柔らかな壁
飲み会は、結局、途中で抜けて。えっちゃんと野島くんに送ってもらうことになった。
卒業以来住んでいる単身向けマンションは、西のターミナル駅から徒歩圏内。居酒屋からだと……二十分くらいだろうか。
一人で帰れると言った私に、
「広尾に、めっちゃ頼まれとうから。放ったらかしにしたら、俺が怒られる」
えっちゃんの向こう側で野島くんが言って、軽やかに笑う。
「そのために、携帯の番号、交換しとるようなモンやし」
「あー、携帯かぁ。私も持とうかなぁ」
ひーくんは、仕事の具合で夏ごろから持ち始めて、私も番号は聞いていた。
えっちゃんも最近持つようになったと、言っていたし。
「ヨッコちゃんとこは……微妙やなぁ」
「そうかな?」
「俺とえっちゃんは、県内やし、仕事中なら市内のことも多いやん? そやから、携帯会社を揃えたら通話料が安なったけどな」
「うん?」
「広尾ほど遠くなったら、携帯会社の縄張りが違うで?」
「そうなんだ……」
「俺、神戸の親兄弟に、携帯からかけることはめったにやらへんもん」
アッチも、持ってないけどな。
野島くんは、そう言いながら、コートのポケットに入れていた携帯の画面をちらりと確認していた。
「えっちゃんは、携帯を持ってみて、どう?」
「ええっと……ほとんど、ユキちゃん専用だから……通話料とか、気にしたことなくって」
「専用、か」
「はい。あとは、母からお使いを頼まれるくらいで」
「お醤油買うてきてー、とか、やんな?」
笑いながらの野島くんの言葉に、肩を竦めるようにして頷く えっちゃん。
学生時代と変わらぬ、いや、それ以上に親密な二人を見ていると、殊更、独りを実感する。
「一緒にいられる、って。いいな……」
思わず零した本音に自分でも驚いて、口を塞ぐ。
「ヨッコちゃん」
背中をトントンと宥めるように叩く えっちゃんの手に、一度は乾いた涙が滲みそうになって。
深呼吸と瞬きで、やり過ごす。
「それは、広尾に言い。俺らに言うことと、違うやろ?」
いつもより冷たく聞こえる野島くんの声に、えっちゃんの手が止まって。離れていく。
「だーれも知り合いの居らん街を、転々としながら頑張っとうアイツこそ、言いたいことやろけどな」
知ってる、分かってる。
反射で浮かんだ反論は、唇に上る前に消えた。
本当に?
私は、分かってる?
「まあ、広尾は、“甘えた”やないからな。俺と違って」
「甘えた、って?」
「甘えん坊やな」
「野島くん、甘えん坊?」
ひーくんよりも大きな、この図体で?
隣のえっちゃんの顔を覗く。
夜道を照らす外灯の明かりのなか、えっちゃんは困ったような顔をしていたけど。
否定は、しなかった。
「俺やなしに、広尾の話、な?」
横道にズレた話が、軌道修正される。
「あ、うん」
「寂しいとか、言われへんのと違うかな? アイツは」
「……」
「特に、ヨッコちゃんの前では、ええ格好したいのやと思うで?」
その言葉に。
走馬灯のように、彼の姿が音声を伴って脳裏を駆け巡る。
『シチュエーションに悩んで』告白に一年もかけた彼。
事あるごとに、『甘えなさい』と言って笑った彼。
『アマゾネスだから』『大和撫子だから』そう言って、私のわがままを許してくれた彼。
そして、
『どれだけ寂しくても、俺は揺るがない』
互いの未来に、自信を見せた彼。
格好つけ、だったんだ。
私の負けず嫌いと、いい勝負じゃない。
こういうのを……割れ鍋に綴じ蓋って、いうのかもしれない。
マンションの前まで送ってくれた二人にお礼を言って別れる。これから野島くんは、西隣の市にある えっちゃんの家まで、送って行くらしい。
並んで駅の方へと戻る二人の姿を、角を曲がるまで見送ってから、建物の玄関を入る。
『すぐに行く』って、ひーくんは言っていたけど。電話した時間を考えると、帰ってくるのは、明日になるだろう。
そんなことを考えながら、寝る支度をして。
手紙の束を枕元に、お布団へと潜りこむ。
玄関のインターフォンが、辺りを憚るように鳴ったのは、日付の変わる少し前だった。
まさか……と思いながら、二年前の年賀状を枕に置いて、受話器を取る。
ひーくんだけが呼ぶ、私の名前が耳元で囁かれる。
つんのめるようにしてドアへと駆け寄り、ロックを開ける。
勢いよくドアを開く。
のけ反る様にした彼に、飛びつく。
「ただいま。遅くなって、ゴメンな」
遅くない。遅くなんて、ない。
頭を振ることで、彼の言葉を否定するのが、精一杯だった。
野島くんからの電話を受けたのが、残業を終えた会社帰りの電車で、だったらしい。
途中下車して、私を宥めて。
そのままの足で、新幹線の駅へと向かった彼は、言葉通り“すぐに”帰って来てくれた。
泊まる用意なんてない彼は、下着姿でお布団に入って。あくび混じりの声で、今夜の出来事を話してくれた。
その声を背中越しに聞きながら、幸せを噛み締める。
「ね、ひーくん」
「うん?」
「明日、パジャマ買いに行こうか」
「俺の?」
「うん、ほぉ」
あ、あくびが……。『うん、そう』って、伝わったかな?
