雪溶けの先に見えたのは
「いってきます!」
元気な声を上げながら、制服の上に防寒具を着用した少年が、家の扉を勢いよく開いて外へ駆け出す姿が見える。
走っている学生の名前は柴咲冬夜。
ごく普通の生活を送り、ごく当たり前の人生を歩んできた高校二年生の少年。しいて変わっているとすれば、人よりも少し器用なことだろう。
短い冬休みも終わりを告げて、今日は通っている県立高校で始業式が訪れる日である。
少し寝坊気味なのか、冬夜は荷物を自転車かごに入れるとすぐさま自転車にまたがり、雪がいまだに残る道を通って、急いで学校へと向かうのであった。
学校に着いた冬夜は、自転車置き場に自転車を止めると、昇降口に向かって小走りしながら持っていたスマホの時計を確認する。チャイムが鳴るに早い持間で、どうやら遅刻は免れたみたいだ。
下駄箱を開けて、靴から学校用の上履きに履き替えると、二年になったことによってある程度短くなった階段を少し早足で上る。
自分の教室の前まで来ると、教室のドアが開きっぱなしなことに気付いた。そしてそのまま教室の扉をくぐっるように中に入る。
中に入った冬夜は、冬休みの間会えなかったクラスメートと久しぶりの挨拶を交わすと、朝の疲れが残っているのか少々疲れ気味に、学校の校庭側に位置する自分の席にゆっくりと座った。
久しぶりの学校の感覚に感動しながら、ふととなりの席を見てみると、最後の席替えから隣に座っている女の子が、自分よりも先に席に座りながらどこか宙を眺めていたのが見える。
冬夜は二学期以来会っていないその女の子に挨拶すると、女の子はこっちを見て微笑を浮かべながら挨拶を返した。
「おはよう」
「おはよう冬夜君。冬休みは充実しましたか?」
「まぁ……それなりには充実したよ。そっちは?」
「私は両親の実家で過ごしていました」
「へぇ、いいね。僕なんかは寝過ごしたせいで両親に旅行に置いて行かれたよ。まったく、どこのホームアローンなんだろう……」
「……それはすごく気の毒ですね」
となりで座っている少女は冗談だと思っているのか、うふふ、と笑っていた。
(冗談じゃなくて、本当に置いて行かれたんだけどなぁ……)
心の中で冬夜がため息をつくと、後ろから何か暖かいものが覆いかぶさってくるような感覚を感じた。 不思議に思った冬夜はさっと後ろを向く。
そこには小学校の時から幼馴染の男友達兼親友が楽しそうに笑いながら冬夜に覆いかぶさっている。――どうやら今言っていた話が聞こえていたらしく、親友はそのことに笑っているらしい。
「よぉ冬夜。今年の冬休みは災難だったみたいだな?」
「まったくだよ。冬休み初日に旅行に置いて行かれるはめになるし、冬休み始まって八日目の日はなんか体が痛かったし」
「体痛いって、お前いったい何してたんだよ?」
「冬休みの宿題をしている途中に寝てしまっただけなんだけど、起きてみたらなぜか体が痛かったんだよ。寝違えたかな」
「まぁ気にするなって。人間そういうときもあるさ」
そう言って、冬夜の親友は楽しそうに笑い声を上げた。教室の一角で笑う少年のぼさぼさの黒髪が楽しそうに揺れるのがクラスのみんなに注目される。
笑い声が終わると、教室に設置してあるスピーカーから聞きなれた「きんこんかん」とチャイムの音が学校中に響いた。
そのチャイムは朝のホームルーム開始の合図らしく、教室で話し合っていた者達は、先生が来ないうちにと急いで席に着いていく。
誰かが閉めた教室の扉をガラガラと開く音が聞こえると同時に担任の先生が入ってくるのが見えた。真面目そうな眼鏡を掛けた先生だ。
先生は教卓の前まで来ると、出席簿を音を立てながら放ると教室中を眺めながら挨拶をした。
「みんなおはよう。冬休みは一人一人が充実した生活を送れたかは先生わからないから、教えたい奴だけひっそりと先生に教えてくれ。……それじゃすぐ始業式が始まるから、体育館履きを持って体育館に集合」
先生の話(話と言うほど長くないが)が終わると、冬夜を含む教室のほとんどが体育館に向かうために廊下に出た。
