僕の尻尾
あれから、冬夜の体に異常は起きず、まるで昨日起こった不思議なことがすべて嘘だったかのように高校生活を満喫していた。
しかし始業式の時に感じていた虚無感は、今でもまだ冬夜の心の中に残り続けている。
けれど、時間にはそんな小さなことは関係なかった。一日は呼吸をするかのように、当たり前に通り過ぎていく。
一月、まだ寒いけれども、冬夜は平和な日常を送り続ける。
二月、期末テストがあったが、いつも通り上位の成績を残すが、いつも通り一番にはならなかった。
三月、季節が移り替わる時期になり、三学期はあっという間に終わり、学校は春休みの期間となったのであった。
そして今回は、始まった春休みの最終日の話である。
冬夜は気が付くと、白い世界で一人立ち尽くしていた。
そして状況把握のために、昨日の最後の記憶をたどってみる。
昨日は春休みの宿題を終わらせた後、筆記用具と宿題をスクールバッグにしまい、電気を消して眠ったはずなのだけれど……。
(と言うことは、これは夢の中……なんだろうか)
結論が出たので辺りを見回す冬夜であったが、どの方向を見ても白色しか見えなかった。
唯一、色づいているのは自分が着ている衣服ぐらいであった。
(退屈な世界だな――)
そう思っていたとき、冬夜の耳に微かだが泣き声が聞こえてきた。
その泣き声は近づいてくるようにだんだんと大きくなっていき、それと同時に目の前に人の形をした何かが二つ見えてきた。
それは少年と少女。
二人を見たとき、少年の方には見覚えがあった。――青い防寒具を着ているその少年は、小さい時の自分の姿と瓜二つであった。防寒具を着用しているのは寒い季節だからであろう。
一方の少女は、日本人にはあり得ないほど美しい白髪を持ち、寒い季節に着るとは思えないほど、薄く白いワンピースを身につけていた。
一体今の季節はいつなのだろうか。そんなことを考えていると、ふと少女の見た目に不可解なものが付いているのが見えた。
美しい白髪に隠れるようになっているせいで分かりにくかったが、その体には髪の毛と同じ色をした獣の耳と尻尾を有していたのであった。
(あんな小さな子が……コスプレ?)
そんな訳ないよな。と冬夜は自分の意見に呆れつつ二人の行動を観察していた。
「どうしたの?」
「ふぇ……?」
幼少期の冬夜は、泣きながら立っている少女に後ろから声をかける。
泣いている少女は突然かけられた言葉に驚いたのか、しりもちをついてしまう。
そんな少女の表情には恐怖の色が浮かんでいて、冬夜のことを噛みつきそうなくらいにとても警戒していた。
しかしそんな少女に冬夜は優しい笑顔で傍まで歩く。
近くまで寄るほどに少女の顔は恐怖と威嚇が混じったようになったが、少女の前でしゃがんで口をゆっくりと開いた。
「怯えなくても大丈夫だよ」
そう言って冬夜は少女の前にそっと左手を差し出す。
すると、さっきまで怯えていた表情を浮かべていた少女の顔は少しだけ緩み、冬夜に自らの左手を差し出した。
「……立てる?」
「うん」
冬夜はしりもちをついた少女の手を引っ張る。
「……ありがとう」
「怪我はないみたいだね。――良かったら僕と遊ばないかな? 今日は遊ぶ人だれもいないんだ」
「……いいよ」
立ち上がった少女は少し恥ずかしそうにしていたが、冬夜の言葉を聞いて警戒が解けたのか、二人手を引き合いながら走って行った。
そして二人は、今の冬夜の目の前から姿を消した。
(これは……僕の記憶なのだろうか?)
