出遅れる 一歩
私の恋はいつも。一歩、出遅れる。
初恋は、小学校の一年生だった。
当時、私が通っていた学校では、三学期になると耐寒マラソンがおこなわれていた。
毎日の二校時と三校時の合間。
二十分の休み時間に、校庭を走っては、周回数を先生に報告して、シールをもらう。シールの色と枚数が、各自の“成績”として、教室に貼りだされる。
全校児童が一度に走るので、学年ごとにコース分けがされていて、一年生の私は一番内側を走ることになるのだけど。
同級生に比べて身体の小さい私には、毎日が苦痛だった。
その日も、上がる呼吸になんだか胸が痛くって。吸い込む乾いた空気の冷たさに、喉も口もカラカラで。
もうイヤだ。
歩きたい、歩きたい、歩きたい。
そう考えながら、歩くほどのスピードでノロノロ走っていた私の隣に大きな人影が並んだ。
「大丈夫か? 一年生」
見上げると、三年三組の藤原先生だった。
しゃべる余裕のない私がかろうじて頷くと、先生はジャージの袖を軽くたくし上げて腕時計を見た。
「あと一分ほどだから、もう少しガンバレ」
そう言った藤原先生は、終了のホイッスルが鳴るまで隣を走ってくれた。
校舎へと戻っていく藤原先生の後ろ姿を見送りながら、自分の頭のてっぺんを撫でてみる。
『最後まで、がんばったな』と言って、軽く頭を撫でてくれた先生の大きな手を思う。
それが、私の初恋だった。
その初恋がどうなったかといえば。
翌年の担任が藤原先生で。とにかく先生に見てもらいたくて、いろんなことを頑張った。
算数の九九も、漢字テストも、逆上がりも。
練習して、練習して、練習して。
『がんばったな』と、頭を撫でてくれる大きな手が、嬉しかった。
なのに。
音楽会の次の土曜日。
藤原先生は、
結婚した。
自分がまだ小さな女の子で。
“お兄さん”のような先生は、大人であることを。
思い知った。
自分の中で『幼かったなぁ』と、そんな初恋を苦い笑いとともに思い出す頃には、私も含めて周囲は思春期を迎えようとしていた。
と、なると。
何かの折に仲間内で恋愛の話題が出てくるようになってくる。
その日は職員会議で部活がない日だった。
同じ方向に帰るテニス部の一年生五人で、児童公園の入口に座り込んでおしゃべりに興じていた。
昨日のテレビのこと。社会科の先生の物まね。
時を忘れて、しゃべって笑って。
しゃべり疲れて、ふっと沈黙が落ちたあと。
声を潜めるようにして、来週に迫ったバレンタインデーの話題になった。
『バスケ部の原口くんが……』『二年生でサッカー部の……ほら』『いや、剣道部の吉崎くんも……』なんて会話を、ひそひそと交わしていくうちに、
「で、ヨッコは?」
と、黙って聞き役に徹していた私に、話題が振られる。
「うーん」
「伊藤くんに、あげないの?」
「ええっ? 伊藤くんって、伊藤くん?」
友人の口から出た、思いもよらぬ名前に、思わず聞き返す。
「伊藤くんが後藤くんや佐藤くんだったら、驚くわ」
韻を踏むようなツッコミに、笑いがはじける。
私も一緒に笑うけど。
転勤族の父のせいで何度も転校を繰り返しているうちに、だんだんと人の名前を覚えるのが億劫になってきた私は、今年の生徒会長が“赤木先輩”だったか“青木先輩”だったかすら怪しい。
それを『ま、いいか』で流している自覚があるだけに……ちょっと耳が痛い。
笑いながらも、しつこく『で、どうなのよ』と聞いてくる友人に、逆に尋ねてみる。
「なんで、伊藤くん?」
「だって、ほら。ヨッコ、よくしゃべってるし……」
「あれは……日直がいつも一緒で」
「いつもって。席替えで変わるでしょ?」
私の返事に、一組の隆子が首を傾げる。
「五組は出席簿順で日直だから、一学期からずっと伊藤君とペアなのよね」
「だったら、なおさら。伊藤と横田がペアになるのが、分かんない」
「男子は前からで、女子は後ろからなの」
だから出席番号一番の伊藤くんと、ラストの私がペアになる。
そして。
五組は学年で唯一、男女同数のクラスだった。
「ってことはさぁ……嫌いな子とも、ずっと一緒に日直するんだよね?」
三つ編みの先に指を絡ませながら、四組の美咲が嫌そうに顔を歪める。そういえば、先週あたったという日直の前後三日くらい、恐ろしく機嫌が悪かったっけ。隣の席の男子がボソボソ話す暗い子で、とにかくイヤだと言って。
私の場合、伊藤くんが誰とでも気楽に話せる子だから、そんな苦労はしていない。
そこから会話は、各クラスの日直事情へと横滑りしていった。
身体が冷えて、クシャミがでる。
それをきっかけに、『そろそろ帰ろうか』って地面に置いていたカバンを持ち上げる。