その様子を眺めていた冬夜も、ロッカーの中に入っている体育館履きを取り出すと、ゆっくりと体育館へ足を運ぶ。
すると後ろから不機嫌そうな顔をしながら親友が歩み寄ってきた。
「おい冬夜、置いていくなよ」
「ごめん。少し考え事してた」
「なんだよ考え事って? 彼女でもできたのか?」
「……そんなわけないだろう。幼稚園の頃から今に至るまで一度もラブレターを貰ったことが無い僕が貰えるわけないじゃないか」
自分のトラウマを語り終えると、冬夜は親友の前でわざとらしくため息をつく。
親友はばつの悪そうな顔をしたが、すぐにさっきのようにへらへらした顔つきに戻るのであった。
「そういう君は、冬休みの間に彼女でも作ったの?」
「いや……、冬休みの間暇だったから色んなところに行ったけど、自分のタイプの女の子はどこにもいなかったぜ。理想って現実にいないもんだな。その点アニメって素晴らしいよな……」
うんうん……と腕を組みながら親友は一人納得してしまった。
(また始まったよ……。まぁ慣れたんだけれどさ)
冬夜が言っていたアニメに詳しい友達と言うのは。どうやらこの親友のことを言ってたようだ。
そんな風に冬休みの間に起こったことを楽しく話していると、いつの間にか体育館にたどり着いた。
持ってきた体育館履きに履き替えると、先生に言われている場所まで歩いていく。親友は場所が離れているのか、離れた場所に行ってしまった。
体育館に着いてから数分後、開会のあいさつに始まり、校長先生の長い話、連絡事項の説明がだらだらと進められていく。
冬夜はそんなことは聞かず、体育館の床に体育座りをしながら一つ疑問に思っていたことを考えていた。
それは自分の冬休み中の思い出である。
確かに自分は冬休みの間に家族に置いて行かれ、家でごろごろと生活し、カズキ君達とワンパークにピクニックに行って、元旦に一人初詣にも行った。
けれど、その思い出にはどうしてか実感が湧かないのだ。自分の思い出なのにおかしい位自分の思い出じゃないように感じるのだ。
それはまるで、誰かに記憶を操作されているかのように。
(でもそんな訳ない。だって僕のこの世界は普通の世界なんだ。アニメや小説のような魔法が煌めくような世界じゃない。だからその可能性は極めて低い――――いや、無いはずなんだ)
体育座りをしながら冬夜は自分に言い聞かせた。
そう思うのは気のせいだ。――――そう気のせいなんだと。
けれど、心の中には何かが開いているかのような虚しい感覚は、冬夜にチクリと刺さり続けるのであった。
始業式が終わり教室に帰ってきた冬夜は、冬休みの間にやった宿題を先生に提出し、静かに席に着くと、ほかの人の提出が終わるまで冬空を眺めていた。
しかし、空を眺めていてもさっきのことが気になり続ける。
ぽっかりと空いたこの感覚は、冬夜にとってとても不快であった。
「どうしたのですか? そんなに怖い顔をして」
声が聞こえてきたので、冬夜は声の主がいるであろう方向に向いた。
「そっちに私はいませんよ?」
「……ばれたか」
声の主……となりに座る少女の方向とは斜めの方向に向いていた冬夜は、しぶしぶ少女のいる方向に体を向き直す。
提出の終わった少女は、肩ぐらいまで伸びた明るい黒髪をいじりながら座っていた。
「冬夜君。どうして渋い顔で私の方向に向き直るんですか……?」
「いやいや、冗談だから。あまり気にしないで」
「聞き直しますけど、どうしてあんな怖い顔をしていたのです?」
「それは……」
さすがに、「実は最近、心が乾いているんだ。その渇きを潤すにはいったいどうすればいいんだろうか……君に答えを見つけてもらおうかな?」なんて、女の子には死んでも言えない冬夜であった。
そして適当なことでその場をしのぐことに決めた。
「そらにUふぉ……」
「私に嘘をつく顔をしていますよ冬夜君」
適当なことを言おうとした冬夜に最後まで言わせず、少女は電光石火の如く冬夜の口を封じた。
(ソッコーでばれたっ!?)