これは自分の夢の中。けれどもこの夢の感触には現実味があり、とてもただの夢と結論付けてしまうには不安があったのだ。
けれども冬夜自身はこんな思いでは持っていなかった。昔のことだから忘れてしまっているのかもしれないけれど。
すると、消えていた二人の姿が再び見えてきた。
二人は何やら雪をお互いに持ち出して投げ合っている。あれはどうやら雪合戦らしい。
あんなに楽しそうに遊んでいると言うことは、あの後に仲良くなったようだった。
「行くよ!」
「わぁっ!? びっくりした……」
冬夜が作った柔らかい雪玉は少女に命中し、少しだけ体の上に残った。体中に乗っている雪を体を震わせて少女は振り払う。
そして少女は足元にある雪を適当に手に取ると、冬夜の見よう見まねで球上にしていく。雪玉を作った少女は、仕返しとばかりに雪玉を冬夜に投げつける。投げつけた球は冬夜に命中し、その威力でよろめいた冬夜は後ろに倒れた。
そのことを心配した少女は冬夜に向かって小走りする。
「大丈夫、冬夜!?」
「あはは……、強いなぁ」
冬夜は笑いながら体に分散していた雪を両手で払いのける。
そのそばでは、心配の必要がなくなったおかげで安堵している少女の姿が映った。
さっき会ったばかりの少女の顔には、すでに警戒の色は完全に解け、冬夜のことを信頼しているのがうかがえる。
そんな光景に、立ち尽くしている冬夜はどこか羨ましくなってしまう――。
そして再び彼らは姿を消していた。
(こんな思い出があったなら、きっと忘れなかったと思うのだけれどなぁ……)
あんな可愛い子とあれだけ遊んでいたなら、自分の記憶からは離れないはずなんだけどな。と自分の記憶力がどれだけ甘いものだったのかを後悔するのであった。
今の冬夜にはこれが夢だという感覚は消えていた。
そう。これは小さかった頃故に忘れていた記憶。そう思いながら冬夜はこの夢を見続ける気でいたのだ。
そして今度も自分と少女がまた違った感じに出現した。
今度の二人は新聞紙をくるめた棒を一本ずつ持っていた。今回の遊びは俗に言う『チャンバラ』なのであろう。
突然、向かい合った二人が動き出したので、冬夜は考えるのをやめてチャンバラの景色を見学することにした。
二人は距離を詰めるようにお互いのスピードで走る。しかし体格差ゆえなのか、少女よりも冬夜の方が足が速かった。
そしてお互いに新聞紙で作られた刀をぶつけ合う。火花が散りそうな勢いで彼らは戦いあう。
一歩も引かない両者の力は互角の様で、二人は軽く後ろに飛び、再び雪の上を蹴るようにして前に飛ぶ。
二人は防御を捨てるようにして相手の急所を、相手から一本を取れそうな場所を狙って振りかぶる。
互いの狙った場所は違うようで、さっきのようにぶつかることはないだろう。
あとはどちらの動きが早いかで決着が決まる。
子供同士の遊びだというのに、そのあまりにも達人めいた動きに、冬夜は瞬きを忘れ、固唾をのんで二人の決着を見守っていた。
ぱんっ! と間の抜けた、新聞紙独特の音が冬夜の視覚よりも遅れて耳に届いた。
攻撃を命中させたのは――――少女の方だった。
ここは普通戦いに決着がついたことによって、歓喜するべきなのだろうけど、過去の自分が女の子に負けていたのかと思うと、あまり素直に喜べないようだ。
すると、さっきの衝撃でやられていた幼き冬夜は笑顔で立ち上がる。
「あちゃー。負けちゃったか」
「冬夜、どうしてあの時手加減したの?」
少女は冬夜に向かって非難の眼差しを向ける。一方の冬夜は図星の様で、少女から目線をそらすと困ったような笑顔を浮かべていた。
しかし少女は諦めずに再び追求する。
「さっきの冬夜の動き、どこか変だった。もう片方の手が何か足りないように動いていたし」
「それは……その」
「もしかして、本当は二本持った方が強いんじゃないかな?」
そう言った少女は冬夜に自分の新聞紙を持たせて動くように指示する。
すると冬夜はさっきまでの動きとは段違いの速度で斬撃を繰り出す。まだ子供故のぎこちなさがあるが、それでも才能があるのを垣間見せるには十分の実力だった。
これを見ている冬夜自身も初めて知った自分の才能に驚く。――それなりに何でもできる自分にこんな才能があったとはと驚愕したのだ。
