八日目 前
ふと、柴咲冬夜はベッドの上で目を覚ました。
外の空気はいつものように寒く、布団の中から出ることを拒みたくなる程だった。しかし、外の天気は晴れていて、そんな気分をもぶち壊してくれるほどに清々しかった。
布団をめくって隣を確認する。しかし隣には誰も居なく、虚しい寒さが肌をかすめた。暖房のあるところに向かおうと、充電されている携帯を持った後、冬夜はベッドを下りて一階に向かう。冷たい地面が自分の裸足に触れると、体が小刻みに震えた。
そんな感覚に、今までのことは――全て夢だったんじゃないかと幻想を抱いていた。
昨日あったきなを奪還するための戦い……。自分はあの戦いに勝ったのに、隣には天野もきなも居ない(天野は隣で寝ていてほしくないが)。そうすると、今までの自分の行いは、自分が過ごしてきた日常は、全部夢だったんじゃないかと、自分の妄想なんだと――思うしかないじゃないか。
そんな風に思いながら、もしかしたらきなは下にいるかも、と最後の希望にすがるために、早足で一階に駆け降りた。
一階には、きなの姿は見えなかった。探そうと思い一歩踏み出そうとしたその時、台所の方から「わふっ!?」とどこかで聞いたことのあるような声が聞こえてきた。――夢じゃなかった。心の中で喜んだ冬夜の顔はほころんでしまった。
ゆっくりと気付かれないように冬夜はキッチンに向かうと、地面に膝をついて掃除をしているエプロン姿のきながそこに居た。目を凝らすと……白い何かがきなの体や髪の毛にべっとりとたくさん付いていた。どうやら何かをこぼしてしまった展開らしい。
冬夜の気配に気付いたのか、きなは汚れたまま後ろを向いた。冬夜を見たきなの顔はすごくうれしそうだった。
「おはよう……きな」
「おはよう! とうやっ。やっと起きたんだね」
やっと――?という言葉に疑問を抱いた冬夜は、持っていたスマホをすぐさま確認する。スマホが示した日付は、『一月二日』であった。どうやら昨日一日中寝てしまったらしい。
スマホを確認した冬夜は、きなに近寄って、汚れているきなを手で拭いた。どこかで嗅いだ事のある甘酸っぱいにおいが漂って来た。
「何作ってたの?」
「……あまのさんが、体に良いからヨーグルトでもとうやに作ってあげなって」
なんだろう、天野さんに敬意と殺意が沸いてきた……。冬夜は心の中で天野に善と悪の感情を抱いたのであった。
「……ふぁんくしょんっ!」
天界で絶賛仕事中の天野がくしゃみをしたのを、冬夜ときなは知らない。
きなの体を拭きとりながら、ふと冬夜は考える。一日多く寝てしまったということは、自分は風呂に入ってないことになる。しかし、特に不快感はない。
「きな、僕が寝てる間に僕に何かした?」
「うん。おふろにはいれないと思って、体をふいといてあげたよ?」
冬夜はそれを聞いて動揺してしまう。一方のきなは不思議そうに首を傾げているが。
(――寝てる間に……きなに体拭かれたの!?)