「ああ、今日みたいな時のため?」
「うん」
思っていた以上に伝わっていたらしい。
「それは、俺も安心。いつでも、飛んで帰って来れるな」
「うん」
もう一つ、あくびが落ちる。
「瞬間移動って、人間の夢なのかなぁ」
「夢?」
「ほら、子供の頃のマンガであっただろ? 行きたい所に繋がるドア」
「ああ。うん」
「空を飛んで……っていうのは、アラビアンナイトにもあるし」
「ベッドが飛ぶのも」
あったよね、って言葉がまた、あくびに紛れる。
「今夜ほど、瞬間移動がしたかったことはなかった」
あ、ひーくんの格好つけが、剥がれてる?
「うん」
「ゴメンな? 人前で泣かせたりして」
いや、気のせいか。
「まだ、ほっこは頑張れるか?」
「ひーくんが、飛んで帰って来てくれたから。あともう、五年は大丈夫」
「そうか」
さすが、アマゾネス。
そう言って、低く笑う声を聞きながら私は。
夢の世界へと、降りていった。
その年の夏にまた、ひーくんは引っ越しがあって。
片付けだの引き継ぎだので、会えない日が続いて。
二ヶ月ぶりのデートは、新しく彼が暮らす町でだった。
九月の連休を利用した一泊二日は、彼の案内で散策することで、到着からの半日を過ごす。
そうして迎えた、夜。
彼がシャワーを浴びている間の暇つぶしに、普段持ち歩いているシステム手帳を取り出して。後ろの方、おまけでついている白地図を開く。
ひーくんが今までに住んだ県を、Hのシャープペンシルで薄く塗っていく。
彼が定年を迎える時には、何カ所が残っているのだろう。
彼との関係が変わるまでに、あと何カ所を塗るのだろう。
「ほっこ」
呼ばれた声に、顔を上げて。促されるまま、浴室へと向かう。
ドアを押し開け、滑り込んだ私をミントの香りと湯気がふわりと包む。
初めて彼の部屋に泊まった時、『ひーくんの香りだ』と感じたっけ。
手早くシャワーを済ませて、軽くドライヤーを使う。
行きつけの美容院で、乾かすコツを教えてもらったけど。
広がり易い髪は、やっぱり扱い辛い。
そろそろ良いか? と思う頃。脱衣所を兼ねた洗面所のカーテンが開かれて、鏡越しにひーくんと目が合う。
「ほっこ」
「ん」
重ねられた手に、ドライヤーのスイッチが切られて。
顎に添えられた手に導かれるようにして向かい合い……キスを交わす。
この夜も、独り寝の寂しさを取り戻すほど、互いの熱を高め合って。
次に会える日までの、糧にするほど交じりあう。
身繕いを終えて、ベッドに戻る。
学生時代はお布団派だった ひーくんだけど、引っ越しを重ねるうちに間取りの関係で、ベッドを使うようになった。
通常のシングルより広めなのは、多分。私たちの癖のせいだと思う。
ワッフル地のシーツは、あれほど上がった私たちの体温も、瞬く間に放散したらしい。
彼の好む、さらりとした肌触りのシーツへ寝転がって。
背中越しに、他愛ない世間話を交わしながら、眠りについた。
夜中に、ふと目が覚めた。
目の前に壁があるのは、いつものことだけど。
いつもとは違うことが、ひとつ。
右側を下に寝ていた私の左手が、起き上がった ひーくんに握られていた。
オレンジ色の常夜灯を背後にした彼の表情は、逆光のせいではっきりしなくて。
「ひーくん?」
不審にほんの少しの恐怖感の混じった声で呼ぶと、慌てたように手を離した彼の指に、荷造り紐が絡み付く。
紐がどうして、こんなところに……。
