双葉マーク
その週の末に、新歓コンパがあって。
六人の新入生を迎えて行われた今年度最初のイベントは、大きく羽目を外す子もおらず、終始和気あいあいとした雰囲気のうちにお開きとなった。
いつもの飲み会と同じように、集団がバラけたり固まったりしながら駅へとそぞろ歩く。
最後尾を歩く私の左隣には、広尾くんがいた。
他愛ない世間話をしていて。何かの拍子、だったのだろうか。
左手が温もりに包まれた。
うわっ。
て! テ! 手!
手に、手を、手が。
広尾くんに
手を繋がれてるぅぅぅ。
顔から火が出る。
左手が、ありえないほど熱い。
このままじゃ、火傷する。
焦げる、焦げる、焦げる。
これ、どうしたらいいの?
思わず繋がれた手を、振りほどく。
あー。心臓がバクバクいっている。
「ヨッコちゃん……」
悲しげな声に、肩が跳ねる。
「ゴメ、ン。ちょっと……恥ずかしいっていうか」
口の中でモゴモゴと言い訳めいたことを唱えながら、広尾くんの顔色を伺う。
気を悪くしていたら……と心配している私と目が合うと、彼の垂れ目が笑ったように見えた。
「大和撫子には、刺激がきつかった?」
内緒話のように耳元でささやかれて。その距離感にまた、体温が上がる。
これも、十分きついから!
もう少しだけ、離れて!
心臓、壊れるってば。
必死で頷いていると、
「よかった。俺だけがドキドキしてるんじゃなくって」
と言って、すいっと距離が開く。
はぁ。やっと息がつける。
左手で胸を押さえながら、深呼吸。
まだ少し肌寒さの残った四月の夜風を吸い込んで、体と心をクールダウンする。
「広尾くん、ドキドキなんてしてる?」
うそじゃない? という含みを持たせた私の言葉に、
「あ、信じない?」
そう言って、今度は手首をつかまれた。
やーめーてー。
じたばたしてるうちに、掌が彼の胸へと当てられる。
『ほら、判る?』じゃないってば。
自分の心臓の音の方が、うるさくって。
判るわけ、ないじゃない。
「私、こういう……お付き合いって、初めてだから……」
もう少し、お手柔らかに願いたいと、離してもらった手を抱え込んで訴えると、
「俺だって、双葉マークだよ。運転と一緒で」
「いや、私はそれ以前の仮免かも」
「お付き合いの仮免、って何?」
“百戦錬磨の色事師”は、特殊二種でもとっているのか?
なんて言って、笑いあう。
「でも、そうか。ヨッコちゃん、初めてか」
「そんな、しみじみと言わないでくれる?」
「いや、俺も初めてだから。純粋にうれしくって」
一緒に教習、していこう。
そう広尾くんが言ったところで、前を歩いていた香坂くんが振り返った。
うわ。もしかして
今までの会話、聞かれていた?
「ヨッコちゃんたち、明日って、ひま?」
唐突に聞かれた内容に、急いで頭の中のスケジュール帳をめくる。
確か……ドーナツショップのバイトが、お昼を挟んだ四時間ほど入っている。
『ゴメン』と謝った私に軽く手を振った香坂くんは、あごを摘みながら考えていた広尾くんの
「俺は、特に予定はないな」
という答えを聞いて、彼の向こう隣に並ぶ。
「じゃぁさ。市営コートを借りてまたテニスしないか?」
「今から、借りるって。無理じゃないのか?」
「明日の朝、電話を掛けてから、だけど。コートを押さえてから、人数が集まりません、じゃぁな?」
「ああ、なるほど」
そんな二人の会話を聞きながら、一つ、安堵の息をつく。
香坂くんには、会話を聞かれていなかったみたい。
“仮免”の身にはまだ、『付き合ってます。彼女です』なんて。
誰かに知られるのは……荷が重過ぎる。
仮免で始まったお付き合いの、最初のデートはプラネタリウムだった。
大学のある楠姫城市の西隣、鵜宮市に建つ科学館の一角を占めるプラネタリウムは、地元小学生の遠足ではお約束の行き先だというのは、ゴールデンウィーク明けに えっちゃんから聞いた話。
「俺が子供のころは、市内にプラネタリウムなんてなかったなぁ」
「ユキちゃんの実家のあたりって、日本標準時子午線が通っていなかった?」
「隣の市やな。だから『プラネタリウム行く』言うたら、子午線の所やった」
講義前のひと時。えっちゃんたち二人の、そんな会話を隣で聞いていると、すぐ前に座っていた広尾くんが、身体を捻るようにして私の方を見る。
「ヨッコちゃん、行こう」
低く呟かれたお誘いに、慌てて周りの様子を伺う。
えっちゃんも、その前に座っている亜紀ちゃんも気付いてないらしく、友人たちの話題は、遠足の思い出へと変わっていた。
「いいけど。いつ?」
「次の日曜」
「……OK」
密かな約束が成立したところで、先生が教室へと入ってきて、広尾くんが前を向く。
この十日ほど、私の前に広尾くんが座るようになって、こんな内緒話が意外と簡単にできることを知った。
手を延べれば届く距離の、広い背中を意識しながら、ペンケースを開く。
次の日曜。
晴れるといいな。
絶好のデート日和、というのも妙な感じだけど。日曜日は、まさに五月晴れのいいお天気だった。
待ち合わせは、去年の夏祭りのときと同じく、最寄駅にある大時計の下。
駅前のオブジェと並んで、判りやすい待ち合わせ場所であるここはサークルでの待ち合わせの定番で、ゴールデンウィーク中にも一度、テニスのための待ち合わせに使っていた。
その、馴染みの場所に今日は、緊張をともなって向かう。
広尾くんを待っている間に、知り合いの誰かと会ってしまったら、どうしよう。
いっそ、待ち合わせをプラネタリウムの最寄駅にでもしておけば……いや、それはでも。
つまらない、よね?