冬夜は変に考えてしまう。いつもお風呂に入っていると言う感覚とは別に、何か恥ずかしい物を感じてしまうのだ。
戸惑う冬夜をよそに、きなは思い出したかのように口を開いた。その表情は恥ずかしそうに赤面し始める。
「あっ、でもでも……ズボンの下は拭いてないよ?」
「……そうなの?」
ほっ、と冬夜は胸をなでおろした。
しかし、一日お風呂に入っていないというのは気分が悪いので、やはり入る必要があるだろう。
「きな、そのままだと匂いがついちゃうだろうから、朝からだけどお風呂入ろうか」
「とうやも入るの?」
「うん。昨日入ってないから、僕もお風呂に入りたいんだ」
そう言うと、きなは嬉しそうに笑顔を浮かべた後、尻尾をせわしなく動かした。よほどうれしいのだろう。
そう思った冬夜は、きなを置いて風呂場へとお湯を入れに向かった。そんな冬夜の後ろでは、きなが冷蔵庫から何かを取り出す音が聞こえた。
「きなー、お風呂沸かしてきたから少し時間かかるけど何する……?」
「あっ、ちょうど良かったとうや!」
風呂を洗い終わってリビングに帰ってきた冬夜は、テーブルの側で食事の支度を始めるきなの後姿を見た。――いいお嫁さんになれるなぁ……。とエプロン姿が似合うきなについつい思ってしまった。
ご飯は何かなと、きなの後ろから確認すると、テーブルの上にはどこかで見たことのある高級そうな重箱が置いてあった。
「きな……これってもしかして……」
「あまのさんがくれたんだよ」
きなは楽しそうにテーブルに重箱を広げていく。中には前に見たように豪華な食材が並んでいて綺麗だ。冬夜はお節を見ながら数の子を最初に食べたのを思い出して赤面した。もちろんきなには分からないように後ろを向きながら。
「それじゃ、食べようか」
「いただきます!」
二人は箸でお節を取ると、きなはおいしそうに頬張り、笑顔を見せていた。冬夜は前に食べたので、感動はしなかったがやはりおいしい、何度食べても飽きないんじゃないかな……とまで冬夜は思っていた。
「とうや、脱ぐよ……」
相も変わらずだが、冬夜はドア越しから聞こえる布と肌が擦れる音を、唾をのみながら聞いていた。これに慣れるには相当な時間が必要だ。冬夜は自分の経験値不足にため息をついた。
朝ごはんであるお節を冷蔵庫にしまった二人は、沸いたお風呂に入るためお風呂場に居た。いつものように着替えるのはきなが先であり、冬夜はドア越しできなが着替える音をドキドキしながら聞いていたのであった。
「とうやー、準備できたよ」
「うん、分かった」
きなからの合図があると、冬夜は恐る恐るスライド式のドアをカラカラと開ける。そこにはタオル一枚のきなが立っていた。
「……はずかしい」
きなは困った顔で言った。理由は冬夜がさっきからきなのことをじっと見つめすぎているせいである。
しかし一緒にお風呂に入るのは良いのに、じっと見つめられるのはなぜ嫌なんだろうと、冬夜は不思議に思った。そしてきなを先にお風呂に入れると、冬夜は来ていた服を脱ぎだして洗濯かごの中に放り込んだ。腰にタオルを巻いた後、冬夜は風呂のドアを丁寧に開けた。
風呂の中ではきなが気持ちよさそうに浸かっていた。冬夜も風邪をひかないように、すぐさま湯船に浸かった。体にお湯の温度が広がって行くのを感じながら、きなと一緒に入れるように冬夜は体育座りをする。
きなと一緒に入るのは久しぶりだ。
冬夜はきなが居なかったときのことを思い出していた。
きなと会ってから数日間だけだったが、冬夜にとってその数日間は自分にとっての日常になっていたのだ。そして、きなと別れたあの二日間。――あの二日間は虚しくて仕方なかった。
だからこそ……戻ってきてくれたこの日常は手放しがたいものであった。
「とうや……」
ふと、きなの声が聞こえたので思考を停止させると、きなが冬夜の方に近寄ってきた。お互いあまり見ないようにしているのに、きなは何の躊躇も無く冬夜に近づく。
冬夜は手を横に振り、きなに「駄目だよ!」とサインを送っているつもりなのだが、きなはその手を通り抜けて、冬夜の顔に近づいた。