「冬夜、強いんだね」
「そんなこと……ないよ」
そう言って、冬夜は一拍おくとのどに何か詰まっているかのように口ごもる。
「あのさ、僕は…………きみのことが好きだ」
「そう、なの?」
唐突な愛の言葉に、幼い少女は戸惑いを隠せず、言葉がどもってしまう。
「うん。だから、僕は君のことを守れるようにこの力で守って見せるよ。――――そしてずっと君を守れるヒーローになるんだ」
真剣な冬夜の瞳には、炎のように情熱的な覚悟が宿っていた。
その気持ちがうれしかったのか、少女は冬夜に柔らかく抱きつく。
見ているこっちが恥ずかしくなってしまうような光景に冬夜は目をそらしていた。
(でもこれは……子供の時だけの感情なんだよな)
忘れていた思い出を複雑な気持ちで見ていた冬夜は、ある意味今まで覚えていなくて良かったかもしれない思い出だったなと照れながら心の隅に置いておく。
そして冬夜の記憶をたどる夢の旅は続いた。
少女と遊んでいた日々。
少女と二人で笑った日常。
少女を怒らせてしまったが、それを許してくれた少女の笑顔。
さまざまな記憶を見てきたが、その物語も――――終わりを迎えようとしていた。
「冬夜、あそぼう!」
「……」
再び現れた少女は、幼い冬夜に言葉を掛けるが、一方の冬夜の顔は暗かった。
どうして? と少女が聞こうとしたとき、冬夜は重い口を開いた。
「もう……遊べないんだ」
それを聞いた少女の顔が無表情に変わり、楽しそうに動いていた尻尾や耳は、悲しみをたたえるようにしゅんとし始める。
「どうして? 私のことが嫌いになったの……?」
それでも、少女は冗談だと思いすぐに笑顔に切り替わる。――冬夜の言葉が、冗談か冗談じゃないかぐらい分かっているのに。
――ごめん、僕は君のヒーローになれないみたいだ。
冬夜は少女から遠ざかるように逆方向に向かって走る。
本当の答えを聞かせてもらっていない少女は、気が付くと冬夜を追いかけるために走っていた。
あれだけ遊んでおいて、自分が冬夜よりもかけっこが遅いことを分かっているのに。それでもなお少女は冬夜を追いかける。
それでも現実は時として残酷だ。
少女が、冬夜に追いつけるわけもない。
冬夜は離れていき、消えてしまった。
消えた冬夜を追いかけるのをやめた少女は、地面にぺたんと膝をつき、両手で顔を覆っていた。だれかに自分の今の表情を悟られまいとするように……。
覆っていた手の隙間から涙がぼろぼろと地面にこぼれ落ちた。
「ひとりぼっちは……もう嫌ぁ……。――わたしの……大切な……」
冬夜。
彼女はとても悲しそうに――――自分の名前をつぶやいた。
離れている場所にいるはずなのに、冬夜にとって少女の声は耳元でささやかれたかのように鮮明であり、心にとても響くのであった。
そして冬夜はこの場面を見ながら思い出していた――どうしてこんな結末になってしまったのか。
それは十二年前……冬夜が当時五歳の頃の話だ。
冬夜はずっとこの町に住んでいたのだが、次の年だけ父の仕事の都合上で、田舎のこの町から都会に家を移した。
そして季節は……今見ている風景と同じ冬だ。
三学期の始業式以来感じていたあの感覚が――少しだけ埋まるのを冬夜は感じていた。
どうしてだろう。自分は忘れていたのだ。あんなに大切にしていた記憶なのに、いつの間にか記憶から消えていたのだ。
(最低だ――――)
冬夜は泣きじゃくる少女のように地面に突っ伏し、大切な記憶を忘れていた惰弱な自分にひどく絶望した。
ここまで自分の記憶を見ておきながら、冬夜はあの子の名前を思い出せていないのだ。
悲しみに打ち震える中、夢の中で石が転がる小さな音が耳に届いた。
気付いた冬夜が顔を上げると、少女が音と共に立ち上がっている姿が目に映る。
そして顔を片手でふさぎながら、自分の足で少女はどこかへと向かう。
歩いてたどり着いた先は……どこかの森だった。けれども、子供の時に自分がいけるところなんてたかが知れているので、おそらく近所であろうと冬夜は思った。
そして少女は泣きながら森の中に進む。
森の中はとくに荒れているわけでもなく、まるで彼女が来ることを歓迎しているかのように少女の邪魔をする物はいなかった。