「ねぇ、ヨッコ」
歩きだした私と並んだ美咲に小声で呼ばれた。
「うん?」
「さっきの……」
言いよどんだ美咲の頬が、寒さのせいか上気して見える。
餅肌、っていうのかな? ニキビひとつない、友人の肌をうらやましく眺めていると、ちらりと上目遣いに視線を寄越された。
「伊藤くんにチョコ、あげないって。本当?」
「嘘じゃないって」
気楽に話せるからって、別に好きなわけじゃないし。
「じゃあ、頑張っちゃおっかなぁ」
「本気?」
「……うん」
小さく頷いて、照れたように笑う美咲。
そっかあ。美咲と伊藤くんかぁ。うん、お似合い、かも。
二人が並んでいる姿を想像して、なんだかニヤニヤしてしまう。
『皆には、内緒にしてね』という美咲だけど、さすがに一人でチョコを渡す勇気は出なかったらしく、当日は彼女に頼まれて、私も付き添った。
伊藤くんは美咲のことを、『ああ、横田とよく一緒にいる……』って認識だったみたいだけど、それでも嬉しそうにチョコを受け取っていた。
そして、学年末テストが終わった日。
『伊藤くんと、付き合うことになった』と、うれしそうな美咲の報告に、二人で抱き合って喜んで。
内緒、とは言いつつ、校門で待ち合わせて一緒に帰る美咲と伊藤くんのことは、あっという間に互いの部活仲間には知れ渡った。
美咲を待つ伊藤くんの姿を見つけては、幸せそうな美咲を皆で小突いて。
伊藤くんの所属する野球部と校門前で鉢合わせしては、
「きゃー、いとうくーん。あいしてるわー」
と、からかう野太い声に、遠慮のない笑い声が上がる。
そんな中、照れ笑いをしながら仲良く並んで話している、二人。
ああ、やっぱり思ったとおり。お似合いだ。
そう思ったのは、確かなのに。
二年生のクラス替えで、私は隆子や伊藤くんと同じクラスになったけど、美咲とは今年もクラスが離れた。
その美咲が、ある日の昼休み。ひょっこりと教室の戸口から顔を覗かせた。
彼女の姿を見たと同時に窓際の席から立ち上がった伊藤くんが、廊下へ出て行った。
『相変わらず、熱いことで』と、隆子たち仲良しグループの四人でクスクス笑っていると、
「おーい、横田ぁ」
教室に戻ってきた伊藤くんに呼ばれた。
お弁当を包みながらのおしゃべりを中断して廊下にでると、美咲が手を振る。
「どうしたの?」
「今日の部活なんだけど……」
顧問の先生からの伝言を伝える美咲の横で、伊藤くんも一緒に話を聞いている。
彼には関係ない話なのに、と思いながら相槌をうって。
「じゃあ、隆子にも、言っておいてね」
「うん、分かった」
そう答えた私の言葉に、
「そうか、清水もテニス部か」
と、伊藤くんが呟く。
「そうだけど?」
怪訝な顔の美咲に、彼がいうには。
テニス部の連絡、と美咲から聞いて、『あ、だったら横田だな』と思ったらしい。
「なんていうかさ、美咲のペアは横田だって、意識があったし」
ほら、試合の時だって、と言葉をつなぐ伊藤くんに、美咲の顔が綻ぶ。
はいはい、応援に来てましたねー。確かに、私と美咲はダブルスを組んでいるし。
そう、思う心の奥底で。
なんだか、ジクジクとした感情が湧く。
伊藤くんにとって、ついこの前まで“横田の友人”の美咲だったはずなのに。
今じゃ“美咲の友人”の私になっているんだと、思い知った気がして。
二人と別れて、お手洗いに行って。
流し台で手を洗いながら、気づいた。
私……伊藤くんのことを?
好 き ?
気づいた恋は、既に負けが決まっていて。
廊下で話す二人のほうを見ないように、教室へと入る。
鼻の奥が、痛くなるような感じがして。
慌てて、目をこする。
「ヨッコ? どうしたの?」
目ざとい友人に声をかけられて。
「うー、まつげが……」
「トイレに行ってきなよ」
「行ったけどさぁ。取れないー」
「どれ」
下まぶたを押し下げる隆子の爪が、頬に刺さる
「痛いってば」
「まだ、何もしてないじゃない」
「だってぇ」
そんなやり取りの合間に、涙がこぼれる。
目を瞬かせる。
「あ、とれた」
「そう?」
「……たぶん」
ごまかされてくれた友人にとりあえず礼を言って、お弁当箱を手に立ち上がる。
そろそろ、五時間目が始まる。
そのあとも、私の恋愛事情と言うやつは、似たり寄ったりで。
『あ、カッコいいかも』とか『ちょっと好きかも』なんて意識した相手は、必ず誰かのものだった。
彼女が居たり。
友人が『実は、好きなんだ』って意思表示をしていたり。
気づいた時点で、“負け”が決まっていた。
このまま、私は。
成就する恋愛を経験することなく、年をとっていくのだろうか。
それとも。
愛人、とかにしか、なれない運命なのだろうか。