駄目だ!――と覚悟をした冬夜が両目を堅く閉じた後、柔らかく細いものが冬夜の右の目下に触れた。
冬夜は逆の左目を薄く開けた。きなが片手を伸ばしているのが見える。右目に触れたものの正体は、きなの指だった。
そうして、きなは首を傾げる。
「とうや……どうして泣いているの?」
「…………えっ?」
最初、冬夜はきなに言われたことに理解できなかった。
だから、おそるおそる左目の下を自分の指で触れてみる。指先には涙の雫が乗っていた。――それはお湯でもなく、自分の汗でもなく。自らの瞳から流れた涙だということを冬夜は理解した。――――それと同時に
どうして自分が泣いているのかと言うことも――。
そんなことを考えていると、目の前できなは半分泣きそうになりながら、再度冬夜に問い詰めるのであった。
「ねぇ……どうしてとうやは泣いているの? もしかしてきなのせい?」
「ちがうよ。僕は嬉しくて泣いているんだ」
冬夜は優しい笑顔を浮かべながら、お湯で湿っているきなの頭を撫でた。顔の表面にはまだ涙を流しながら。
「きなが戻ってきてくれたことがうれしいから、僕は泣いているんだよ」
「嬉しいの……?」
「うん。きなと一緒に居れて、すごくうれしい」
冬夜は大粒の涙の流して、きなに対して――自分に対して素直な気持ちを伝えた。きなの心の奥に伝わる事を祈りながら。
きなはすぐさま後ろを向いてしまった。もしかして、変なこと言ってしまったのかな。冬夜は心の中で不安になってしまった。
一方のきなはと言うと……。後ろを向いて胸に手を当てていた。――ドキドキする心臓を押さえるように。
(なんでだろう……。とうやが笑ってくれると、ここがどきどきするよぉ……)
恋。その感情を知らないきなにとっては、胸のドキドキする感覚は新鮮で、それでいて不安になる。どうすればいいかわからないものであった。
きなのことは大丈夫かな。
そう思った冬夜は、体を洗うために立ち上がる。すると、後ろを向いているきなの背中がびくっと震えた。
「大丈夫、きな? のぼせちゃった……?」
「違うよっ!! 大丈夫だよとうやっ!!!?」
冬夜が声をかけると、きなはすごく焦ったように言葉を返した。
冬夜がきなの顔を覗くと、どこか顔が赤いような気がする。と思ったが、ここはお風呂なので少し赤いくらいなら大丈夫かなと、きなの言葉を受け入れて冬夜は体を洗うのであった。
「にゃぅ……」
冬夜は、体と頭を洗う際に付いたシャンプーの泡をシャワーで全て洗い流した。全て流れたことを確認するとシャワーを止める。
「きな、シャワー空いたよ」
「う……ん……」
きなは曖昧な返事をすると、ふらふらと立ち上がった。
不審に思った冬夜はきなの顔を見る。さっきよりも赤くなっており、どうやら本当にのぼせてしまったようだ。――冬の季節なのに……。
冬夜はふらつくきなを支えるために両手を伸ばす。
肩に両手が乗った時、事件は起きた。
きなに巻かれていた白いタオルが、糸目が切れるようにはらりと落ち始めたのである。
(………………なっ!?)
それを見て驚いた冬夜は、すぐさまタオルを押さえる。早い対応のおかげで、きなのタオルが落ちることはなかった。
だが、触れている場所は悪かった。
タオルを押さえようと、とっさに差し出した両手はタオルの上……正確にはきなの胸の上に置かれてしまっていた。――やわらかな感触が冬夜に戸惑いを与えた。
慌てて冬夜は手を引こうとしたが、冬夜は頭の中で考える。
(このまま手を離したら裸になっちゃうし、二つの意味で危ない気がする……)
冬夜が慌てふためいていた時、ふと不思議なことに気づく。さっきからきなの反応がないのだ。
さすがにこんな状況にもなれば、あまり恥じらいの無いきなにとっても恥ずかしいと思うのだが、叫び声の一つも聞こえてこなかった。――どうやら、本当にのぼせてしまっているようだ。
冬夜は静かにきなのタオルを巻きなおすと、きなを風呂用のイスに座らせる。そしてのぼせてしまったきなの体を冷ますために、風呂の窓をきなが風邪をひかない程度に少しだけ開けた。
