの先輩、凄いなぁ」
「凄いのは、運転だけじゃないぞ。彼氏がうちのOBで、大手商社マン。本人は総合大の薬学部」
「うわ」
なんだその、天から二物も三物もって。
「私が勝ってるのって、身長くらいか」
そうは言っても、私も元が小さかったから。成長期を終えた現在、女子の平均身長より若干高め程度で、たいしたことはないし。
深いため息をついていると、広尾くんが慰めを言う。
「ヨッコちゃんは、若さで勝ってるよ」
「それは確かに、一生負けないけど」
そんな事で勝っても、自慢にならない。
その夜は、四年生たちも泊まっての大宴会で、グラス片手に席を移動しながら、いつも以上の盛り上がりを楽しんでいた。
「野島、イッキやりまーす」
突然の宣言と共に、ダイニングの隅の方で野島くんが立ち上がった時。私と亜紀ちゃんは二年生の先輩たちから、最近オープンしたカフェの評判を聞いていた。
野島くんのイッキを盛り上げて、再びカフェの話題に戻って。
「あ、いった」
隣の席でピスタチオを割っていた亜紀ちゃんの呟きが、周りのざわめきを縫うように、私の耳に届いた。
「いったって、何?」
「野島くん、えっちゃんの手を引いてダイニングから出て行った」
向かいに座った先輩のグラスに、私がビールを注いでいる間のできごとだったと言う。
聞いた瞬間に、広尾くんの事が頭を過ぎって。咄嗟に部屋を見渡すようにして、彼の姿を探す。
うわ、あそこって。さっきイッキをした野島くんのいたテーブルじゃない……。
軽く俯いていた広尾くんの頭がゆっくりと上がって、辛そうな彼の横顔が見えた。
何かを堪えているように天井を見上げた彼の肩が動いて。
深いため息をついたのが、離れた席でもわかってしまった。
あ、やっぱり。
広尾くんって、
“そう”なんだ。
「あー」
「え? こんどは何?」
「ビンゴ」
小さく指さす亜紀ちゃんの声に、視線をやると。赤い顔の二人が戻って来たところだった。
「あれは……ねぇ?」
「……うーん。だねぇ?」
廊下で一体、何をしてきた!?
それより、そんな顔して広尾くんの所へ戻らないであげてってば。
「えっちゃん!」
咄嗟に呼び止めた私の声に、えっちゃんがわかりやすくアタフタとする。
『こっちにおいでよ』と手を振ると、呼んでもいない野島くんまでついてきた。
「ヨッコちゃん、どないしたん?」
「野島くんは、呼んでなーい」
「えー、ひどいやん。それ。俺も仲間に入れて?」
「だって、席、一つだけだし? 空いてるの」
「そんなの、簡単な話やん」
そう言って、隣のテーブルから椅子を一脚運んで来た野島くんは、
「ユキちゃん、そんなこと……」
「アカン? なら、えっちゃんが俺の膝に座る?」
なんて、たしなめた えっちゃん相手に、ふざけたことを言っている。
「ユキちゃん?」
「って、言ったよね? 今のえっちゃん」
亜紀ちゃんと二人でコソコソ話しているうちに、向かいに座っていた三人の先輩達が笑いながら席を立つ。
「野島くん、ここどうぞ」
「すんません」
「両手に花で、いいわねぇ」
悪戯っぽい言葉を笑って流した野島くんがさっきの椅子を戻して、空けてもらた席にえっちゃんと並んで座る。
「俺もここ、来ていい?」
背後からの声に、自分の肩がビクッと跳ねたのがわかった。
どうして、もう。広尾くんが来ちゃうかなぁ?
あからさまにはできないため息を飲み込んでいるうちに、さっき えっちゃんを座らせようとしていた私の隣に座っているし。
「木下は? どないしたん?」
「トイレ」
「やったら、あいつもここに来るかな?」
「なんか、香坂がどうとか言ってたから……」
何事もなかったように、野島くんとそんな会話をしている広尾くんの精神力の強さに、私の方が切なくなる。
広尾くん。
えっちゃんと野島くん。“そう”なっちゃったよ?
解っているよね?
だったら、無理して笑わないで。
私はその痛みを
誰よりも知っている。