そして奥まで進んだ少女の目の前に光が見えてくる。
次の瞬間少女とそれを見ている冬夜の前に美しい光景が広がる。
暗い雲に覆われた世界。その場の一面には白い雪の積もったもう一つの世界が見えた。
そして雲の中から一筋の光が地面に落ちたとき、少女はゆっくりとその場所へ歩き出す。
歩いた先には光が雪に反射して、宝石のような輝きを放っていた。
少女はその場にワンピース一枚の体を丸めて寝ころぶ。瞳から流れる涙はいまだに止まっておらず、少女の頬をつたって雪に流れる。
その時、彼女の心の中の声が耳元で響き渡る。
『こんなにつらい思いをするのなら、出会わなければよかった』
『昔のような思いをしなければならないなら、私は消えればよかったんだ』
『そうだ……私が消えてしまえばよかったんだ』
その少女の言葉が、冬夜の心に氷の棘のように冷たく突き刺さる。
冬夜の心の中に激しい拒絶感が現れ、冬夜は自然と少女の方に手を伸ばすが、離れすぎていて届かない。
その間に少女は光につつまれ、消滅への道をたどり始めた。
届かない手を、夢の中だと知りながらも冬夜は必死に伸ばす。――彼女を救い出すために。
「止めてくれ! 君が死んだら僕は――――!」
そのあとの言葉がどうしても浮かばなかった。
見つからないのだ。彼女を止めるための言葉が。
『そうだ……、私が消えたら冬夜の記憶も消しておこう』
彼女はそうつぶやきながら、強く目を閉じる。最後に願いを残しながら。
――それでも、冬夜が……私のことを覚えてくれているといいな。
「お願いだ。行かないで、きな――――――!!」
瞬間、冬夜の記憶は彼女の昔の名前を思い出したのだった。
気がつくと、冬夜はベッドの上で寝汗をかきながら体を起こしていた。
あんな夢を見ていたせいで呼吸が荒くなっているのを今更感じながら頭を整理する。
今の時間は――冬夜はスマホに手を伸ばす。時計は午後五時を指している。どうやら今日一日のほとんどをベッドで寝過ごしていたらしい。
「……なんて酷い夢なんだろう」
寝汗を手で拭き取りながら、冬夜は自嘲気味に笑ってつぶやく。
それでも――彼がいまから行うことはそれ以上に馬鹿らしいことのはずだ。
冬夜は寝間着を脱ぎ捨てて、部屋のタンスの中にしまってある私服を取り、即座に体に身に着ける。
準備の出来た冬夜は、うるさくならない程度の軽い早足で階段を駆け抜け、玄関の扉を目指した。
偶然、廊下を歩いていた母さんと顔を合わせると、母さんは驚いたように口を開く。
「冬夜君、起きたのね。ご飯はあるけど――ってどこに行くの?」
「忘れていた約束を果たしに行ってくる」
そう言って、冬夜は「いってきます」とも言わずに玄関の扉を勢いよく開く。そしてその勢いと共にどこかへと走って行ってしまった。
もちろん、冬夜の目指す場所は一つなのだが、母親にはわからないだろう。
「たくましくなったわね……冬夜君」
いつの間にか心身ともに成長していた息子の背中を記憶に焼き付けながら、冬夜の母は優しく微笑んでいた。
「たぶん、こっちの方角のはず」
冬夜はあの夢で見た少女の歩いて行った方向。つまりは冬夜の家から逆方向の道をいけば少女の入って行った森に出会えるだろうと考えたのだ。
冬夜は道と言う道を走り抜ける。彼女に会いたいがために――あの時届かなかった手を今度こそは引けるように。
そして三十分後。
そろそろ走りつかれていたとき、冬夜は一つの森に遭遇する。
「こんな森……今まであったかな?」
冬夜の瞳に映る森は、夢の中で見たあの森と同じものであった。
気付かないうちに開いていた口を閉じた冬夜は、喉の奥で詰まっている感覚を取り除こうと唾を飲み、森の中に駆け込む。
森の中は夢の中で見た物とは違い、とても荒れていて歩くことすら困難であった。
冬夜は暗い森の中で散らかっているツルや木の枝をかき分けながら、奥の方へと歩いていく。
歩く途中、疲れが来たのだろうか。少しふらついたけれども、彼女に会いたい気持ちがある冬夜は止まることなく道なき道を進む。
進んでいくうちに、道の先に光が見えた。
それに向かって走るが、焦っていることもあり木々にうまく邪魔されて動けない。
(あと――もう少し!)