後は、きなが意識を取り戻すのを待つだけだった。
「うぅ……」
数分後、きなが呻き声をあげながら目を覚ました。きなの目の前では、心配そうにきなを見つめる冬夜の姿があった。
「どうしたの……? 」
「きな覚えてないのか。あの後きなはお風呂でのぼせていたんだよ」
心配そうに冬夜は優しく説明をするが、聞いている方のきなにとっては、さっきまで気絶していたのであまり実感がわいていないようであった。
「ところでだけど、きなはまだ体を洗っていないから、早く洗って出よう」
「うん。……あっ! だけど頭は」
「分かっているから、早く洗おうか」
きなの言葉の先を予想した冬夜は、きなの言葉をさえぎってきなの頭を再び撫でる。「わぅ」と小さくきなは鳴いた。
お風呂から出た二人は、きなの尻尾の手入れをするのに冬夜の部屋に来ていた。
ベッドの上では冬夜がきなの尻尾を右手で押さえて、もう片方の左手でブラシを持ってきなの尻尾を梳いていた。
(しかし、きなの尻尾はふわふわだな)
さっきお風呂から出たときは、尻尾が吸い取った水を拭きとるのに苦労したが、こうして乾かしてから触ってみるときなの尻尾のふわふわ感が大いに味わえる。――なんというか、ずっと触っていたい感触だ。
「とうや、どうしてにやついてるの?」
「いやいや、別にやましいことは……あはは」
どうやら尻尾のふわふわ感に浸っているときに、顔の筋肉がゆるんでいたらしい。きなに注意されてしまった。以後気をつけよう。
「とうやって、尻尾さわるのじょうずだね」
「そうかな?」
「うん! すごく気持ちいいよ」
「だからって、ばさばさ動かしたら尻尾を梳けないじゃないか」
動き回る尻尾を優しく押えながら、冬夜は嬉しそうにため息をつきながらきなの尻尾を梳いていった。
冬也ときなは尻尾を梳き終わった後、一回に降りて作り終わっていないヨーグルトを作っていた。
正確にはきなを心配した冬夜が一人で作って、一人で冷蔵庫に入れて、一人できなに作り方を改めて教えた。
そして……今現在。
「とうや……ここは?」
「あぁ、いい感じ」
「じゃぁ、ここは……?」
「あぁ……もうだめかも」
冬夜は教科書に指をさしてきなに勉強を教えていた。ちなみに今の範囲は中学校三年生あたりの勉強をしている。
ここまで学習能力が高いとなると、もしかしたらきなと一緒に学校生活を送れるんじゃないかとも思えてしまう。――これだけ勉強に興味津々ともなると学校に行かせたくなってしまう。
学費とか難しいことも考えなくてはいけないのだろうけど。
(それ以前に、これから僕はきなをどうすればいいんだろう)
勉強をしながらふと冬夜は考えてしまった。
冬休みももう半分くらい過ぎ去ったような気もする。きなとの約束期間は――冬休みの間である。
そのあと別にどうしようとか考えていなかった。
・家族として一緒に住む。
・施設に送る。
・ほかの方法を考える。
まず最初は……いろいろとまずい気がする。
なぜならば、このことを家の両親に伝えれば、「良いよ! 一緒に家族になっちゃおう!」とノリの良い僕の両親ならそう答えるだろう。――それは何か違う気がする。
二つ目。これはもう……論外である。なぜこんな回答が出てきたのか自体が不安である。
三つ目。これが一番妥当であろう。
「そうだね。きみはなにもしなくていいよ」
ふと、ある男の声が聞こえてきた。いつものように軽い態度で話しかけてくるのは……あの人しかしらない。
「……天野さん」
「そんなに警戒されるとひどく傷つくな……」
台詞の割には困っている様子が見えない天野が、冬夜ときなのテーブルの前に置いてある椅子に座った。
このとき、冬夜はどこか不穏な気配を感じていた。
人の気配ではない。前触れと言うか、そんな感じ。――なにかが無くなるような。
「冬夜君。君に話があるんだ」
「何ですか……改まって」
困ったような顔をしている冬夜を放って、天野は口を開いた。
「きな君を……私に譲ってくれ」
重たく冷たい空気が、肌に触れるのを冬夜は感じた。