冬夜はその驚きが隠し切れず、思わず顔に出てしまった。
その顔を見た少女はおもむろにすね始めてしまった。――こちらも的確な返しをしないとまずいと感じた冬夜は最善策を頭で考える。
「……すごいね。僕の顔を見ただけで嘘をついているかわかるんだ? そんなに僕のこと観察していたの?」
「……っ!?」
冗談交じりで言った一言に、少女は驚いた顔をした後、咳き込んでしまった。
冬夜は少女の背中を後ろからさすりながら考えてしまった。
(そんなに変なこと言ったかな……)
なんでもないよ? とうや。
瞬間。声が聞こえた気がした。
冬夜はそのことに驚くと、少女の背中をさするのを止め、辺りを見回してさっき聞こえてきた声の主と思われる人物を探す。
しかし教室中を見渡しても、声の主と思われる人物はいない。クラス替えになってもう一年は経つが、それでもさっきのような――――幼い少女のような声をした人物を冬夜は聞いたことが無かった。
「けほっ、どうかしたの……冬夜君」
さっきまで咳き込んでいた少女は、不安そうに冬夜を見た。
それだけではない。
鋭い視線で教室中を見渡していたせいか、離れて席に座っている生徒も、これから宿題を提出しようとしているクラスメート全員が、不思議そうに冬夜のことを奇異な視線で見ていた。
「どうかしたのか、柴咲」
その異変に気付いた先生は、いつもよりも少しだけ険しい表情で冬夜を眺める。
いきなりのことにパニックに陥っていた冬夜は、その言葉に対してどんなふうに返そうかと言うことも考えることができなかった。
教室と言う世界の中に一人取り残されたような気分であった。
どうしようかと冬夜が困っていたとき、まるでヒーローのように一人の男が颯爽と冬夜の前に立った。
「いやさぁ、こいつ冬休みが終わって少し気張ってたんだよ。ほらこいつってクラス替えの時の自己紹介の時に、『一番好きなものは冬です!』とか言い出すくらいだからさ。冬が終わるのが嫌だったんだろうな、」
あはは。と笑いながら冬夜の前に立った親友は、手をひらひらとしながら笑顔でクラスメートに弁解してくれた。
すると、そのことを理解したクラスメートは――。
「そうだよな、柴咲だもんな」
「そうだったね。あの時の自己紹介は笑ったけどね……」
とそれぞれが笑いながら再びそれぞれの行動を始めた。
(良かった……)
最初の自己紹介の時に得た信頼と、最高の友達を持ったおかげで危機を脱出できたことに心底安心するのであった。
しかし、一難去ってまた一難。
冬夜が席に座ると、隣の少女が冬夜に寄って来て不思議そうに言った。
「珍しいですね。冬夜君があんなに取り乱すなんて。……もしかして私のせいですか?」
「そんなことはないよ。それにむせているのをあのまま放っておいちゃったけど、大丈夫だった?」
「私は大丈夫です。少し驚いただけですから」
(ほっとかれたのは正直悲しいですけど)
そんなことを想いながらも、少女は優しい笑顔を浮かべてそう言った。
「そういえば、さっき言っていたことだけど……」
「もう忘れてください!」
始業式と言うこともあり、今日は午前中で学校が終わりのようだ。
冬夜が帰り支度をしていたとき、後ろから誰かに背中をぽふっと叩かれた。冬夜にこんなことをするのはアイツしかいなかった。
「よぉ冬夜、一緒にどっか寄って行こうぜ」
「そうだね。僕は君にお礼もしなくちゃいけないし」
「別に気にしねえよあれくらい。それよりも早くどこか出掛けようぜ!」
そう言われ、冬夜は親友と共に廊下に出ると、スマホでメールを打ち始めた。
ポチポチと画面を押して、『今日はお昼ご飯要らないからよろしく』と入力して母親に送った。
スマホをポケットにしまうと、先に進んでいる親友を追いかけるように歩きながら冬夜はお礼を言った。
「さっきはありがとう」
「だから良いって。お互いいつも助け合ってんだからさ」
「そうだね。でも今日は本当に助かったよ」