邪魔な草木を無理やり引きちぎった冬夜は、光が差す入り口へと向かった。
その場所は、春ということも忘れるくらいの雪一面で覆われていた。
間違いない。夢で見た場所と同じだ。
冬夜は彼女を探すため、雪の中を歩くには不向きな運動靴で雪を踏みしめながら辺りを見渡す。
けれど、空を雲が覆っているせいで、どこに何があるのかが暗くてあまり分からない。
辺りを適当に探していたとき、雲が割れて光が差し込むのが見えた。
冬夜は、光の指した場所に彼女はいると思い、息を切らせながらもその場所まで全力で走った。
光が差した場所には――――彼女が寝ていたのであろう雪のくぼみができていた。
「こんなのって……あんまりだよ」
冬夜は夢の中で彼女が寝ていた雪を手に取った。その雪は冷たいはずなのに、彼女がさっきまで眠っていたように錯覚するぐらい暖かかった。
その暖かさに、冬夜の瞳は涙で潤っていく。溜まった瞳の涙は雪の上に落ち、雪の中へと溶けてしまう。
自分の悲しみも――こんな風に溶けてしまえばいいのに。
「くっ……あぁ……」
あまりの悲しみに嗚咽を漏らしていたとき、がさっと茂みが揺れる音が聞こえてきた。
緊張感を含みながらその方向へ顔を向けると、
ふわりとした白い尻尾のようなものが見えた。
「――――!」
冬夜は彼女の名前を呼んだ。
忘れてしまっていた彼女の名前を大きな声で叫ぶ。
彼女の耳に、彼女の心に、自分の声が届いてくれますようにと、願いながら。
すると、茂みの中から小さな尻尾が姿を見せた。
そこには、昔も今も可愛らしい彼女の姿と白い尻尾が揺れていた。
「きな――――――!!」
「とうや!」
彼女の前まで走っていく途中で頭に痛みがしたけれど、それは少しずつ和らいでいき、それと同時に今まで忘れていた記憶をすべて思い出した。
今と昔が交差した記憶の中でも、冬夜は迷わず彼女のもとへと走る。
彼女を想う気持ちに、偽りなんてないのだから。
そして冬夜は、小さく儚い彼女を自分の腕の中で強く抱きしめた。
「僕……全部思い出したよ。――きな」
「嬉しい……。わたしはとうやを信じていてよかった」
抱き合った二人の間には、何者にも邪魔できない愛が広がっていた。
「僕は……今と昔の君に、ヒーローになる約束をした。だから今度こそ、僕は君を絶対に守ることをもう一度だけ永遠に約束するよ。もう何も迷わない」
「とうや?……何を言っているの?」
やはり、彼女は昔のことを覚えていない。
今日見たあの時のことが本当なら、彼女はとっくの昔に死んでいるのだから。
けれども、こうして冬夜の前に立っているということは、何かしらの力が働いて消滅しなかったということだ。彼女が『四気神』だったことが冬夜にとって最大の救いだった。
その代償に、あの時の記憶を失ってしまったようだが。
でもそれでいいんだ。冬夜は愛が満ち溢れている心の中でつぶやく。
『君が生きてさえいてくれれば、僕は約束を果たすことができるんだから』
それと同時に自分の想いを伝えることができる。
僕は……世界で一番の幸せ者だ。
小さいきなを強く抱きしめながら、冬夜の心は嬉しさに包まれていた。
この暖かさを……もう二度と失うわけにはいかない。
だから、誰にも負けないくらいに強くなって、本当の彼女の騎士になるんだ。
「にゅぅ……!? 痛いよとうや」
「あっ、ごめんきな」
「お忙しいところいいかな?」
コホン。と後から咳ばらいの音が聞こえる。
後ろの方を振り向いてみると、そこには久しぶりの天野さんの姿があった。顔はいつもと同じような優しい表情だ。
「お久しぶりですね、天野さん」
「そうだね冬夜君。でも私は君に謝らなきゃいけないんだ」
自嘲気味に笑っている天野は、急に話を切り出す。
「記憶の封印のことですよね」
「……わかっていたのか」
「えぇ。今思うとあの時起こったことのほとんどが不自然でしたからね」