「ひーくん、何? これ?」
起き上がって、互いに正座で向かいあう。
「あの……これは、その……」
「ひーくん?」
「指輪……サイズ……」
「うん? 指輪が、何って?」
問い詰める私に、彼はベッドの上に視線を落としたまま、切れ切れに答える。
「つまり……プロポーズのために、指輪のサイズを調べたかった、と」
「給料の三カ月分が貯まったし。今度の転勤で、昇進もしたし」
ドラマのように、プロポーズと同時に指輪を渡したかったわけか。
なるほど。
告白にも趣向をこらした、彼らしいなぁ。
「昔さ、野島が失敗しただろ?」
「失敗?」
「えっちゃんのシルバーリング」
「ああ、サプライズを狙って、サイズを間違ったって?」
「あの時に、ほっこと『サイズを調べるには、紐を巻けば……』って、話をしたのを思い出してさ」
そういえば、そんな会話も……した気がする。
ひーくんも、サプライズを狙って。
今夜、私が寝付くのを待っていたらしい。
ただ、彼の考えていたほどには、私が熟睡してなかったのが、誤算だった。
「冬にほら、急に帰ったこと、あっただろ?」
「……飛んで帰ってきてくれた時?」
「うん。あの時、新幹線のなかで、“ほっこの所へ飛んでいけない距離”っていうのが、つくづく嫌になって」
「うん」
「でも、ほっこは、『あと五年、大丈夫』って言うし」
「あー」
言ったなぁ。
『寂しい』とは、口に出せず。強がりを。
あの夜、野島くんにアドバイスを、してもらったのにね。
「だから、せめて記念になるようなプロポーズがしたくって」
「それで、サプライズを……」
「失敗したけど」
肝心なところで、俺、情けないな。
サプライズの失敗にがっかりしている ひーくんを、そっと抱き寄せる。
「ひーくん」
あやすように名前を呼ぶと、胸元に頭を擦り付けられた。
あごに触れる硬い髪のくすぐったさを堪えて。
「ふつつか者ですが。末長くよろしく」
耳元に囁く言葉は。
いつかと違って、すんなりと出てきた。
押し倒されて、キスが降ってくる。
軽いキス。深いキス。
「ほっこ、ほっこ、ほっこ」
合間に呼ばれる名前と、混じる吐息に、再び身体に熱がともる。
そのまま雪崩れ込んだ交歓に、身も世もなく溺れて。
事後の気怠さが呼んだ睡魔に、意識を預けようとしていると、背後に彼が滑りこんできた。
そのまま、くるりと身体の向きを変えられる。
「ひーくん?」
戸惑っている私を抱えんだ彼は、なぜか横向きで寝ようとしていた。
「肩、凝るでしょ?」
仰向けで寝ている、いつもの癖は?
「うん。まあ、気にしないってことで」
背中に回された手が、緩やかにパジャマの背を叩く。
「明日、しんどいよ?」
「それもまあ、記念かな?」
「記念って」
「プロポーズ記念に、いつもと違うことを」
本当に、記念日が好きだなぁ。
眠たげな彼の声に、吐息をひとつこぼして。
胸元で軽く握った、左の手。
紅指し指に残る、彼の噛み痕が、私にとって今日の記念。
その手を包み込んだ彼の手に、そっと唇を寄せる。
ひーくん、明日、一緒に指輪を選びに行こうね。
給料三ヶ月分じゃなくてもいいの。
指輪は、歯形のリングが消えたあとの代用品。
寝息を立て初めた彼の肩に額を寄せて、
彼の身体という柔らかい壁に、目を閉じる。
閉じた瞼に浮かぶ白地図。
彼との関係が、婚約者へと変わったこの街は、
何色で塗ろうか。