「珍しいよな。冬夜があんなに取り乱すなんてな。いつもならあれくらいなら軽く返せるのにさ」
そう。いつもの冬夜ならあれくらい「ちょっと目力の確認してた!」とか適当なこと言って何とか乗り越えることもできた。
だから、親友は不安そうに冬夜のことを見ていた。――――冬夜の不安を振り払ってやりたい、と言わんばかりに。
「悩みがあったら言ってくれよ。俺は自分の正義の範囲内ならお前の味方でいてやれるんだから」
「範囲外だったらどうする?」
「もちろん、間違っているであろうお前のことを殴ってでも引き戻してやるよ」
「それって少し自己中じゃないか!?」
そうして、冬夜の親友は顔に笑みを浮かべながら、冬夜の少し前を歩き始めた。
でも冬夜は憧れているのだ。
普段はへらへらしているのに、いざと言うときには頼りになる目の前の最高の親友に。
自分もこんな風に、大切な人を守れるようなヒーローになりたいと。
「ぐぁっ! あぁぁああぁあああああぁあ!?」
「どうした、冬夜!?」
突然、冬夜の頭が割れるような激痛に見舞われた。あまりの痛さに冬夜は悲鳴を上げながら頭を強く押さえる。
自分が思っていることを拒絶するような感覚を味わっているとき、冬夜の頭に何か声が聞こえてきた。
その声全ては――――聞きなれた自分の言ったことのないような声であった。
「君の――は――」
「絶対に――――けに――!」
「間に合え――――」
「僕は――――だ」
「ごめんよ、――」
「こんな結末じゃ!! こんな最期じゃ!! ――――――――……!! 死んでも死に切れないっ!!!!」
「だめだぁっ……! まだ何か足りない……!」
「足りないって、何がだ!」
冬夜の声を聴いた親友が冬夜に聞く。
だがその声は痛みと声のせいで、冬夜の耳には届かなかった。
「誰なんだ……! 君はいったい誰なんだよ!」
「……冬夜」
どうすることもできないと分かると、親友はついに言葉をなくした。
(俺はまた、冬夜に何もしてやれないのかよ……!)
少年は悔しさで握り拳を握る。
数秒後、冬夜は気を取り戻したらしく、ゆっくりと顔を上げた。
幸い、自分たちの帰りが遅かったおかげで冬夜のことを不思議がる生徒は誰一人としていなかった。
そして、親友に手を引かれ体を起こした。
「冬夜、立てるか?」
「大丈夫、それぐらいなら」
体を起こした冬夜は、体中のホコリをたたきながら落としていく。
そして、呆然と立ち止まっている親友を置いて少し前に歩くと、プログラムでも打ち込まれたようにぴたりと止まって振り向いた。
その表情はこれほどにないほど曇っていた。
「………………またごめん」
「冬夜、今日は家帰って寝た方がいいぞ」
そう言われ、冬夜は向きを変えると「さよなら」と一言言って自転車小屋に向かい、自転車にまたがるとすぐさま家の方へと走って行ったのであった。
「ただいま……」
自転車を小屋に収納した後、冬夜はゆっくりと玄関のドアを開けた。
しかしゆっくり開けたのにも関わらず、その人物はすぐさま玄関に走ってきた。折角見つからないようにゆっくりと開けたのに……。
「おかえり、冬夜君!」
「ただいま、母さん」
家に帰って来て見つかりたくなかった人物とは、冬夜の母親のことだった。
メールでごはんいらないからと言いつつも、すぐに帰ってくるとやはりいい思いはされないだろう。
「冬夜君早いわね。ご飯食べてきたの?」
「うん……食べてきたよ」
「……少し顔色が悪い気もするわね」
(まぁ、友達の前であれほど喚いて騒いだら顔色も悪くなるかも……)
冬夜は母親に今の表情を知られないように、顔をそらした。
「それじゃ、僕は上に行くよ」
「冬夜君、お大事にね」
そう言って、冬夜は洗面所に向かって手洗いうがいをした。いつものお決まりである。
階段をゆっくりと登った冬夜は、自分の部屋のドアを開け荷物を下ろす。
肩の荷が下りたので、制服を部屋に置いてあるハンガーにひっかけると、まだ寒いので風邪をひかないように寝間着を着用する。