「そうか。なら話ははやい。きみに一つ選択をしてもらおう」
唐突なやり取りを終えた後、天野は冬夜に意味深な言葉を投げかける。――それは世界を変える程の選択だというのに、天野は余裕しゃくしゃくな顔で言い放った。
「君がきな君を保護していたときに、きな君の容姿で悩んでいたのは知っていた。だからこれは君に対しての私の褒美として選んでくれ。きな君が不自然ではないような世界か、きな君が他人の目からして人間のように見える世界か。君にはその選択を選ぶ権利があるんだ」
そう言われた冬夜は、頭の中で少しだけ考える素振りをするが、すぐに天野に回答を言い渡した。
「もちろん、『きなが不自然ではない世界』を選択します。僕の周りの人たちには、今のままのきなの姿を見て欲しいですから」
「とうや……」
冬夜はきなの頭を優しくなでながら、迷いのない瞳で堂々と答えた。
すると天野はまるで分っていたかのようににやりと笑顔を見せる。もしかしたらあの笑顔は、この選択をしてくれてありがとう。と言う意味かもしれないなと心のどこかで考えていた。
「それじゃあ私の神様業、最後の大仕事をしよう」
「……何をするつもりなんですか!?」
「もちろん、この世界を君が望んだ世界に少しだけ変えるだけだ。もっとも、この力を使えば私はもう神であることはできないけどね」
天野はさっきの笑顔を崩さずに冬夜に言った。自分の人生が大きく変わる瞬間でもあるはずなのに。
それにあの人には子供だって――――!
「そこは大丈夫。もう対策は立ててあるからさ」
そうして天野は両手を広げて何かを唱え始める。
その綺麗な声は、小鳥が歌っているかのように美しく、心が安らぐようだった。
一通りの詠唱が終わると、天野の体が光に包まれていく。
あまりの眩しさに、冬夜ときな目が開けられなくなった。
「さようなら二人とも。またどこかで会えるといいね」
天野の別れの言葉を最後にして、冬夜の意識は消えていく。
白い月がほほ笑んでいたあの夜――――世界が変わった。
四月
「行ってきます!」
家の中から一人の少年、柴咲冬夜が制服を着て自転車に荷物を乗せた後に走り去っていった。
今日は学校で始業式が始まる日だ。
冬夜は少し楽しみにしながら、咲き誇る桜道の中をゆっくりと走る。
しかし、道を歩いている人々は気にしていないが、自転車で走る冬夜だけは違和感を覚えていた。
昇降口をくぐった後、自転車を置き場に止めた後にクラスへの階段を上る。
(そういえば……今日から学年が一つ上がるんだよなあ)
大切なことを思い出した冬夜は、昇ろうとしていた階段を上るのを中止して、足の向きを変えてその階の廊下を進む。
クラスの前までたどり着いた冬夜は、少しどきどきしながらドアの前に立った。
(どうか、あまり変わっていませんように)
冬夜は願いをかけながらドアを静かに開く。
そこには――――以前とは違った自分のクラスがあった。
確かに今までのように普通の人間がちらほらと席に座っている。
しかしそこには人間ならざる者達も存在していたのだ。
頭部には獣の耳、制服のズボンやスカートから覗くのは尻尾。
そう――――この世界は異種間どうしの共存が可能になった世界となったのだ。
簡単に言えば、ケモ耳が生えている人間がいるのが当たり前。そういう環境へと一日にして変化したのであった。
そしてそれを知っているのは……このクラスでは唯一冬夜だけで、違和感大有りである。
若干顔ぶれが変わってしまっているクラスメートたちを見ながら、冬夜は自分の席に着いた。
「おはよう、城ヶ崎さん」
「おはよう冬夜君」
僕の隣に居る彼女……城ヶ崎唯は、世界の改変の影響を受けなかったらしい。それだけが冬夜の救いだった。
いなくなってしまうと実感して、人間はそれを大切なものだと実感するんだなと改めて感じたのだ。
安心していたのもつかの間、後ろの方から人の気配を感じた。