せっかくのデートなんだから、少しでも一緒にいたいのが、本心だし。
交番の角を曲がると、駅舎が見える。
鼓動が一つ跳ねて。
深呼吸も、一つ。
よし、行こう。
軽く気合いを入れて、目的の建物を見つめて。
早くなる鼓動に背中を押されるように、足を進める。
大時計の下には、既に広尾くんが来ていた。
「おはよう、待った?」
「待った、待った」
「え? いつから?」
尋ねながら、時計を見上げる。
約束の……八分前なら、遅刻じゃないよね?
「約束をした日から」
返ってきた答えに頭がついていかず、彼の顔を見つめて。
「もう、今日の日が楽しみでさ」
待ち焦がれた。なんて言いながら差し出された切符を、反射的に受けとる。
遅れて届いた理解に、身体中が熱くなった。
「もう。広尾くん、てば」
「だって、初デートだし」
「……」
「今朝なんか、五時半起き」
と言いながら、嬉しそうに笑う。その顔にほだされて
「勝った。私は五時」
ピースサインをすると、
「何の勝負?」
「ええっと……早起き?」
そんな勝負じゃない、けどね。
待ち遠しかった気持ちは、私だって負けてない。
「今日は、アマゾネス?」
改札を通って、ホームへの階段を上りながらの言葉に、首を傾げる。
「どこが、どう?」
「うん、いきなり勝負が始まるところ?」
あー、さっきの。
階段を下りて来る人を避けて、広尾くんの後ろへと回り込む。
そのまま数段を上がって、ホームに着いたところで改めて、隣に並ぶ。
「アマゾネスなら……」
彼の呟きに反応するより早く。
指を絡めるように、手が繋がれる。
叫びこそ抑えたけど。
「んきゃー」
抑えきれない悲鳴が、喉からとびだす。
バタバタ手を振ると、意外と簡単に解けた。
「だから! 広尾くんっ」
動悸と息切れに、顔が燃える。
「一瞬で、大和撫子に戻るか?」
「アマゾネスでも、“奥ゆかしい”の!」
「そうか。残念」
そう言って、胸の辺りでバンザイをするように広げられた、彼の掌を見つめる。
野島くんと手を繋ぐ えっちゃんを思い浮かべて、イメージトレーニング。
あの手と自分の手が、こう……重なるわけで。
あー、男の子の手って、掌が厚いんだ。
ラケットのグリップで、できたらしきマメも……。
「ヨッコちゃん?」
おっと。
いつのまにか、よそ事を考えてた。
「あ、電車、来る?」
「隣の駅は、でたみたい」
ほら、と指さす電車の接近表示を見上げながら、こっそりとため息を落とす。
手を……繋ぎたくない、わけじゃないんだよ。
ただ、もう少しだけ、待って。ね?
連休明けの日曜日。それも、朝一番、という時刻のせいか、プラネタリウムに来ている観客は、疎らだった。
私達のようなカップルや小学生らしき親子づれ。それぞれのグループが、互いに距離を置くようにして、座席を定めていく。
〈では、太陽がそろそろ沈みます〉
アナウンスに従って、スクリーンがオレンジから紺色へと暗くなっていく。
あ、一番星。
二番星があそこで、三番星が……あれ? あれれ?
あっという間に、満天の星空。
これだけの星を見たのは、いつ以来だろう。
魂を吸い込れるような感慨とともに、リクライニングシートに身を預けていると、右の肘掛けに置いた手にそっと触れる感触があった。
探るように指を撫でられて。
重ねられた掌から、そっと自分の手を引き抜く。
でも離れきることはせず、彼の手の隣に添える。
尺を取るように動いた指が、再び私の指先を捉える。
降るほどの星の下で、指相撲のような攻防を繰り返しているうちに、なんとなく。広尾くんと二人っきりのような錯覚に陥る。
何度目かに重ねられた彼の手の下。自分の手をクルリと裏返す。
互いの掌が触れ合う。
暗闇に慣れてきた目でちらりと伺った隣の席と、目が合う。
うれしそうに笑った広尾くんの手に、力が込められる。
私たちの手が繋がっていることを見ていたのは
ちょうど南中していた
春の大三角形だけ。