どっと疲れが出てきた冬夜は、体から力を抜いてベッドにうつぶせになった。
(あの言葉は一体何だったんだろう)
ベッドに横になりながら、今日学校で聞こえた声について冬夜は深く考えていた。
自分の言ったことのない台詞。しかしあの台詞からは何かの想いが混じっているように聞こえた。
自身の声だったのにこんな風に思うのは不自然だろうけど。
そんな時、睡眠薬でも飲んだようにいきなり眠気が冬夜を襲った。おそらく今日一日で様々なことが起きたおかげで体が疲れているのだろう。
(学校から宿題も出てないし、休んでも大丈夫なはずだ)
いますぐやらなくちゃいけないことは無いと判断した冬夜は、そのまま眠気に身をまかせて目を閉じるのであった。
冬夜が眠っている間、別の家の屋根の上から冬夜を監視するように観察するものが二人いた。一人は神主のような姿をした薄茶色の髪の青年。そしてもう一人は白髪の小柄な少女で、まだ冬なのにワンピース一枚しか着用していなかった。しかしその少女は人間の姿をしているが、その体には髪の毛と同じ白色の獣の耳と尻尾を有していた。
少女は青年の手を握りしめながら、苦い表情で冬夜のことを真剣に見つめていた。
「とうやは……わたしのことを思い出してくれるかな」
「君が心配ないと言ったんじゃないか。――君の信じる冬夜君なら、すぐに君のことを思い出してくれるさ」
青年は少女に楽しそうな笑顔を向けながら、そのまま楽しそうに話し続ける。
彼らは知っているのだ。冬夜が今苦しんでいる本当に理由を。
「確かに記憶を消したのは私だ。けれどもそれを承諾したのはきみじゃないか――彼の了承も得なかったんだろう」
「……」
青年の受け答えに少女は沈黙を貫いた。
少女の冬夜の様子を眺める時間が増えていくにつれて暗くなっていくが、青年はそんなことを気にしない。
「それに結局、彼には本当のことを話さなかったんだろう? あれが最後のお別れかもしれないのにさ」
「わたしは……とうやを信じているから」
少女の手を握る力が強くなる。少し痛いのか青年の顔がゆがむが少女はそのことに気付いていないようだ。
(ここまで来ると本当にすねている子供みたいだ。『四気神』でもあるのに。)
これ以上少女をここに居させるのは精神的に危険と感じた青年は、少女の手を引いて空へと飛び立つ。
手を引かれ空を舞う少女は、届くはずのない冬夜の方へともう片方の手を伸ばす。そのもう片方の手が、いつか彼に届くことを信じながら。
わたしは…………。
あの後、眠っていた冬夜は午後六時に起床した。
ひと眠りしたおかげか冬夜の調子はすこぶる良かったみたいであった。
そのあとはいつもの通りに家族と食事をし、適当にテレビを眺め、弟に軽く勉強を教え、一人でのんびり風呂に入り、そして深夜の現在に至る。
(明日も学校だからな、早く寝ないと)
一通りのことをやり終えた冬夜は、自分の部屋で明日の支度を行っていた。
と言っても、教科書はすぐに見つかるし、ノートだって例外ではないので、すぐに用意は終わってしまう。
教科書を詰め込んだスクールバッグをそこら辺に置くと、部屋の電気を消してベッドに入る。そしてベッドに置いてある分厚い布団を二枚程かぶる。
早く寝ようと目を閉じてはみたが、昼に寝てしまったせいか、とても寝つきが悪い。
しょうがないからとスマホに入っている音楽機能を使用して、両親や弟に聞こえないように少量で音楽を流す。
スピーカーから聞こえてくるのは、お気に入りのあの曲であった。
(こういう曲が寝る前に一番良いんだよね)
曲を聴きながら、冬夜は布団の中で満足そうに体を丸めた。
すると、さっきまでなかった睡魔が冬夜のもとに現れた。
最初から眠りたいと思っていたので、特に抵抗する意思は見せないで冬夜は気を休める。
意識が薄れる中、冬夜は曲の音量が小さくなっていくのを感じた。
そして眠る頃には、今日の朝起きたことなど気にしないぐらいの、安らかな寝顔を浮かべながら就寝するのであった。
次回、一章完結予定。