と言っても、一昔前の自分だったらわかんなかっただろうけど。と冬夜は自分が人間離れしていくことにも不安を持っていた。
「おはよう冬夜!」
「おはよう、諦」
後ろから冬夜を驚かせようとした青年、新城諦はばれたことによってがっくりとしていたが、すぐにいつもの笑顔へと戻り挨拶をした。
「それよりも聞いてくれよ冬夜、このクラスに今日から転校生が来るらしいぜ」
「そ、そうなんだ」
冬夜は諦の言葉を聞いて、いったいどっちの方の人間が来るんだろうかと内心不安になりながらあきれながら、自分の後ろの空席を横目で眺めた・。
すると、いきなり着席のチャイムが鳴りだして諦は急いで自分の席へと走って行く。
それと同時に冬夜も自分の席に座り、先生が来るのを待つ。
そして教室の扉が開き、担任の先生がいつものように真面目そうな顔で入ってくる――のだが。
入ってきたのは――老年の教頭先生の姿だった。
「えぇー、皆さん。今日はすぐに始業式が始まりますので、すぐに体育館に向かってください」
入ってきた教頭先生は、用件だけ話すとすぐに廊下に出て行ってしまった。
仕方ないので、冬夜も体育館履きを持って体育館へと向かう。
途中で諦が「もしかして転校生来ねぇのかね」とか言っている間に体育館に早く着いてしまった。
そして開会式が終了し、いつものように長い校長先生の話が終わると、新しい担任の先生を決める式へと移った。
すると職員の説明の終わりの方に、一人だけは都合により遅れてくる。という話を聞いて閉会式が幕を下ろした。
そして元の担任の先生はと言うと、別のクラスの担任となっていた。
クラスへ帰ってきた冬夜たちはホームルームのために席に着く。
隣の城ヶ崎さんが前を見ながら退屈そうにしているのが見える。
暇だからクラスでも見渡そうかな、と思っていた矢先、教室の扉が勢いよく開いて大きな音を立てた。あまりの大きさに少数の生徒は耳を両手でふさぐ。獣耳の場合効果があるかは不明だけれど。
開いた扉の横には、冬夜が知っている顔があった。
「みなさんおはよう! 私は今年からこのクラスの担任となる天野っていいます。今日からあと一年しかないけどよろしく!」
「なんで……天野さんがここに?」
あまり聞こえないように言ったので、天野さんには届かないだろうと思って発言したのだが、
「やぁ冬夜君、君の疑問はあとで聞いてあげるから、今は転校生の紹介をさせてもらうよー」
一瞬、担任の先生とどんな関係かと聞かれそうになったが、いきなり現われてクラスを混乱に陥れた天野は、すぐさま噂になっていた転校生の話を持ち掛けて来たおかげで、めんどくさいことにはならなかった。
本当にまったくなんなんだろうか……。
「それではみんな静かに。――――それでは入ってきて」
天野の掛け声とともに静かになったクラスに小さな女の子が入ってきた。
女の子の頭には長く白い髪、この学校で一番小さいであろう体を制服で身を包み、足には太股まで隠れる白いニーソックスが男子の眼を引く。
小さな足音を立てながら、少女はその小さな足で教卓の真ん中まで歩くと、前を見て楽しそうな笑顔を浮かべて足を止めた。
その少女の笑顔は、冬夜が絶対に忘れることの出来ない人物だ。
「それじゃ、自己紹介をどうぞ」
冬夜は口をあんぐりと開けたまま固まる。
そんなことはほっといて、天野のお決まりな台詞に少女は呼吸を整え、元気な声を出して自己紹介を始める。
「わたしの名前は四季上きなっていいます。これからよろしくお願いします!」
可愛らしい声が響く春先の教室に、きなの白い尻尾が嬉しそうに揺れていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
一応これで僕と尻尾編は完結となります。次章は本格的に冬夜が彼女を守るために奮闘する『僕と尻尾の恋戦編』が始動!
頑張りますのでよろしくお願いします!!